第百十五面 こんなのいらない!
「は? 見合い? 誰が」
「僕が」
中で話そう、と言うことになり、僕達はリビングのソファに座っている。並んで座るニールとアーサーは驚いた様子で顔を見合わせた。
「それは、おめでとうございます……と言えばいいのですか?」
「めでたくないよ!」
「すみません」
目の前のテーブルには紅茶の揺れるティーカップとシュークリームが置いてあった。僕はシュークリームにがっつき、紅茶を一気に飲み干す。カップとソーサーがぶつかって音を立てた。
「あの生活から逃げたいのに、お見合いで政略結婚じみたことしたらもう二度と今の僕に戻れない気がする」
「んなこと言ってもよ、オマエは家を継ぐんだから仕方ねえだろ。跡取りがいるだろうよ」
「分かってるけど……。ニールは、僕がよく知らない男と親によって結婚させられてもいいの」
「俺にはオマエの家の事情は関係ねえからな。地主さんには逆らえねえし」
「アーサーは?」
「私は……。……ルルーの気持ちは、尊重されるべきだとは思います。しかし、地主さんにも考えがあってのことだと思います……」
分かってる。分かっているつもりだ。
三月の一族を僕の代で潰すわけにはいかない。しかし、家を守るためにお互いの意思に関係なくくっ付いてしまっていいのだろうか。パトリックにはきっと、好きな女の子がいる。僕なんかと無理やり結婚したら、パトリックにもその女の子にも申し訳なさすぎる。
「普通の家に生まれたかった……」
好きな服を着て、好きな遊びをして、好きなものを食べて、誰かに恋をして。そんな当たり前は、生まれた時から僕の元にはなかったのだ。良家のお嬢様はこうあるべきである、という理想を押し付けられて、ふりふりの服を着せられて、ピアノの練習をさせられて、同じような家の子供にばかり会わせられて、この人と結婚しなさいと決められて。僕には自由はないのか。
僕はドレスの裾を掴む。
何年前だったろうか。子供の頃、獣の良家が集まるパーティーに無理やり出席させられたことがあった。香水の匂い、お高く留まった女達、より金のある家に取り入ろうとする男達。あの空気とひらひらのドレスに耐えられなくて、僕は会場を飛び出した。自分を見てくる周りの視線がものすごく気持ち悪かったことを覚えている。会場の外では、あの人が僕と同じような顔をして蹲っていた。
汚い。汚い。
他のドミノとは違うんだといって、人間に媚びを売るようなやつらが嫌いだ。そうしてトランプと一緒にドミノを蔑むやつが出てくる。気持ち悪い。所詮ドミノはドミノなのに。バカみたいだ。パパンだって変なやつらにごますられてばっかりだ。
「こんなもの……っ!」
破れかかっているドレスの裾を引っ張り、びりびりにする。
「こんなのいらない! いらないっ! こんなもの!」
「何をしているのです!?」
「おいおい、オマエそれすっげえ高いやつだろ」
僕はドレスを破く。千切れたフリルやレースが宙に舞う。
「なんで僕が……。どうして僕がこんな……!」
なぜ僕が家を継がなくてはならないのか。
「いなくなったからだ……。あの女の所為だっ!」
「ルルー、落ち着いてください」
アーサーの手が僕の腕を掴んだ。簡単に振り払えてしまえそうな細い指だ。銀色にも見える水色の瞳には困ったような憐れむような、慰めるような、複雑な感情が浮かんでいるようだった。綺麗な顔だと思う。いつもなら「イケメンだよね~」と言って笑いかけることのできるような顔なのに、今の僕にとっては恐ろしいものでしかなかった。気持ち悪い。反吐が出るくらいそっくりだ。
「離っ、して……! 嫌!」
アーサーの手を振りほどく。
「ルルー……!」
「来ないで!」
鈍い音がした。振り上げた手が側頭部に当たったらしい。帽子が脱げ、上体が傾ぐ。
「っ、ごめっ……」
アーサーを受け止めたニールは初め驚いたようだったけれど、すぐに僕を睨み付けた。弟を支える手が獣のものに変わりかけていて、口元からは鋭い牙が覗く。僕のことを、弟を傷付ける対象として認識している。こんな顔をされるのは初めてだった。
呪いに耐えるように首を振って、ニールは僕を見る。
「大丈夫か馬鹿兎。顔色悪いぞ」
これもまた同じ顔だ。
あの女の所為だ。全部あの女の。
僕はリビングを飛び出す。廊下を抜けて玄関のドアを開けると、今一番会いたくない人が外に立っていた。後ずさろうとしたけれど、足が動いてくれない。眼前の人物のブルネットの毛先が僅かに揺れる。長い耳は、僕の出方を窺うために周囲の音を集めているように見えた。
