第百九面 何言ってるの
ライオネルは指先でくるくると金髪をいじる。
「アリスって女の子の名前でしょ? なんで?」
なんで?
アリスは憧れの主人公の名前であると同時に、ぼくにとって呪いのような名前だった。アリスと呼ばれることが嫌だった。自分の名前を嫌いになってしまうほどに。けれど、この本の中の世界のような場所でそう呼ばれることには余り抵抗がない。なぜならここはワンダーランドで、ぼくは外からやって来た人なのだから。
例によって有主をアリスと読んだアーサーさんに呼ばれて、そのままそれがみんなに広まった。確かに「有主」をナオユキと読むのは少し難しいかもしれないな。英語の名前じゃないから馴染みもないだろうし。
現在ワンダーランドにおいて、ぼくの名前はアレクシス・ハーグリーヴズということになっている。イーハトヴかぶれの親を持つ公爵夫人の知り合い、という設定で有主を名乗っていたけれど、本名はアレクシス。そういう状態だ。
「ねえ、アレクシス君。なんで?」
「え、えと……。な、なんでだろう……」
ルルーさんをちらりと見ると目を逸らされた。アーサーさんは本を漁っていてこちらの話を聞いていないようだ。
おろおろするぼくのことをライオネルは面白そうに見ている。
「ゆ、勇者、勇者がいるじゃないですか。昔話に出てくる。ち、小さい頃それに憧れていて、ぼくもなれたらなあって。そう言ってたのでアリスって呼ばれるようになっちゃって。あはははは、は……」
「あぁ、勇者アリスね……。女だったって説が有力だけど、定かじゃないしね。男の子が憧れるのも変じゃないか」
納得してもらえた、かな。
見つめられるのが嫌で逸らしていた視線を戻すと、ライオネルはぼくの方を見ていなかった。さっきまでぼくのことを気にしていたはずなのに、もう興味を失ってしまったのかアーサーさんの方を見ている。
横顔だけれど、ライオネルの目を見てなぜか怖くなってしまった。アーサーさんを見る目。睨んでいるわけでも、見惚れているわけでもない。青紫には何も感じられない。ただの深い穴が何も考えずに向けられているようだった。それなのに、口元が微かに歪められている。
「こちらの本にしま……」
本を手に顔を上げたアーサーさんは、自分を見つめるライオネルに驚いたらしく少し言葉を詰まらせる。
「……あ、あの? アニスさん?」
「…………ぁ。あぁ、すみません」
「私の顔に何か?」
「いえ……。そちらの本ですね、分かりました」
ライオネルはゆるりと立ち上がり残りの本をリュックにしまっていく。五冊の本を抱えたアーサーさんはライオネルのことが気になるようで、ちらちら見ながらテーブルの方へやってきた。
「ものすごく見られていたような気がするのですが」
「めっちゃ見てたよ。アーサー格好いいから男の子でも見とれちゃうんじゃない?」
「そうでしょうか……。そういう目ではなかったと思いますが」
本をしまったライオネルはリュックを背負う。
「ではボクはこれで。……頑張ってくださいね、帽子屋さん」
そして、軽く一礼してリビングを出ていった。玄関まで追いかけて見送ったアーサーさんは、リビングに戻ってくるとわくわくした様子で本を一冊開く。
ページにはびっしりと帽子のデッサンや文字が印刷されていた。
「王女様の帽子、必ず……」
「少し休んだ方がいいんじゃない?」
「徹夜上等ですよ」
「ハワードみたいなこと言わないでよ」
アーサーさんは本を閉じると、まとめて抱えて立ち上がった。
「王女様が不満な思いをして……また王妃様に首を狙われては堪りませんからね」
自嘲と皮肉を織り混ぜたようにそう言って、リビングを出ていく。その後ろ姿をしばらく見つめていたルルーさんのうさ耳がへなりと垂れる。
「んー、無理してそうだな。倒れないといいけど」
「そうですね……」
テーブルの上に本が一冊残っていた。最初に読んでいた、書庫から見付けたという本だ。たぶん自分の部屋だよね。届けてあげよう。
本を手に取るとページの間から何かが落ちた。
「アリス君! 落ちた!」
「はいっ」
古い写真のようだ。少女が写っている。優しく微笑む彼女の頭には三角形の耳が生えていた。どことなくアーサーさんとニールさんに雰囲気が似ている。二人のお母さんの若い頃だろうか。この女の子が成長したら、廊下に飾ってある家族写真のお母さんになるような気がする。
写真の裏側にはペンで何か文字が書いてあった。流麗な筆記体だ。
