第百十四面 今日はいい天気ですね
三月ウサギ
ルルー・ブランシャール による 日々の記録
目の前にカップが置かれている。中には紅茶。そして傍らにロールケーキがある。
いつもだったら。いつものように、ニールが淹れてくれたお茶だったら。アーサーが作ったお菓子だったら。ナザリオとアリス君が隣にいてくれたら。きっとすぐにお茶を飲んでケーキを食べただろう。
しかし、僕の手は動かない。いや、動いてはいる。けれどそれは自分の意思に反して、小刻みに震えていた。
「えっと、ルルーさん」
無言のままの僕に戸惑った様子で眼前の男は言った。
「きょ、今日はいい天気ですね……」
「……雨ですわ。今年もそろそろイーハトヴの実験の季節ですから」
「あ、ああー。すみません」
早くみんなのところに行きたい。
「ルルーさん、ご趣味は?」
「お茶……です……。パトリックさんは?」
「庭いじりですね!」
「へ、へえ……」
僕達の間には沈黙が流れる。
パトリック・ガーディナー。柔らかそうなライトブランの髪の間から同じ色の毛で覆われた長い耳が垂れていた。ガーディナー家は庭師の家系であり、ブランシャール邸の庭もたまに手入れを頼んでいる。彼はタキシード姿で、着慣れていないらしく彼の方が衣装に着られているようだった。
僕もまた、着慣れないドレスを纏っている。ひらひらのフリルとレースが幾重にも重ねられたオレンジ色のドレス。もこもこしていて動きにくいし、足元がスースーする。
こんな女の子みたいな格好をするのはいつ振りだろうか。
吐きそう。
どうしてこんなことになっているのだろう。
一週間前、「大切なお話があります」とパパンが言った。朝食の後、書斎に来るように、と。僕が書斎に行くと、パパンは写真を見せてくれた。人の良さそうな好青年が写っている。彼の姿は何回か見たことがあった。庭の木を切っていたはずだ。
「パトリック君だ」
「庭師の?」
「オマエの見合い相手だよ」
「…………は?」
その後僕はものすごく大きく何だかよく分からない叫び声を上げた。パパンは目を丸くして驚き、使用人達が慌てた声を上げて書斎のドアを叩いた。お嬢様どうしたのですか、と。
「な、何言ってんの。冗談だよね」
パパンは真剣な顔をしている。
「オマエはこの家を自分の代で潰すつもりなのか?」
「そんなわけないじゃん。でも、なんでいきなり」
「パトリック君はよくできた青年だ。それに名のある庭師の家系で、うちとも付き合いが長い。まずは挨拶をするだけでいいから」
見合いは一週間後だから、とパパンは言った。
そして今日、お見合い当日。
目の前に座るパトリックはにこにこと微笑んでいる。悪いやつではなさそうだ。
「る、ルルーさん、えっと、次何の話しよう……」
同席していた両親は別室に移って談笑しているらしく、部屋にいるのは僕達だけだった。漏れ聞こえてくる声から察するに、彼らは随分と楽しんでいるようだ。家同士の関係は良好。僕とパトリックをくっ付ける気満々らしい。
確かにブランシャール家とガーディナー家の結びつきが強くなれば、両家にはいいことばかりだ。政略結婚なんて、という声が一般家庭からは飛んできそうだ。自分の家は一般家庭ではない、そう言い聞かされているような気分になる。実際にそうなのだろうけれど。
三月の一族は数えるのが嫌になるくらい何年も前に北東の森の広範囲を国から与えられた。詳細は知らないけれど、遥か昔の先祖が伝説の勇者アリスと関わりがあったとかなかったとか言われているそうだ。その際に名乗ったと言われる三月の名は我がブランシャール家に今でも受け継がれている。
パトリックは困ったように苦笑した。
「あはは、何を話せばいいのか分からなくなっちゃいました」
「……パトリックさんはこのお見合いについてどう思っているんですか」
「えっ?」
「ぼ……わたしなんかと、親に言われて結婚して、それでいいんですか」
手の震えが止まらなかった。
彼は悪い人ではないのだ。しかし。
