第百五面 ここではない場所
ヤマトさんは煙管を燻らせている。
「足、大丈夫そうか」
「少しは……」
長い前髪が風に揺れる。隠れていた右目が一瞬見えた気がした。その時、なぜか分からないけれど恐怖を覚えた。気がする。どうしてだろう。ほんの少しだけだったからよく分からなかったのに、何か、なぜか、何かを、恐ろしいと思ってしまった。
空いている左手で前髪の毛先に触れる。顔の右半分を隠すように整えてから、ヤマトさんは何事もなかったかのように再び煙管を咥えた。
「そっちの部屋使って」
「あ、ありがとうございます」
壁に手を当てながら歩く。丁度窓の目の前に差しかかったところでヤマトさんが窓枠から降りてきた。ぼくの体を支えるようにそっと手を伸ばしてくれたので、その手に甘えることにする。
支えられながら進み、ドアを開ける。机とベッドのある簡素な部屋だった。破れかけたカーテンの隙間から外が見える。普段は使っていないらしく、ぼく達が踏み込むと埃が舞い上がってきらきら光った。急な客とはいえ、こんな部屋に通されるとは思わなかった。
唖然としているぼくを見てヤマトさんは「にししっ」と笑う。ランプを点け、ひょいとぼくを持ち上げてベッドに座らせると、自分は窓辺に凭れかかった。紫煙と埃とが混ざり合って体に悪そうだ。ぼくはヤマトさんから少し離れる。
ヤマトさんはしばらく黙ったまま煙管を咥えていた。いつまでいるつもりだろう。そろそろ休みたいんだけどな。ぼくの視線に気が付いたのか、ヤマトさんは煙管を口から離して窓を開けた。外に紫煙を吐き出す。
揺れるカーテンが体を隠し、美しい翅だけがぼくから見える。
「なあ、アレクシス」
ゆるりとこちらを向き、煙管を弄ぶ。左手は前髪を押さえていた。
「ここではない場所って、あると思うか」
「えっ?」
ここではない、場所……?
ヤマトさんの翅がひらひらと動いている。
「えーと、それって、イーハトヴとか、シャンニアとか……? それとも、キャロリング大陸の外ってことですか?」
「いや、もっと遠くだ。ここではない場所。物語の中で描かれているような異世界だよ」
「いせ……かい……」
それはつまり、ぼくが住んでいる世界ということだろうか。あの鏡のことは一部の人しか知らない。ヤマトさんはその一部の人なのだろうか。しかし、アーサーさんとニールさんの話を聞く限りだとあの二人とこの人にそこまで深い交流は無いように思える。ヤマトさんは二十代くらいだろうし、二人のお父さんと知り合いということもないだろう。
ぼくのことだって変な人間だと思ってるだろうから、詮索しているわけではないと思う。ただ単純に、お話の中で語られる御伽の国について質問しているのだ。身構える必要なんてない。
ぼくが黙ったままなので気になったのか、ヤマトさんは小首を傾げる。長い髪がさらさらと揺れたけれど、右側の前髪は顔を隠したままだ。
「え、えと、あったらきっと面白いなって思います」
ヤマトさんは目を細める。歪められた口元から紫煙が漏れた。
「どういうふうに?」
「え? えっと……。自分の読んでいた物語と同じような世界があったら、行ってみたいなって思います。そこにはきっと本の中と同じような森があって、街があって、人がいて、動物がいて、花が咲いていて。実際に触れることができたらとっても楽しいと思うんです」
「本好きなんだ?」
「はい!」
ドアの方へ歩いていき、ヤマトさんは煙管を咥える。そして、軽くこちらを振り向くと薄く笑った。
「俺も好きなんだ、本。いいよな、こことは違うところへ行けてさ。ふらふらとどこまででも飛んでいけたらいいのにな。……おやすみ、アレクシス」
翅の輝きの残滓を残すようにしてヤマトさんは廊下へ出て行った。窓開けっ放しで出て行っちゃったよあの人。閉めるために立ち上がるのも大変だし、寒くはないだろうからこのままでもいいか。
あまり柔らかくない敷布団と頼りない厚みの掛け布団に挟まれて横になっていると、声が聞こえてきた。
「今は昔、竹取の翁という者ありけり……」
目が覚めてしまったけれど、目は閉じている。瞼は眠気に負けている。
「野山にまじりて竹を取りつつ、よろずのことに使いけり……」
この声は……ヤマトさん……? どうして、かぐや姫……『竹取物語』を……。
「名をば、さぬきの造となん言いける……」
気が付いた時、部屋は明るくなっていた。あれは夢だったのだろうか、現実だったのだろうか。
考えているよりも動いた方が早い。本人に直接訊けばいいのだから。
足は昨日より楽になっているようだった。ベッドから起き上がり、壁に手を付きながら廊下に出る。お店の方へ歩いて行くと、昨夜の残り香なのかお酒の匂いが漂って来た。物音がしているから、ユーリさんがいるようだ。
「おはようございま……うわぁっ」
ドアを開けると同時にぼくはバランスを崩した。盛大にすっ転んだところを支えられる。
「わわ、ありがとうございま、うわぁ……」
「うわあうわあってしつこいわよ! おはようアレクシス君。まだ無理に歩いちゃ駄目よ!」
