第百十三面 物は上へは落ちないからね
木戸の上に座る少年は銀色の懐中時計を弄んでいる。
「あ、あのぅ、そんなところに座っていたら危ないですよ。その建物、崩れちゃいそうだし」
「物は上へは落ちないからね。崩れる前に上に逃げれば問題ないよ」
そう言って少年はぶらぶらと足を揺らした。木戸はぎしぎしと軋んでいて今にも崩壊してしまいそうだ。見ているこちらが不安になってくる。
どこかで見たことのある姿だと思った。見た感じ高校生くらいだろうか。獣ではないから人間だと思うけれど、トランプの知り合いなんて限られている。すぐに思い出せないということは街ですれ違って印象に残っているとか、そういうことだろうか。
けれど、どうしてトランプが森にいるのだろう。王宮騎士ではなさそうだし……軍の人、というわけでもなさそうだ。
「……キミ中等学校の子? 子供がこんなところにいてはいけないよ。森には怖いドミノやチェスがいるからね」
「あなたもトランプですよね。どうして……」
少年は懐中時計をローブの中にしまうと、木戸からぴょんと飛び降りてきた。背後で木戸の横木がへし折れて地面に落ちる。
「あらら、本当に崩れちゃった」
「あのぅ……」
「ボクがここで何をしていたかって?」
「はい」
「それを知ってキミに何かいいことはあるのかな」
気だるげな目が冷ややかにぼくを見る。
「迷子なんだったらボクが街まで送ってあげるよ」
「いえ、大丈夫です。ブリッジ公爵夫人の関係者なので」
「へえ、公爵夫人の」
風でローブが揺れ、少年の服装がちらりと見えた。チェック柄の青いベストに……上着は黒いブレザーかな。外見年齢だけではなく着ているものも高校生のようだ。本当に高校生なのかもしれない。ワンダーランドの高校の制服がどのようなものなのかは知らないけれど。
少年は崩れた木戸の足元から何かを手に取った。銀色の鞘が美しい剣だ。帯剣しているということは、非番の騎士さんか軍人さんの可能性も出てきたな。休みの日でも愛剣と離れたくないタイプの人もいると聞く。
剣を佩いて、少年はこちらへ歩いて来た。
「ボクはここで風に当たっていたんだよ。キミはここへ何しに来たのかな」
「えっと、友達を探してて」
「友達?」
ぼくは両手を頭に近付けて獣耳が生えている真似をした。
「ネズミのドミノを見ませんでしたか」
「ドミノの友達がいるんだ?」
「ああ、はい……」
面白い子だね、と少年は笑う。ドミノと関わりたくないというトランプもいるのだから、ドミノの友達がいるだなんて言ったら物珍しがられるのだろう。
「それなら、さっき枕を抱えたネズミの男の子がごろごろ転がりながら向こうへ行ったよ」
本当に寝返りしながらどこかへ行ってしまっていたらしい。ナザリオの眠りは想像以上に深かったようだ。確かに今までも蹴られたり踏まれたりしても眠っていたけれど、まさか枝や石にぶつかりながらも眠ったまま移動するだなんて思わなかった。
少年は長めの髪を掻き上げて茂みを見遣る。左耳にピアスが光っているのが見えた。ピンク色の四葉のクローバーだ。ライオネルが右耳にしていたものと似ている。街で男の子の間に流行っているのかな。
そうだ、ライオネル。この少年どこかで見た顔だと思ったら、顔立ちが少しライオネルに似ているのかな。この子の方が少し穏やかでミステリアスな印象を受ける。髪色と瞳の色が違うからすぐには分からなかったけれど、こうして気が付いた後だと結構似ている気がする。
「昼間でもバンダースナッチは出るかもしれない。友達、一緒に探してあげようか」
「あの……王宮騎士の人、なんですか?」
少年は小首を傾げてから、はっとしたように剣の柄に触れた。
「ああ、違うよ。ボクは……。ボクは傭兵なんだ。今どき傭兵なんて、ちょっと古いけどね」
「それって血ですよね。怪我して……」
ぼくは少年のローブを見る。銀色のローブには赤黒い汚れが付着していた。少年はからからと笑いながら「昨日の夜ちょっとチェスに追い駆けられてね」と言う。
「でも大丈夫。これはボクのじゃない、相手のだ」
王宮騎士団や王国軍が部隊でいても襲撃されてしまうというチェスを一人で撃退したのだろうか。まだ子供なのに傭兵としてお金を得ているのだからかなり強いのだ。護衛としては十分か。
「子供からお金は取らないよ。友達が見つかるまでの間だけだしね」
「ありがとうございます。あー、ええと、ぼくはアレクシスです」