パトリックは視線を伏せた。僕との会話は続かない。彼にも何か思うところがあるのだろうな。眼前の垂れ耳ウサギは視線を彷徨わせる。
「俺は……」
「あなたはどう思っているんですか」
「正直戸惑ってる。ルルーさんのことが嫌いとか、そういうわけじゃないんですけど。木の剪定してる時にちらっと見て、かわいいなって思ったこともあるし。でも……」
「……それを聞いてルルーも安心するでしょう」
僕の言葉にパトリックは顔を上げた。
「ルルー、さん?」
僕は椅子から立ち上がる。
「ルルーはとても不安だったようなんだ。見たことあると言ってもほとんど交流のないキミとお見合いなんて、って。即決されたら困るなって……。キミも不安なら、これを破談にしてもいいんじゃない?」
「あの……あなたは? ルルーさんじゃないんですか?」
こんなことをしてしまって大丈夫だろうか。いや、大丈夫だ。たぶん。
震える手と声を静めて、一旦深呼吸をする。そして、僕はシルクの手袋で覆われた指で口紅を拭った。
「僕はシャルル。ルルーの兄だよ」
「お兄さん? が、いたんですか?」
「兄を替え玉に送るような妹だ。君も自分の思いに正直になりたまえ。では」
ドレスの裾をつまんで走り出す。ドアを勢い良く開けると、談笑中の両家の父母がぎょっとしてこちらを見た。ママンの声を無視して僕はその場を駆け抜け、店員や他の客の間を縫うようにしてレストランを後にした。
ぶたのしっぽ商店街を抜け、北東の森に入る。雨上がりのぬかるみでドレスは汚れ、さらに枝に引っ掛かって破れてしまったけれど構うものか。
そうして僕はブランシャール家の敷地に入った。広大な、あまりにも広すぎる庭の一角に家が建っている。人の家の庭に住んでいるなんておかしな人達だと最初は思っていたけれど、庭の広さを持て余しているためにこうして人に提供して家賃を得ているのだ。
アフタヌーンティーの準備がしてある石畳の庭に、帽子を被った青年が立っている。
「おや、どうされましたか。ここは貴女のようなお嬢さんの来る場所ではありませんよ」
青年は穏やかそうに笑う。
僕はまだ唇に残っていた口紅をごしごしと拭った。
「冗談やめてよアーサー。僕だよ」
「……ルルー? どうしたのですか、そのような格好で。いえ、しかし、貴女は大地主の御令嬢なのですからそれが正しい姿なのかもしれませんが」
「どうしよう……。家に帰れないかもしれない……」
アーサーは手にしていたティーポットをテーブルに置き、僕に歩み寄る。
「何かあったのですか」
「パパンに叱られる……」
親の期待を裏切ることは初めてではない。お淑やかなお嬢様になってほしいという願いをはねのけて今の僕があるのだ。しかし、今回のことはガーディナー家にも迷惑をかけてしまったことになる。パパンもママンも相手方に頭を下げるのだろうな。
勝手に話を進めた親が悪い。けれど、これは僕のわがままとして認識されるのだろう。
「パパンが頑張って準備したもの、駄目にしちゃった……。僕は悪い子です……」
「一体何が」
視界が滲んだ。涙がぼろぼろと零れてきた。
「僕なんて……僕なんて……」
「お、落ち着いてください。話を聞かせてください。ね? ほ、ほら、泣かないで。……ぐえっ」
気が付いた時、僕はアーサーに抱き付いていた。変な悲鳴が聞こえたから、どうやら勢いに任せて突進したらしい。石畳と革靴の底が擦れる音がして、体が傾く。
「えっ、待っ……。ぅぐっ……! いっ、たたた……」
タックルをかましてアーサーを倒した僕は、そのまま彼の胸で泣いていた。
足音がして、玄関のドアが開く。
「おい! 今すっげえ音したぞ大丈夫か! って、何やってんだ馬鹿兎。帽子屋伸びてるじゃねえか」
「後頭部を強打しましたが私は問題ありません……。それよりもルルーが」
「……泣いてんのか? どうしたんだよ」
ニールの手が僕の頭を撫でた。優しく触れる大きな手が温かくて、それに縋り付くように僕は声を上げて泣き続けた。