朝からばっちりメイク済みのユーリさんがぼくの体を支えていた。ユーリさんはぼくのことを引き摺るようにしてカウンター席に座らせる。朝一番に出会った顔がこれなのはちょっとインパクト強すぎて目が覚めたな。
「あの、ヤマトさんは?」
朝ご飯準備してあるわよー! とお皿を手にしていたユーリさんが顔を上げる。
「ヤマトなら朝早くにぶらっと出て行ってそのままよ。戻ってくるのは夜になるかもしれないし、何日か後になるかもしれないわ。自由な子なのよ」
いないのであれば訊くことはできないな。
「ぼくはどうやって帰ればいいですか?」
「んー、そうね……。お店は夜からだし、ワタシが送って行ってあげるわよ。チェシャ猫と帽子屋のところでしょ?」
カウンターにハムエッグとトーストが置かれる。トーストにはバターがたっぷり塗ってあった。そして、ホットミルクがその横に置かれた。ユーリさんはウインクをする。
「アレクシス君はまだコーヒー早いかなって」
子ども扱いされた……。
朝食を食べ終え、少し休憩してからお店を出ることにした。じゃあ行こうか、というところで立て付けの悪いドアが開かれる。ヤマトさんが戻ってきたのかな。
開閉音にユーリさんが目を輝かせる。しかし、現れたのは着流し姿の蝶ではなかった。
「おかえりヤマト! じゃない!」
「うわっ! マジで出た!」
「失礼ね!」
お店にやって来たのはジャケット姿の猫だった。ユーリさんの姿に驚いて猫耳がびくっと動く。
「ニールさん」
「おお、アリス。よかったよかった。風来坊のやつがオマエのこと教えてくれてさ。迎えに来たぞ」
「あら! よかったわねアレクシス君。猫さんと一緒に気を付けて帰るのよ」
忘れないように、ぼくはランチョンマットを握りしめる。
「ありがとうございました、ユーリさん」
「うふふ、よかったらまた来てね」
ニールさんは恐ろしいものを見るようにユーリさんを見つめていた。びっくりするほどメイクが濃いというわけではないけれど、ワンダーランドではこういう人は珍しいのかな。
カウンターに掴まりながら椅子から下りたのを確認すると、ニールさんはぼくに背を向けた。軽く振り向きながら、促すように背に回した手を動かす。
「乗れよ。足痛いんだろ。おぶってやるから」
「あら! 猫さん優しいのね! もっと怖い人だと思ってたわ!」
「失礼な奴だな」
ぼくはニールさんに身を預ける。
「よし、落とさないように気を付けるからな。ありがとな蝿野郎。気が向いたら酒飲みに来るわ」
「待ってるわ!」
立て付けの悪いドアを開けて外に出る。蜘蛛の巣のような縄を潜って跨いで、ぼく達は木の根元に広がる洞穴を後にした。
背負われているとなんだか温かくて、とても落ち着いた。猫を抱きしめているみたいで、気持ちよくて眠ってしまいそうだ。力があって、かっこよくて、大きくて。ぼくももう少しでいいから男らしくなりたいなあ。とりあえず身長がほしい。せめて百六十センチはほしい。
ニールさんの猫耳が動く。
「ランチョンマット拾ってくれたんだってな。ありがとよ。帽子屋のやつが『なくなりました』って言って慌ててたから見付かってよかったよ」
「追い駆けて足痛くしたんですけどね……」
「でもまあ、捻挫くらいで済んでよかったよかった。悪いな、昨日はちょっと出かけてたんだよ。ルルーとナザリオには言ってあったんだけど、一昨日オマエ来てなかっただろ?」
二人で一緒にお出かけ。買い物かな。
けれど、訊ねてもはっきりとした返事はなかった。曖昧に「ああ、うん」と言って黙ってしまう。買い物ですかと訊ねはしたけれど、たぶん違うんだと思う。それは分かっている。仮に買い物に行っていたのならば「出かけていた」ではなく「買い物に行っていた」と最初に言うはずだ。足りなくなった茶菓子を買い足しに行ったのではないのなら、何の用事があったのだろう。アフタヌーンティーの準備をしている途中で慌てて出かけた。誰かに呼ばれた? 本当にルルーさんとナザリオに言ってあったのかな。
沈黙が続き、ニールさんの革靴が草を踏む音だけが聞こえている。木漏れ日の中で穏やかな風に吹かれる。川にボートを浮かべたらきっと楽しいだろうな、と思えるようないい天気だった。
少し開けた所に出ると、太陽と地面との間に何かが入って影ができた。ニールさんは立ち止まり、空を見上げる。ぼくもつられて空を見た。
着流し姿の蝶が飛んでいた。ヤマトさんはぼく達のことを見下ろしながら飛び去って行く。訊けなかったな、夜のこと。
「あの、ニールさん」
「ん?」
「『竹取物語』って知ってます?」
「なんだそれ」
「あ……。で、ですよね。すみません。ぼくの世界のお話なんです」
ふうん、と言ってニールさんは歩き出す。
「どんな話なんだよ」
「不思議な女の子のお話です」
おじいさんが竹の中から女の子を見付けて、おばあさんと一緒にその子を育てる。美しく育った彼女は、実は月の人だった。ぼくの語るあらすじをニールさんは相槌を打ちながら聞いている。
「綺麗だけど、悲しい話だな」
あれが夢ではないのなら、蝶は何を思って夜空を見ていたのだろう。どうして、異世界の物語を諳んじていたのだろう。




