第百十二面 似合わないものなどありません
絵本の中から飛び出してきたのかと思った。
金色の髪が初夏の風に揺れる。夏空のような青い瞳が金色の向こうで煌めいている。
ぼくは声を発することも足を動かすこともできずに、呆然と彼女を見ていた。テーブルに置こうとしていたティーカップは指先にぶら下がっている。
「ごきげんよう」
鈴を転がすような声、というものはこういう声を言うのかもしれない。
「ごきげんよう。わたくしの声聞こえていますか」
「ひゃ、ひゃい、きこきこ聞こえてます」
ぼくが答えると、少女はくすくすと笑った。
「貴方が帽子屋さん? 思っていたよりもお子様なのね」
「ぼくは違います」
青や紺を基調としたドレスの胸元に黒いクラブの柄のリボンが揺れている。この人は人間だ。そして、このフリルとレースで飾られたドレスを纏っているということは相当な身分の人なのだろう。
あら、そうなの。と言う彼女の後方から見覚えのある人物が近づいてきた。裾の長さが前後で異なるこの形状は、フィッシュテールスカートというらしい。エレオノーラさんだ。
「姫様、お一人で行かないでください」
「貴女が遅いのよ」
姫様。
ということは、この少女がカレン王女なのだろうか。高校生くらいかな。絵本の世界からお姫様が飛び出してきたみたいで、この挿絵をずっと見ていたいと思って、ページを捲るのを躊躇ってしまいそうな立ち姿だった。
王女様はぼくの横に広げられたティーセットを眺めている。
ライオネルが追加の資料を持ってきてから一週間。使用人の人ができあがった帽子を取りにくる約束の日だった。しかしやってきたのは王女様御本人だ。侍女を連れて。
「しょ、少々お待ちくだささい」
思い切り噛んだ。王女様とエレオノーラさんは一瞬きょとんとしてから堪えるように笑う。ぼくは何事もなかった風を装いながら、カップをテーブルに置いて家に入った。
キッチンでお湯を沸かしていたアーサーさんに外の状況を伝える。やかんから昇る湯気をぼんやり眺めていた彼は、整った顔を大きく歪めて振り返った。驚きに目は見開かれ、口もあんぐりと開いている。そして、「はあっ!?」という声がキッチンに響いた。数秒の後、いつも通りの微笑に戻る。
「殿下御本人がいらっしゃったのですか」
「は、はい」
アーサーさんはぼくを上から下まで見る。
「アリス君、その格好で殿下に……」
ぼくは自分の服を触った。よく分からない英語のプリントTシャツに、赤いパーカー。そして膝の所が薄くなり始めているジャージ。考えなくても分かるレベルで王族に謁見する際の服装ではない。
「すぐ着替えて来ます……」
◆
◇
部屋に戻り、水色のロングジャケットに着替える。そしてもう一度姿見を潜ってワンダーランドへ行ってみると、アーサーさんも余所行きの服装をして姿見の前に立っていた。ぶつかりそうになったところでアーサーさんが数歩下がる。どうしてぼくの出入口を凝視していたのだろうかと思ったけれど、姿見は姿見なのだから自分の格好を確認していたのだろう。
濃紺のフロックコートに猫の形をした銀色のラペルピンが留められている。
「馬鹿猫に対応をさせています。行きましょう」
家の前に広げられたお茶会セットでは、箱を二つ持ったニールさんが王女様とエレオノーラさんにお茶を勧めていた。先程沸かしていたものだ。甘い香りが漂ってきている。
「おう、来たか。お姫様、こいつが帽子屋だ」
パウンドケーキを頬張っていた王女様が顔を上げる。アーサーさんは恭しくお辞儀をした。ぼくもそれに従う。
ニールさんが差し出した箱をエレオノーラさんが受けとり蓋を開けると、それぞれベレー帽と女優帽もといガルボハットがでてきた。この間とどこがどう変わったのかぼくにはよく分からない。分かることは素朴そうに見えてワンポイントの飾りやレースがかわいらしい印象を与えている、ということくらいだ。
王女様はベレー帽を被ってエレオノーラさんに微笑んだ。
「似合っていますわ、姫様」
「当然です。わたくしに似合わないものなどありません。ありがとう帽子屋さん」
「勿体ないお言葉……」
「いい腕をお持ちなのね、マーリン・キングスレーさん?」
王女様の言葉にアーサーさんの表情が強張る。さあっ、と血の気が引いてしまったように見えた。獣であるということを隠して行動する時に使っていた名前、マーリン・キングスレー。そんな名前のトランプなどいないということは白日の下に晒されており、もう使ってはいない。
