第百十一面 どれくらい進んでいまして?
家の奥を覗き込む女の人。スートを付けていないようだし、何よりもこの鋭い牙はヒトのものではない。彼女は人間ではなく獣だ。
「あの、家に何か……」
「アナタが帽子屋さん? 思ったよりも小さいのね。お子様じゃないの」
「ぼくは違います」
「じゃあお子さん?」
「違います。あの、あなたはどなたですか」
ぼくの質問に答えることなく、女の人は家の中に入って来た。
「すみません勝手に入らないでください」
「いいじゃないいいじゃないの」
「ちょっと……!」
ぐいぐいと押されてぼくは絨毯に転がってしまった。彼女の力が強いのか、ぼくが弱いのか。見た目よりも重量感があるように思える攻撃だった。尻餅をつくぼくのことを全く気にせずに、ドミノの女の人は廊下を進んでいってしまう。
魚のヒレのようにスカートの裾が揺れていた。彼女は何の動物なのだろう。
ぼくは起き上がって女の人を追う。足早に行ってしまうのかと思ったけれど動き方は結構ゆっくりだ。のそのそという表現がぴったりで、すぐに追いついてしまった。目の前にあったリボンの端っこを掴む。
「すみません、待ってください!」
ぼくの声に気が付いたらしく、アーサーさん達が廊下に顔を出した。その姿を目にした瞬間、女の人が大きく動いたためぼくは見事に振り落とされて再び絨毯に転がった。したたかにお尻を打ったうえに壁にぶつかってしまい非常に痛い。
「貴方が帽子屋さんね!」
先程までのゆっくりとした動きが嘘のように、女の人は駆け出す。そして返事をする前のアーサーさんに突進した。
「あぅっ」
「今回はよろしくお願いするわ!」
押し倒されたアーサーさんは必死にもがいているけれど押し退けることができないらしい。やはり見た目より重量感があるようだ。着痩せ……なのだろうか。弟のピンチにニールさんは素早く動いて女の人を強引に引き剥がした。アーサーさんは見事に伸びていて、ルルーさんが慌てた様子で揺さぶっている。
女の人が纏う見るからに上等そうな服の襟首を思い切り掴んで、ニールさんは彼女を睨みつける。
「何者だオマエ」
「レディをそのように扱うのはよくないわよ猫さん」
「答えろ」
女の人はニールさんの手を振り払って立ち上がると、スカートの裾をちょんとつまんでお辞儀をした。カーテシーという名前のあるお辞儀だということは家に帰ってから調べて知ったことである。大雑把そうな人だなと思って見ていたけれど、お辞儀をした瞬間纏う空気が一変した。凛とした佇まいを見ているとまるでここがお屋敷になってしまったかのようだ。
ぼくはお尻をさすりながらみんなに歩み寄る。ニールさんは女の人を睨んだままで、ルルーさんは気が付いたらしいアーサーさんを支えていた。
「私はエレオノーラ・モルチャノヴァ。第二王女カレン・ワン・ポーカー様にお仕えしております」
「王宮のやつか。なんだよ、帽子の催促か? 悪いがおとなしく待っててくれねえか」
「様子を見に来ただけですわ。どれくらい進んでいまして?」
「申し訳ありません、つい先ほど資料が届いたところなので、まだ何も……」
アーサーさんを見てエレオノーラさんは頷く。
「分かりました。そのようにカレン様にお伝えしますわ。とても楽しみにしていらっしゃるので、よろしくお願いしますわね」
一礼をしたかと思うと、再び纏う空気が変わった。がっつく勢いで踏み出す。
「で、お願いがあるのだけどいいかしら」
「は、はい?」
「私の分の帽子も注文するわ。細かいことには拘らないから、姫様と並んで問題なさそうなのを適当に作ってちょうだい」
エレオノーラさんはそれだけ言って、アーサーさんの返事を待たずに家を出ていってしまった。嵐のような人だ……。
王女様に仕えていると言っていた。公爵夫人のところにラミロさんがいるように、お城にもドミノの使用人がいるのだろう。雰囲気ががらりと変わる様子からして、エレオノーラさんは王女様とそれ以外に対しては随分と扱いが異なるようだ。王宮で仕事をしているとドミノでも他のドミノを低く見るのかとも思ったけれど、ぼくも吹っ飛ばされたからあれは主とそれ以外を分けて見ていると考えた方がいいだろう。進捗を訊きに来たついでに自分のものも注文するとは、抜け目がないとかそういうふうに言えばいいのかな。
追加注文を受けてしまったアーサーさんは力なくへたり込んだ。
「私の……睡眠時間が……」
「頑張ろう、僕も手伝うから」
声をかけるルルーさんに対して、ニールさんは玄関の方をじっと見ていた。そして視線をぼくに移す。
「アリス、不用意にドアを開けるな」
「え、でも。ぼくはここに住んでることになってるんだからいいんじゃないんですか?」