「これなんて読むんですか?」
「ん? んー。『はじめに、彼女を捕まえなければ』。これニールとアーサーのお母さんだよね? きっとお父さんが『絶対この子を手に入れる!』って燃えてたんだよ」
周りに反対されながらも獣と結婚したんだ。それほど大好きだったのだろう。
ちらりと横目にルルーさんを見ると、彼女は険しい顔で写真を見ていた。忌々しい敵を見るかのようにクロックフォード夫人を睨みつける。以前クロヴィスさんと対峙した時と同じようなぴりぴりした空気が周囲に流れていた。
ぼくは写真を本に挟みこむ。そのぱたんという音が合図だったかのように、ルルーさんはころっと表情を変えていつも通りの特に何も考えていなさそうな笑顔になった。不安そうな顔をしていたらしいぼくの頭をぐしゃぐしゃと撫でて、「そんな顔しないでよー」と言う。
「どんな人だったんですか、アーサーさんとニールさんのお母さんって。ルルーさん会ったことあります?」
訊いてから、訊かなければよかったと思った。ルルーさんが再び冷たい表情になってしまった。わざとらしく、ぼくを安心させようと引き攣った笑いが貼り付いている。
「美味しいケーキを作るよ。アーサーの作る茶菓子はだいたいあの人の残したレシピを参考にしてるみたいだし」
「お母さんの遺したレシピ……。なんか、いいですねそういうの」
「そうかな」
「息子さんが作り続けているなんて、きっと天国のお母さんも嬉しいですよ」
ルルーさんが目を丸くした。
「アリス君何言ってるの」
「え?」
「あの女は死んでないよ。あの女は生きている」
「そう、なんですか……? てっきりもう亡くなっているんだと」
ルルーさんは何かを呟いてから、キッチンの方へ向かって行った。「アリス君ココア飲む?」と訊かれたので「はーい」と返事をしておいた。けれど、返答するのがほんの少し怖かった。さっきルルーさんが呟いた言葉。ぼくの聞き間違いでなければ、あれは、ルルーさんが言っただなんて信じられないような言葉だった。
彼女は言ったのだ。「死んでればよかったのにね」と。
友人の母親に対してなんてことを言うのだろう。ルルーさんがこんなことを言うとは思わなかった。いつもにこにこと元気なルルーさんから、こんなにもきつい言葉を聞くなんて。
ココアの揺れるマグカップがテーブルに置かれる。
「その本どうする? 僕が置いてこようか」
「あ、ぼくが」
ココアを一口飲み、ぼくは本を手にリビングを出た。深い青の中にひんやりとした冷たさが感じられた。そんな目をしているルルーさんと一緒にいたくない。とにかく怖い、そう思った。まるで、大きな目がどこを見ているのか分からない、薄く笑った不気味な兎の着ぐるみと一緒にいるみたいだ。彼女があんな顔をするのはこの本があるから、あの写真があるからだ。
アーサーさんの部屋のドアが少し開いていた。本のページを捲る音が聞こえる。
開いているドアをノックすると、短く「はい」という返事があった。机に向かっていたアーサーさんがこちらを向く。
「アリス君」
「これ忘れてましたよ」
「おや、すみません」
ぼくは写真が挟まっていたページを開く。
「これ、お母さんですか? 綺麗な人ですね」
「母上は美しく優しい方でした」
「……亡くなってるんですか」
他にどう訊けばいいのか思いつかなかった。直球過ぎただろうか。無礼な子供だと思われてしまったかな。
本を閉じて手渡すと、アーサーさんはページを捲って写真を手に取った。映し出されている母親を見る息子の視線には何の感情も感じられない。しばらく眺めた後、再び本に挟んでしまう。
「生きているのか、死んでいるのか、私は知りません。どこかで生きていればいいなとは思いますけれど、随分と長い間会っていませんね」
「てっきり亡くなっているんだとばかり……」
アーサーさんは机の上に散らばっているフェルトを軽く指先で撫でる。手袋越しでも分かる細い指が黒いフェルトの破片に絡んでいる。
「私は、母上のこともあまり……兄さんほどは……」
玄関のドアの開閉音がした。ニールさんが帰ってきたのだろうか。「来たな馬鹿猫……っ!」と言って椅子から立ち上がると、アーサーさんは部屋を出て行ってしまった。
本から僅かに写真がはみ出ていた。白黒写真のため実際の色は分からないけれど、二人と同じように金髪なのかな。白く浮き上がるような長い髪と三角形の耳が灰色の背景に映えていた。




