第百十面 俺にできるのはこれくらいだからな
ぼくがリビングに戻ると、丁度アーサーさんがニールさんを蹴り飛ばしたところだった。
「クソ猫がぁぁぁっっ!!」
「ぐぇっ」
かっちりとした革靴の堅い踵による攻撃を受けてニールさんは絨毯に転がって行った。けれど、すぐに起き上がってアーサーさんを睨みつける。
「馬鹿この野郎腐れ帽子屋! 兄を蹴り飛ばす弟がどこにいるんだよ!」
「ここにいますが何か? お兄様?」
「何なんだよもう。腹蹴るなよ……痛ぇよ……」
「人に仕事を押し付けておいて、自分は雌狐といちゃいちゃいちゃいちゃと……!」
まあまあ落ち着いて、とルルーさんがアーサーさんを宥める。アーサーさんは不服そうだったけれど、渋々ソファに座る。ぼくもその横に座った。
「悪かったって。でも俺帽子作れないしよ」
「そもそも馬鹿猫が依頼を受けてしまったからこのような事になったのです。私の睡眠時間返してください」
「……あぁ、そのことなんだけどさ」
ニールさんはアーサーさんの向かいに座ると、ジャケットの内ポケットからぐしゃぐしゃの羊皮紙を取り出してテーブルに置いた。弟をからかっていたような目が真剣なものになる。その変化を見て、ぼく達は少し身構えた。
ルルーさんが持ってきたティーカップの中身を一気に飲み干して、ニールさんは羊皮紙を広げる。そこには六芒星に似た図形が描かれている。ワンダーランドの属するキャロリング大陸の地図だ。街をぐるりと囲む森の部分にバツ印がいくつか付けてあった。
「これは……何です?」
「ここ数週間でチェスの被害が出た場所だ」
南西の荒れ地、西の山、北西の山、北の森、そして南東の海岸。
「こんなに? 人間の森への立ち入りはこれまでよりも随分と規制されているはずではないのですか」
「普通のトランプはわざわざ森になんて入らないだろ、そもそも。どんなに制限されようとも、それに抗おうとするやつはいる。仕事で向かうやつもいるけどさ。この、西の山と北の森では肝試しだと言って出かけた若者が殺された。自業自得だ。北西の山ではブルボヌールとの国境沿いで警備兵が襲われた。多くは怪我で済んだみたいだが、死んだやつも数人いたそうだ。ブルボヌール側の砦からも様子が見えていたらしい」
北西の国ブルボヌールには人を襲う人狼がいるという。それらが国外へ行かないように壁で仕切られているというけれど、そこの砦から見えたと言うことは随分と国境に近いところにチェスが現れたんだな。
「南東の海岸では今回もホテルのやつらとパーヴァリ、海の家に来ていたグリフォンが目撃している。まだ海開きの前だったから客も少なく、調査に来ていた学者達が襲われたらしい。同行していた軍のやつらに撃退されたらしいがな。そして、南西の荒れ地。荷馬車が襲撃されて牛だけが助かった」
南西の国ネルケジエへと続く南西の荒れ地。ニールさんは眉間に皺を寄せている。
「ここで事件が起きたのが問題で、その所為でオマエが寝不足なんだ」
「……はい?」
「この地図もさっきの話も全部ミレイユからの情報なんだけど、これもな。第二王女カレンは、近々ネルケジエに視察に行く予定らしい」
「危ないですね」
「で、王族だと気が付かれないように行くんだと。一般トランプの振りしたって襲われるもんは襲われると思うんだけど、まあ気休めみたいなもんだろうな」
地図を眺めていたアーサーさんが顔を上げる。なるほど、と呟いたけれど何がなるほどなのだろう。
ぼくは地図に目を落とす。どうしてチェスはトランプを襲うのだろう。それに、最近目撃情報がこれまで以上に増えているという。だから森への立ち入りが規制されているのだ。それなのに、数週間でこんなに被害が出ている。まるでトランプを探して回っているみたいだ。偶然出くわしたから襲ったのではなく、襲う対象のトランプを探している。そう考えられないかな。
「殿下が無事にネルケジエへ行けるように、質素でありながら気品があり、顔を隠すことのできる代物が欲しいと、そういうことですね」
「そうだ」
「注文の時に詳しく教えてくれればよいものを。豪奢なものを作るところでしたよ」
「おまかせにしておいて気に入らなかったら首を飛ばすつもりなんだろ」