白い手袋で覆われた左手が首筋に触れる。指が震えているのが見て分かった。首を押さえながらアーサーさんは退く。
異変に気が付いたニールさんが王女様とアーサーさんの間に割って入った。いつものラフなジャケットよりもフォーマルな印象のものを纏ったニールさんは、王女様に対して軽く一礼をする。
「悪いなお姫様。その名前はもう使ってないし……もう、使いたくないんだとよ」
「獄中を思い出すからですか?」
かわいい顔をして酷いことを言う。しかし、王女様の目は嘲りの色を含んでいるわけではなく、単なる好奇心で訊いたように思えた。悪気はないようだけれどアーサーさんは思い切り抉られている。
「すみません……私……」
「顔色が悪いようですけれど、わたくし何かしてしまったかしら」
「いえ……。殿下、お気になさらず……」
ぎこちなく口元を歪めて自嘲気味に言い、アーサーさんはニールさんの後ろに隠れてしまった。
拷問を受けているようには見えなかった。とエドウィンが言っていたけれど、捕まっていた時に実際どのような状況だったのかをぼく達は本人に訊いていないし、アーサーさんも話そうとしない。マーリンの名前にすらトラウマを覚えてしまっているのだから、口に出せないような酷い仕打ちを受けたのかもしれない。
「御注文の品は渡しましたので……」
「ええ、ありがとう。なんだかあまり具合がよくないようですし、そろそろわたくしはお暇します。行きましょうエレオノーラ」
王女様は紅茶を飲み干して席を立つ。そして、続いて立ち上がったエレオノーラさんにベレー帽を見せつけるように小首を傾げた。
「似合っていますわ、姫様」
「ふふふ。もし牡蠣に足が生えていたら、わたくしの美しさに惹かれて付いて来るかしら」
「付いて来たらお腹いっぱい食べられますね。ですが姫様、姫様は知らない人にふらふらと付いて行ってはいけませんよ」
「分かってるわ。子供じゃないんだから」
不服そうに口を尖らせて王女様はエレオノーラさんを軽く睨む。
「それではみなさん、ごきげんよう」
フリルとレースをふんわりと揺らしながら王女様が去って行く。ぼく達に軽く一礼してから、エレオノーラさんも去って行った。
二人の姿が茂みの向こうに見えなくなってから、アーサーさんはへなへなと石畳にへたり込む。震える手で自分の体を抱くようにして、焦点の定まらない目で石と石の境目を見ていた。
「帽子屋」
ニールさんの手が背中に触れる。
「殿下……カレン殿下は、お顔立ちが王妃様によく似ていらっしゃいますね……」
「大丈夫か」
「怖い……。王妃様、が……。今になって、こんな、思い出す、なんて……」
「お姫様にとってはただ単にちょっと気になることだったんだろうな。お城暮らしの姫様らしいぜ。綺麗な事しか知らねえんだ」
アーサーさんの背中をさすりながら、ニールさんはぼくを見た。上から下までじっくりと見て、にやりと笑う。
「やっぱり少し小さくなってねえか」
「七センチも伸びたんですよ!」
「何インチになったんだ」
「えっと、一センチは何インチでしたっけ」
「知らねえ」
ニールさんはアーサーさんの帽子を取り、ぐしゃぐしゃと頭を撫でる。そして、帽子を被らせると肩をぽんと叩いた。
「お茶にしようぜ。アリス、ナザリオのやつ起こしてきてくれねえか」
「ナザリオいるんですか?」
「ここで寝てるとさすがにお姫様に失礼だろ。そっちの方の茂みで倒れてると思うけど」
ぼくはニールさんの手が指し示す方へ視線を向ける。家の裏か。
今日はルルーさんが来ていないみたいだな。
茂みを掻き分けて進んでみるけれど、ナザリオの姿は見えない。呼びかけても返事はなかった。眠ったまま寝返りでどこかへ行ってしまったのかな。
名前を呼びながら歩いていると、どこからか歌が聞こえてきた。歌詞は分からない。ハミングだったから把握できるのはメロディだけだ。誘われるように進んでいくと開けた場所に出た。廃墟らしきものがあり、その木戸の上に人影がある。少年のようだ。
日光を受けて煌めく白い髪の奥で青白い瞳が気だるげに揺れている。纏っているのは鈍く光る銀色のローブで、所々に赤黒い汚れが付いていた。ぼくが小枝を踏みつけてしまった音に気が付いたらしく、その人物は鼻歌をやめてこちらを見下ろした。やる気のなさそうだった顔が驚きに包まれていく。
そして、少年は微笑んだ。
「やあ、こんにちは」
「こ、こんにちは……」
懐中時計を弄ぶ彼の右腕には、ぐるぐると包帯が巻かれていた。