追い駆けてきたニールとアーサーの足音が背後で止まる。どちらかは分からないけれど、はっと息を呑む音が聞こえた。
「大地主様」
「地主さん」
「パ、パパン……」
三月の一族現当主は静かに手を振り上げ、娘の頬を打った。威圧されて力の入っていなかった僕の体は簡単にバランスを崩し、玄関にへたり込むことになる。左頬がじんじんと痛む。
「馬鹿者っ! オマエは我が家に恥をかかせるつもりなのか!」
「大地主様、落ち着いてください」
「黙れ帽子屋! これは我々親子の問題だ。口を出すな」
「すみません……」
パパンは僕の腕を掴んで強引に立ち上がらせ、外へ引っ張り出す。お茶会セットの脇に馬車が停まっているのが見えた。車体には麦藁を象ったブランシャール家の紋章がでかでかと飾られている。何を話すことも、何をすることも許さない勢いで馬車の中に僕を押し込んでドアを閉める。そして、狼狽えるチェシャ猫と帽子屋を目にも留めずに馬車は出発した。
ほどなくして屋敷に着くと、パパンは「書斎に来なさい」と言い残して馬車を降りた。僕はぼろぼろのドレスの裾を握りしめて車窓を見る。このまま馬車でどこかへ行ってしまいたい。パパンのお説教なんて聞きたくない。降りるように御者に言われ渋々下車すると、メイドのメアリーが困ったような顔をして玄関の前に立っていた。
メアリーの横を過ぎて僕は屋敷に入る。
使用人達は僕のことをちらちらと見ながら仕事をしていた。ひそひそと何やら話している声も聞こえる。彼らの話題に上がっているのは破れたドレスか、腫れた頬か。
自室に入り、僕はドレスを脱ぎ捨てる。絨毯に落ちたドレスはメアリーによって拾われた。
「お嬢様」
「そうだよ。僕はお嬢様だ。抜け出そうとしても抗うことのできない家に呪われたお嬢様だ」
「何が嫌なんですか? 結婚することですか? パトリック様のことですか? 家督を継ぐことですか?」
メアリーはドレスに付いた土を見つめている。
「パトリックは悪い人じゃない。でも、彼は僕の恋人ではないし、彼も僕のことを愛しているわけではない。パトリックには好きな人がいるんだよ、たぶん。それに、本当は僕じゃないんだしさ。僕が継いでしまったら、戻ってくる場所がなくなってしまうんじゃないかって」
「誰が……?」
「戻っては来ない……と思うけど……。帰る場所をなくすのは……」
「お嬢様、誰のことを仰っているんですか」
メアリーが不思議そうに僕を見る。
「あ……。あぁ……。誰、だろうね」
彼女は知らない。我が家へ来たのは五年前だから。教える必要はないだろう。
僕はシャツとズボンに着替える。サスペンダーを着けて姿見を覗き込むと、そこにはお嬢様の姿なんて映っていなかった。残念な胸も相まってさながら市井の青年だ。左頬が腫れているけれど、工場の頑固親父と揉めたのだろうか。
しかし、メアリーの呼び掛けで僕は引き戻される。姿見に映るのは崩れたメイクで汚れた女だ。
顔を洗ってから、僕はパパンの書斎へ向かった。ドアをノックすると「入りなさい」と声がした。恐る恐るドアを開ける。椅子に座ったパパンは組んだ手を机に置き、静かに僕を見ていた。
「ルルー」
「……はい」
「どうしてくれるんだ一体」
「ごめんなさい」
「めちゃくちゃだ」
パパンは大きく溜息をつく。
「パトリック君に不満でもあるのか」
「彼には好きな子がいます」
「聞いたのか?」
「憶測、だけど……」
そう。憶測に過ぎない。直接聞いたわけではない。思い悩んだ様子の彼を見てそう思っただけなのだ。
「オマエにはこの家を継いでもらわないと困る」
「僕じゃないでしょ」
「何?」
パパンは眉を顰める。
「この家を継がなきゃいけないのは僕じゃないでしょ。別に押し付けようとか、自分が継ぐのが嫌だとか、そういうんじゃない。僕が継いでしまったら、あの人はどこに帰ってくればいいの」
その後、一瞬、何が起こったのか分からなかった。気が付いた時には、僕の傍らにペーパーウェイトが転がっていた。丸まった兎を模したガラス製のペーパーウェイトが腹を見せて落ちている。パパンが愛用しているものだ。落ちているのを確認して、僕はパパンがそれを投げたのだと認識した。
顔を上げると憤怒の形相のパパンと目が合った。これはうさちゃんの顔じゃないな。
パパンはペン立てを持ち上げて息を荒げている。それも投げてくるのかと思ったけれど、大きな音を立てて机に下ろした。ぎらぎらと危険な光を宿す瞳は激しく揺れながら僕を睨みつけている。
「アイツの話をするんじゃないっ……! あんなやつ知らん!」
出てけ! そう言われて、僕は退散することにした。