アーサーさんは首元に手をやった。さぁっと顔から血の気が引いた気がする。その手に自分の手を重ね、ニールさんはにやりと笑う。
「だからオマエの首が飛ばないように、ミレイユから情報を聞きに行ってたんだよ。俺にできるのはこれくらいだからな」
「……頑張ります。馬鹿猫が捕まらないように」
もしもアーサーさんが王家に狙われたら、去年の暮れのようにニールさんの呪いが発動するだろう。街で暴れて捕まらないように、ということかな。何だかんだでお互いのことを思ってるよね、やっぱり。
そんな二人の様子をルルーさんが嬉しそうに見ている。けれど、兄弟っていいですよねと訊ねたら彼女の表情は曇ってしまう。ぼくの視線に気が付いたらしいルルーさんが笑顔を向けてきたのでぼくも微笑み返しておいたけれど、ちょっと微妙な笑顔になってしまったかもしれない。
ニールさんの手をそっと引き剥がして、アーサーさんはゆるりと立ち上がった。
「質素で気品のあるもの……。まあ、届けられた本は使えるでしょう。私は作業に戻ります」
「俺も手伝うよ。ゴミの片付けくらいはできる」
連れ立ってリビングを出て行った二人を見送って、ぼくはテーブルに向き直った。テーブルの上には地図が広げられたままだ。よく見るとバツ印の横に小さく数字が振ってあるのが分かった。これは日付かな。
ぼくは地図に指を滑らせる。順に南東の海岸、西の山、北の森、南西の荒れ地、北西の山。特に規則性はなさそうだ。この家の辺り、北東付近では最近の目撃はないみたい。
「チェスって、色があるんですよね。ニールさんに訊いたらどこにどの色が出たか、とかも分かりますかね」
「訊いてどうするの? アリス君がチェスと戦うわけじゃないんだし。軍や騎士団に任せておけばいいよ」
「でも、あまりにも頻繁にチェスが出るようだったら……。バンダースナッチだったら昼間にも現れるんですし、ぼくがここに来るのも控えた方がいいのかなって……。迷惑かけられませんから」
「いい子!」
ルルーさんに抱きしめられた。むぎゅむぎゅとしながらぼくの頭を撫で繰り回す。
「いい子だね! アリス君!」
「く、苦しいです」
「危なくなったら鏡を潜ればいいんだし、大丈夫だと思うけど」
「でも……。チェスはぼくのことを……。いや、アリスという名前に何か興味があるみたいなので、ちょっと怖くて」
去年の夏に海岸で出会ったチェスも、秋に森で出会ったチェスも、アリスという名前に反応していた。彼らがトランプを襲うことと、アリスという名前と、何か関係があると考えた方がいいだろう。夜にワンダーランドへ来ることは滅多にないから軽く警戒するだけに留めていたけれど、チェスの出没が増えているというのなら気になってしまう。
ルルーさんはぼくの頭を撫で繰り回している。
指が微かに震えている。ということに気が付いた。ルルーさん、何か不安なのだろうか。苦しいけれどしばらくこのままでいようか。
チェスは白や赤、黒などいくつかの色の陣営に分かれている。それぞれの色は対立していて、別の色が出会った時は目の前にいるトランプよりも優先して狙いに行くという。キャシーさんとジェラルドさんがパトロール中にチェス同士の戦闘に出くわしたこともあるらしい。
ニールさんが公爵夫人から仕入れた情報だけで考えると、襲われたのはトランプなのだからその場にいたチェスは一色なのだ。それぞれの場所に何色が現れたのかは分からないけれど、一つの陣営が複数箇所に現れているのか、それとも、複数の陣営がバラバラに現れているのか。それが分かれば、少しは対処できるのかな。
ルルーさんがぼくから離れる。
「チェスが……たくさん……」
「ルルーさん?」
一瞬鋭い顔をしてから、ルルーさんはリビングを出て行ってしまった。後を追って廊下に出たぼくは玄関から響くノッカーの音に呼び止められる。ぼくはこの家に住むアレクシス・ハーグリーヴズなのだから、普通に応答して構わない。
「はーい、何かご用事……」
ドアを開けると、そこには女の人が立っていた。牙と言っても過言ではない鋭い犬歯が閉じられた口からはみ出ている。
「こんにちはぁ。こちら、帽子屋さんのお家で間違いない?」
人魚のヒレのような形のスカートだ。広がった裾にフリルが揺れる。ドアに手を掛けながら、女の人は家の奥を覗き込んだ。