「駄目じゃねえけど、こんなに家の奥まで王宮の人間に入られると困る。さっきのは人間じゃねえけどよ」
確かにずかずかと入られたら嫌だよね。
エドウィンとクラウスでもリビングより奥へ通されているのを見たことがない。王宮の人間、とわざわざ限定するなんて何か理由でもあるのだろうか。姿見を見られたくないのかな。
「え、えと、ごめんなさい」
分かればよろしい、とニールさんはぼくの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「あぁ、そういえば……。おい馬鹿うさ、さっき慌てた様子で部屋に来たけど何か用でもあったのか?」
「あわっ。あう……。わ、忘れちゃった。あはははははは」
チェスのことについて何かあるのかと思ったけれど、もういいのだろうか。ルルーさんはぎこちない笑みを浮かべて玄関の方へ歩いて行く。
「きょ、今日はもう帰ろうかな。ま、またね」
ぴょこぴょこうさ耳が揺れる後ろ姿に「変なやつ」と呟いたニールさんの声は、ルルーさんには聞こえていないようだった。
◆
◇
「次の本をお持ちしましたよ」
そう言ってライオネルが訪ねてきたのは八日後のことだった。
「やぁ、アレクシス君……」
「こ、こんにちはぁ」
重そうなリュックを絨毯に下ろし、ライオネルはソファに座る。気だるげな青紫の瞳はテーブルに置かれた帽子をぼんやりと見ていた。
アーサーさんが寝る間を惜しんで作った帽子だ。ベレー帽がベースで、くすんだピンク色が素朴な印象を与えている。さりげなくレースの飾りが付いていてかわいらしい。その隣には所謂女優帽といった感じの鍔の広い帽子が置かれていて、こちらは落ち着いたベージュで小さなリボンがワンポイントにくっ付いている。
「へぇ、できあがっているじゃないですか。折角追加の資料を持ってきたのに。すごいなぁ帽子屋さん」
褒めている。賞賛していて手も打った。しかし、ライオネルの表情は貼り付けたような薄ら笑いのままだ。
「微調整するから資料はいるってよ」
ぼくの隣にはニールさんが座っている。アーサーさんはお昼寝中だ。さっきぼくが来た時には既に布団にくるまっていた。疲れているのだろう。
ライオネルはリュックを開けて本をテーブルに置く。そして、ぼくが差し出した返却する本をリュックにしまった。
「では、ボクはこれで」
うんしょ、とリュックを背負い、ライオネルはリビングを出て行った。ニールさんが玄関まで見送る。
それにしても、よくできた帽子だな。去年ティーセットを買うためにイレブンバック氏にたくさん作った時もすごいと思ったけれど、近所のスーパーで売っているものとは全く違う。ベレー帽を手に取ってみると、軽くて柔らかかった。あえて顔が見えるつくりにすることで「まさかあれが王族ではないだろう」「王族なら顔を見えないようにするはず」と相手に思わせることができるのだろうか。帽子のこととか王族のこととかチェスの思考とか分からないけれど。
ひっくり返したり横にしたりして帽子を眺めていると、不意に肩を掴まれた。
「うびゃああああああああああああああああっ!」
「何だよ!」
尻尾の毛を逆立ててニールさんが飛び退く。
「い、いつの間に戻ってきてたんですか」
「何回も声かけただろ無視すんな」
呆れた表情を浮かべながら、ぼくが手にした帽子を見下ろす。
「よくできてるだろ。それでもまだ調整が必要なんだとよ」
「細かいところまで作り込まれていてすごいです」
「……アリスにも作ってやろうか?」
「へ?」
ニールさんの手がぼくの頭に置かれた。気が付けば人の頭に手を載せていることが多いように感じるけれど、おそらく幼い頃にアーサーさんを撫で繰り回していた名残なんだろうな。大きな手で撫でられると安心してしまう。しかしもう少し優しくしてほしい。そんなにぐりぐりされると背が縮んでしまいそうだ。
「オマエ背ぇ伸びただろ。あの服ももしかしたら小さくなってるかもしれねえし、新調するんだったらついでに帽子を付けてやるよ」
「作るのはアーサーさんですよね?」
質問には答えずに、ニールさんはぼくの頭から手を離した。
「お姫様の依頼が終わったらミレイユに相談してみような。アイツならいい店知ってるだろうし」
「ありがとうございます」
服にはあまりこだわるタイプではないけれど、公爵夫人が見立ててくれた水色のロングジャケットは気に入っている。確かに去年より身長は伸びているから、後でサイズを確認しておこう。
お茶淹れてくるな、と言ってニールさんがキッチンへ向かう。戻ってくるまでもうしばらく帽子を観察していようかな。