第百十六面 今のうちに帰りな
お見合いの日から数日後。パトリックが家に訪ねてきた。
「ちょっと街まで行きませんか」
そう言われて、僕は家から引っ張り出された。着飾ってなんかいない、いつもと同じパンツスタイル。そんな僕を見てパトリックは穏やかに笑っている。
「あの場では驚いて見せましたけど、シャルルなんて名前使っても意味ないですよ。僕は庭師なんですから、普段の貴女の姿だって見ています」
「すみません、なんか、色々」
パトリックの案内で、僕達はページワン通りの喫茶店にやって来た。獣の多いぶたのしっぽ商店街と比べると、街の中心部へやや入ったところにあるこの大通りには人間の姿が目立った。
僕は帽子を被り直す。随分と前にアーサーに作ってもらったもので、長い兎の耳も覆い隠すことができる。しかし、パトリックは吹き抜ける風に耳の先を揺らしているので周囲の視線を集めてしまっている。垂れた耳がぴょこぴょこ動いていて少しかわいらしいな。
「じゃあ、入りましょうか」
店内もやはりトランプばかりだ。客も店員もそろってこちらを見て、すぐに視線を逸らした。居心地悪そうだな。
やる気のなさそうな店員の男に席へ案内される。僕達が座ったのを確認すると、彼は一瞬で態度を変えてきびきびと動き始めた。来る店を間違えてしまったのではないだろうか。ここはほぼトランプ専用と言っても過言ではないように思える。
メニューを眺めていると、パトリックが口を開いた。
「あの日、あの後、僕も両親に叱られてしまいました」
店員にアイスティーを注文してから、僕達は話に戻る。
「オマエがはっきりしないから彼女を不安にさせたんだ、って。ガーディナー家としては、ブランシャール家との繋がりをより強固にすることで安定を手に入れようとしているのでしょう。家のことは兄が継げばいいですからね。僕は婿として懸け橋になれと」
「パトリックさんは、好きな子がいるんですか」
お冷を飲んでいたパトリックが噎せた。
「あわぁ、ごめんなさい」
「……だ、大丈夫、です。……そう、ですね。はい。まだ、結婚とかそういうところまで進んでるわけではないんですけど」
「じゃあ、私と結婚するつもりはないんですよね? それなら、ちゃんと親に言わなきゃ。パトリックさんも嫌だって言えば、諦めてくれますよ」
「そうでしょうか……。そんなに簡単に行くかな……」
パトリックは俯いてしまった。本人の証言が得られたのだから、僕の言ったことは事実であったとパパンに言うことができる。僕とパトリック、どちらも同意しないとなればこの話はなかったことにできるかもしれない。
やる気のなさそうな店員の女がアイスティーを二つ持ってきてテーブルに置いた。そして、すぐに態度を変えて隣の席の客から元気よく注文を受け始める。
「上手くいくといいですね、好きな子と」
「……まあ、まずはお付き合いから」
「……そこからですかぁ」
僕はアイスティーを一口飲む。否、含んだ。飲み込んではいない。そもそも一口ではない。ほんの少しだ。
グラスを手にしたパトリックが僕を見る。飲もうとしていたらしいけれど、そのままグラスはテーブルへと下ろされた。
「ルルーさん?」
ほんの少しのアイスティーをお冷で流し込む。
「……なんか、変な味」
「え? ……んっ、う。本当だ。何ですかねこれ」
僕は周囲の客席を見回す。みんな美味しそうにコーヒーや紅茶を飲んでいるようだ。おかしいのは僕達の前に置かれたグラスだけらしい。きょろきょろと見ていると、目の合った客達はすぐに僕達から視線を逸らした。
「ここのお店美味しいって聞いたのに……」
しょんぼりとするパトリックの垂れた耳がふるふる震えている。
「この間仕事で行った家の人が言ってたんですよ」
「それってトランプですか」
「……あー! そ、そうか……。トランプ向けのお店だったんですね。美味しいって、それだけ聞いてわくわくしていた僕が馬鹿でした。……別のところにしましょうか」
店の雰囲気から、あまり歓迎されてはいないようだということはよく分かる。この変な味のアイスティーも「ドミノはこれでも飲んでろ」ということなのだろう。
パトリックが財布を取り出した。奢ってくれるのか、ありがたい。
お会計を済ませ、僕達は外に出た。ページワン通りを往来するトランプ達は皆僕達を蔑むように見ている。早くぶたのしっぽ商店街へ向かおう。
歩いていると人々がにわかに騒ぎ始めた。
「何かあったんですかね」
