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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
十四冊目 紫煙を纏う蝶
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第百六面 落としましたよ

 家に辿り着くと、ほっとした様子のアーサーさんが出迎えてくれた。


「よかった、貴方が無事で。チェスに襲われた所をヤマトが助けてくれたのでしょう」

「はい。あ、これ、ランチョンマット……」

「ありがとうございます、アリス君」


 アーサーさんは大事そうにランチョンマットを握りしめる。大切なお茶会セットの一部だ、追い駆けてよかった。足を痛めてしまったけれど、嬉しそうな様子を見るとそれでもよかったって思えるよ。


「親、きっと心配してるよな。言い訳は考えてあるか?」

「どうにかします……」


 腕時計は午前九時半過ぎを指している。夜遅くに帰ったことはあるけれど、一晩越してしまうのは初めてだった。迷子とか、誘拐とか、大騒ぎになっていたらどうしよう。


 隠しきれない不安の色が顔に浮かんでいたのか、二人は困ったようにぼくを見た。ぼくは曖昧な笑いしか返すことができなかった。





          ◆





 靴を脱ぎ、姿見を潜った。足を庇いながら這うようにして階段を降りる。どうやら母は出かけているらしい。居間からテレビの音は聞こえず、台所から料理をしている音も聞こえず、洗濯機の音も、掃除機の音も聞こえない。


 玄関に靴を置き、部屋に戻ろうとした。けれど、すぐに踵を返して靴を履いた。ドアを開けて外に出る。出かけていることにしているのだから、ワンダーランドへ行く時には家の鍵を持って行ってある。首から下げていた鍵を取り出して戸締りを確認し、ぼくは道路に踏み出した。


 もし、ぼくのことを探しているのなら。近所で騒ぎになってしまっているのなら。


 おとなしく家で待っていた方がいいだろうか。自分から外に出て「ここにいるよ」と示した方がいいだろうか。分からない。分からないけれど、外へ出た。左足はまだ痛い。


 エコバッグを手に歩いていた買い物帰りのおばさんがぼくを目に留め、驚いた顔をした。年季の入っていそうなサンダルをぱたぱた言わせながらこちらへ駆けてくる。


「神山さんちの、有主君?」

「あ……。そ、そう、です……」


 おばさんはぼくの肩を叩く。


「よかった!」

「えっと……」

「息子が帰ってこないって、昨日神山さん大騒ぎだったんだよ! ご近所総出で探し回ってね、交番のお巡りさん達まで手伝ってくれたんだよ」


 おばさんの大きな声に気が付いて、道行くご近所さん達がこちらを向いた。


「あら、有主君」

「見付かったの?」

「誰か神山さんに連絡して」

「よかったわねー」


 やはり大事になっていたらしい。気を付けなければ。こんなことを繰り返すわけには行かない。そうしたら、きっと、ワンダーランドへ行けなくなってしまう。


 ほどなくして、慌てた様子の母が駆けてきた。誰かから連絡が行ったのだろう、携帯電話を手にしている。母は怒りを堪えるように唇を結んでいたけれど、何も言わないままぼくの頭を撫でた。そして、抱きしめる。


 どれだけここが嫌いでも、どれだけここにいたくなくても、戻ってきてしまう。それはきっと、信じることのできる人がいるから。


「どこに行ってたの、お馬鹿」

「ごめんなさい……」


 どれだけ楽しくても、ずっと御伽の国にいることはできない。アリスも、ドロシーも、チルチルとミチルも、ルーシィも、バスチアンも、最後には元の世界に戻ってしまう。


 いや、違う……。


 マリーは……?


 マリーはどうしたのだろう。


「やだ有主、足怪我してるの?」

「ちょっと捻っちゃって」

「病院行かなきゃ! すぐ車出すから、待ってなさいね」


 母はカーポートに駆け込んで車にキーを差し込む。


「ほら、有主」


 母の手が差し出される。手を載せると優しく握られた。





 最寄りの整形外科へ向かったけれど、待合室はかなり混雑していた。みんな用事があって来ているのだから仕方ないな。空ヶ丘在住の何割がこの病院をかかりつけにしているのだろう。こんなに待つことになるならば本を持ってくればよかった。隣に座る母はスマートホンを手に何かを調べているのか、ゲームをしているのか、ぼくからは画面が見えない。


 他に診察を待っているのはお年寄りが多く、ぼくと同じくらいの子供の姿は見える範囲にはないようだった。何もせずに待っているのは退屈で、退屈をしのぐためには本しかないのに、今手元に本はない。


 ぼんやりと待合室を見回していると、母親と思しき女性と幼稚園児くらいの女の子が一緒に歩いているのを見付けた。親の診察にくっ付いてきたのだろう。着せ替え人形を抱いている。しかし、母親に手を引かれた時にするりと腕から落ちてしまった。「あ」と声を出したが母親には聞こえていないようだ。拾いに行ってあげたいけれど、この足ではすぐに動くことはできない。


 どうしたものかな。そう思ったのも一瞬で、誰かの手が着せ替え人形を優しく拾い上げた。


「あの、落としましたよ」


 長い黒髪が揺れる。


 長身痩躯の若い男だった。小走りで母親に近付き、声をかける。そして女の子に人形を渡し、立ち去る背に手を振った。


 男がこちらへ戻ってくる。


「あ」


 つい声が出てしまった。ぼくの声に気が付いた男がこちらを見る。そして、彼もまた小さく声を漏らした。先日、下校途中に倒れていた人だ。ヤマトさんに似た雰囲気の男の人。労わるように、先程振った右手を左手でさすっている。