「アレクシス君だね。よろしく。ボクはランスロットだよ」
ランスロットと名乗った少年は血に汚れたローブを翻して歩き出す。
なぜだろう。彼の姿を見ていると不思議な感覚になる。どこかでずっと探していた気がする。この感覚を。白ずくめの女の人を追い駆けていた時にどことなく似ている気がする。
美しい装丁の本に出会った時のようだ。早く表紙を捲りたい、早く本文を読みたい。その思いを押さえこんででも見ていたい革張りで刻印の押された表紙。
白兎はぼくの憧れだ。ぼくに夢を見せてくれる、ぼくを不思議などこかへ連れて行ってくれる、道しるべ。そして、その夢の先にいるのはいつだってあの人だった。辿り着いた先で道を教えてくれるのは彼。
『鏡の国のアリス』でチェス盤の上を冒険するアリスは、次に進むべき場所をある老騎士に教えてもらう。作者自身がモデルであるとも言われる彼もまた、ぼくの憧れなのだ。ちょっぴりとぼけた印象もあるけれど、おかしな人ばかりの不思議の国と鏡の国で、優しくアリスを案内してくれた。
彼は――。
「白の騎士」
ランスロットが突然立ち止まった。ちらりとこちらを窺うように振り向いて、すぐにまた歩き出す。ぼそっと呟いたからびっくりさせてしまったかな。
数分歩くと、見覚えのあるパジャマ姿が草むらに転がっているのを見つけた。
「アレクシス君が探している友達はあの子かな」
「あぁっ! ナザリオ!」
どうしてそんなにぐっすりと眠っているの。
ナザリオは愛用の枕を抱きしめて寝息を立てていた。髪の毛には草や葉っぱが絡みついていて、パジャマも土塗れだ。ぼくは尻尾を引っ張る。
「ナザリオー、お茶の時間だから家に帰るよー」
「あうぅ」
「みんな待ってるから」
ゆるりと起き上がってナザリオは目を擦り、寝ぼけ眼でぼくを見上げた。
「おー、おはよお」
「おはようじゃないよ。早く帰るよ」
手を引っ張って起き上がらせる。
ナザリオはぼんやりとした様子でぼくの腕に掴まった。ランスロットのことは目に入っていないらしく、挨拶をする気配はない。それを察したのかランスロットも黙ってナザリオを見ている。しばらく舟を漕いでいたけれど、ひときわ大きく頭が振られた直後にナザリオは覚醒した。辺りを見回し、ランスロットに気が付くとぼくから手を離して飛び退いた。
枕をぎゅっと抱きしめ、警戒するようにランスロットを見る。
「……ナザリオ?」
「あんた誰だよ」
ぽかんとしているぼくの手を掴み、自分の方へ引き寄せる。
「誰。答えて」
「ボクはアレクシス君を案内してあげたんだよ。キミがごろごろ転がって行ってしまうから」
ランスロットはからかうように言った。煽っているんだろうか。珍しくナザリオの眉間には皺が寄っている。地団駄を踏む姿はとても子供っぽいけれど。
ぼくの腕を強く掴んでナザリオは歩き出した。
「あぁっ、ちょっと! ちゃんとお礼しなきゃ!」
「早く帰ろう」
振り向くと、ランスロットはにこやかに手を振ってぼく達を見送っていた。笑っている。そう見えるけれど、目だけは笑っていないようだった。青白い瞳は静かな月光のようにぼく達を無関心そうに眺めているのだ。美しい月の明かりには仄暗さが混ざっている。
ナザリオに手を引かれながら、ぼくは遠ざかっていくランスロットに手を振り返した。
家に戻ると、温かい紅茶とホットケーキがぼく達を待っていた。
「ナザリオ、さっきはどうしたのさ」
枕を抱えながらホットケーキを頬張るナザリオは、フォークを咥えたまま首を傾げた。
「ん。分かんないけど、あの子なんだか嫌な感じしたんだよね」
「誰かに会ったのですか?」
「ナザリオ、寝ながら転がって行ってたみたいなんです。偶然会った男の子に案内してもらったんですよ」
「オマエってやつは……」
アーサーさんとニールさんはあきれた様子でナザリオを見る。本当に眠るのが好きだよねナザリオは。
フォークをお皿に置き、ナザリオは低く唸った。
「んー。何だろうな。何か変だった」
「寝惚けてたんじゃないの? いい人だったよ」
「どんなやつだったんだよ」
「傭兵だって言ってました。ランスロットって言うそうです」
「子供の傭兵ですか……」
いい人だったけど、ちょっと不思議な人だったな。
森でまた会うことがあるかもしれない。その時はもう少し話ができるといいな。ここでは年の近い人にはあまり出会えないから。
ぼくはティーカップに口を付けた。