パトリックが通りの向こう側を見る。どうやら人だかりができているようだ。何かを取り囲んだ集団が、その塊を維持しながらこちらへ近付いてくる。トランプ達は一斉に道の端に寄ってしまった。僕達も一応それに従うことにする。
ほどなくして、白馬に乗った少年が大勢の王宮騎士に囲まれて姿を現した。濃い金色の髪が夏の日差しに美しく煌めいている。青い瞳は穏やかな優しさを滲ませながら人々を馬上から見下ろしていた。トランプ達は恭しく頭を下げている。豪奢な衣装を纏い、王宮騎士に囲まれていて、皆が頭を下げている。どこかで見た顔だ。
僕がぼんやり見ていると、パトリックは慌てて僕の頭を下げさせた。
「何してるんですかルルーさん!」
「いててててて」
騎士と白馬の少年が僕達の前に差しかかる。
「おい」
頭上から声がかけられた。声をかけてきたのだから応対していいのだろう。顔を上げると少年と目が合った。きらびやかな少年は眉間に皺を寄せて僕達を見ている。
「オマエ達ドミノだろ。なぜここにいる」
「え、えっと、僕らは……」
「あ! 分かったー! ウィルフリッド王子だー!」
パトリックの前で被っていた化けの皮がはじけ飛んだ瞬間だった。慣れない言葉遣いでお嬢様然としていたけれど、ついに素が出てしまった。馬鹿丸出しである。僕は王子様を指差し、アホみたいに口を開けている。勢いよく顔を上げたので帽子も脱げてしまい、僕の耳は風を受けていた。
王子様の顔が思い切り歪む。彼を取り囲む王宮騎士達が僕との間に割り込んだ。
「このドミノめ、無礼な!」
「殿下を指差すなど!」
「う、うわー! なんかごめんね! 分かったから言いたくなっちゃった!」
「ちょっとルルーさん! やめた方がいいですよ……」
パトリックが僕の腕を引く。
「ここは一旦撤退して……」
「汚らわしい畜生どもめ。ここはページワン通り、オマエ達の来るような場所じゃない。畜生はおとなしく森にでもいるんだな」
動物嫌いで有名なウィルフリッド王子。まるで宿敵、親の仇を見るかのような目だ。周囲のトランプ達も皆汚いものを見るように僕達を眺めている。
王子様を指差した無礼なドミノ。
早くこの場から離れた方がいい。しかし、こんなにも注目を集めてしまっているとうまく身動きが取れない。
パトリックは垂れた耳をぱたぱた揺らしながら目を回していた。こういう場面では役に立たなさそうだ。僕がどうにかしなければ。だが、どうすればいい。パトリックの手を引いて群衆の中を突っ切ればいいのか。少しだけでいい、ほんの少しでいいから隙ができれば……。
やや離れたところで悲鳴が上がった。僕達もトランプ達もそちらを向く。そして、群衆が何かから逃げるように道を空けた。
道に誰かが立っている。ゆっくりと歩み寄ってくるそれは、夏だと言うのに深くフードを被ったコート姿だ。肩からはイーハトヴ産と思われる銃を下げていた。そして、襟の辺りから少し長めの栗毛が覗いていた。おそらく男。若い男だ。僕は身震いする。
「で、殿下! 危険です! 今日はもう視察をやめましょう!」
「は? なんで?」
王宮騎士の一人が馬の手綱を強引に引っ張った。
「やつは危険です!」
「殿下、お早く!」
「殿下!」
「なんでなんで!? おい、そこの男。何者だ」
王子様に問われて、フードの男は立ち止まる。にやりと笑った口元がフードの影から見える。
「じゃっじゃーん! 呼ばれてないけど参上っ!」
広げられる腕。コートの胸元に塔を模した飾りが光っている。
「チェスですよー! こんにちはー!」
「チェス……?」
「昼間の街に?」
一瞬のどよめき。それはすぐにたくさんの悲鳴に変わった。通りにいたトランプ達がパニックになりながら一斉に逃げ始めた。王子様を乗せていた馬も驚いた様子で足を踏み鳴らしている。誰かの悪ふざけだろう。そう疑うこともできるはずなのに、誰もが我先にと逃げ回っている。偽物ではないかと思う余裕すら吹き飛んでしまうのだ。トランプにとってチェスはそういう存在だ。
僕の後方にいたパトリックはトランプの波に飲まれそうになりながらも、僕の手を掴んでいた。こんな状況ではぐれてしまっては大変だものね。
フードの男は銃を振り回して、トランプを怖がらせて遊んでいるようだった。ダンスを踊るようにステップを踏みながら、僕の前を通りかかる。
「人間共、邪魔だったんだろう? 道はできた。今のうちに帰りな」
水色を一滴垂らしたような青い瞳が僕を見る。
「……クロっ」
「ルルーさん、こっちです!」
パトリックに手を引かれる。遠退いて行く男は、フードを深く被り直した。
どうして。
助けてくれたの?
見てたの。
いつから。
なんで……。