「ああ、ええと、君、この間の……」

「えっと、大丈夫でした?」


 男の人は軽く首を傾げる。


「た、倒れてたので……」

「あぁ……。うん、大丈夫だよ」


 寺園さん、と受付のお姉さんに呼ばれて、男の人は「それじゃあ」とぼくに言ってそちらへ向かった。会計を済ませて外に出て行く。


 母がスマートホンから顔を上げた。


「お友達?」

「そういうわけじゃないけど」


 寺園さん。


 そう呼ばれていた。珍しい名前ではないし、探せば何人も出てくるだろう。けれど、この空ヶ丘に住んでいる寺園さんなんて限られている。図書室へ行った時に訊いてみようかな。彼女の知り合いならば、倒れていたという情報は必要だろうしね。





          ○





 足が治ってから、ぼくは学校へ向かった。久し振りの学校。校門の前に立つとやはり緊張してしまう。図書室だけが目的だったから放課後に来た。下校する生徒達が不思議そうにぼくのことを見ている。


 この間テレビで不登校の子供が云々という話をしていた。無理に学校に行かせるのは良くない。楽しい場所だと押し付けるのは良くない。その通りだと思った。去年のぼくなら「そうだそうだ」と言って布団にくるまっていたと思う。けれど、今は「図書室の本を読みたい」と自分から思えているのだ。自分で動いているのだ。先生が動いてくれたおかげで、前のようにからかってくるやつらは少なくなった。それもいいことだと思う。


 これから先、高校へ行くかもしれない。大学へ行くかもしれない。何かやりたいことができるかもしれない。そういう時に、きっとここで得た物が役に立つはずなのだ。自然と足が学校へ向いた時だけでいい。少しずつ。少しずつ。


「あっれー、アリスちゃんじゃーん」

「おひさしぶりー」

「今日はお茶会お休みなの?」


 さっきのは訂正する。


 部活があるのか、掃除当番の友人を待っているのか、廊下でわちゃわちゃとしていた生徒の一部がぼくに気が付いた。


「ねえねえアリスちゃんさあ」

「それやめてくれない? ぼくは神山有主。アリス・リデルじゃない。あまりしつこいと先生に相談するだけじゃ済まないけど」


 生徒が一瞬怯む。


「先生から言われてるはずだよね。ぼくにちょっかいかけるなって。ぼくが被害者なんだからさ、大人への報告次第ではきみ達のことどうすることだってできるよね」

「調子乗るんじゃねえぞ」

「そうだそうだ」

「アリスちゃんのくせに!」

「学校来るな!」


 どうして学校へ行けなくなったのか。反撃したからだ。対抗しようとして手を出した。怪我をさせてしまって、その報復が怖かった。それだけではないけれど、それが決定的だった。と、思う。


 挑発に乗るな。有主。


「まあ、からかいたかったらからかえばいいよ。その後どうなるのかはぼくの知ったところではないしね」

「有主って意外と辛辣だよなあ。身を守るためなら何だってやりそう」

「ひゃあ」


 肩に手を置かれる。振り向くと、エナメルバッグを肩にかけた琉衣が立っていた。


「なんだよびっくりするだろ」

「久し振りに登校して見事に絡まれてるねえ」

「助けてなんて頼んでない」


 ぼくの言葉に聞く耳を持たずに、琉衣はぼくを押し退けるようにして前に出る。いじめっこ達は不愉快そうな表情を浮かべて琉衣を一瞥し、ぼく達の横を過ぎていった。すれ違いざまに軽くどつかれたけれど琉衣が支えてくれた。


「図書室?」

「うん」

「送って行こうか?」

「いらないいらない、小さい子じゃないんだし」

「遠慮するなよ」

「しつこい! 早く美術室行け!」





 図書室のカウンターには三年生の先輩が座っていた。あまり会わないから名前が思い出せないな……。


「入らないの?」

「何で付いて来てるんだよ」

「今日美術部休みなんだよ」

「あっそう」


 先輩と一緒にカウンターにいた司書さんが廊下から覗くぼく達に気が付いた。先輩に合図をしてからこちらへ歩み寄ってくる。


「神山君」

「あ、えっと、寺園さんいますか? 一年生の」

「司書室にいるわよ」


 御礼をしてから司書室へ行くと、寺園さんは図書局便りの原稿と睨み合っていた。おすすめの本として紹介するつもりなのだろうか、机の上には『ドリトル先生』シリーズが数冊積まれている。


 声をかけると驚いた様子で顔を上げた。ぼくのことを見て驚きは安心に変わったようだったけれど、少し困ったように琉衣のことを見ている。


「神山先輩と……」

「ああ、こっちはぼくの友達」

「宮内です。よろしくね」

「宮内先輩……」


 寺園さんはシャープペンを手にしたままぼくを見上げる。


「えっと……何か?」

「寺園さんにちょっと訊きたいことがあって」

「はい」


 司書室初めて入った! と言って琉衣はあっちやそっちを見て回っていた。特別高価なものなんて置いてないけれどべたべた触らないようにしてね。ラミネート加工用の機械とかみたいな大事なものだってあるし。


 ぼくは寺園さんに向き直る。星柄のシュシュでサイドアップにされた髪が窓から吹き込む風に揺れていた。








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