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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
十四冊目 紫煙を纏う蝶
106/236

第百四面 失礼しちゃうわ!

 まるで大きな蜘蛛の巣だ。


「ヤマトさん、ちょうちょなのに蜘蛛の巣に住んでるんですか」

「んなわけないだろ」


 正面から重ねて見ると蜘蛛の巣に見えるけれど、近くで見てみるとどうやら何層にもなっているようだ。一層ずつは数本の縄なので通り抜けることはできそうだ。


「変な輩が突入して来ないようにしてんの」


 跨いだり潜ったりしながら奥へ進んでいく。奥から漂ってくるのはお酒と煙草の臭い。


「本当は子供を連れ込みたくないんだけど」


 木の根本を大きくくりぬいた形の洞窟になっているらしい。進むにつれて壁や天井が現れてきたけれど、いずれも土だ。臭いが強くなってきて、次第に音楽も聞こえてくる。


 もしかしていかがわしい店なのだろうか。本にしたら発禁処分になるような。


 立て付けの悪いドアを開ける。


「いらっしゃいま……あーっ! おかえりなさいヤマト!」


 ぼくを小脇に抱えたままのヤマトさんに誰かが飛び付く。


「もうっ、遅いじゃない! 寂しかった!」

「離せ暑苦しい」


 女の人……。ヤマトさんの彼女かな。それにしては、少しだけ声が低いような……。


「あら! この子は!?」


 声の主は腰を曲げてぼくに顔を近付ける。


「うわっ」

「あらー! びっくりした!? するわよねー!」


 それは、男の人だった。たぶん。化粧をしていて、長い髪を三つ編みで一つに束ねている。大きく胸元を開けたシャツの襟には木馬を模したブローチが付けられていた。


「ヤマトぉ、この子人間トランプじゃないの? それにまだちっちゃい子でしょ?」

「ちっちゃくないです! ぼく十四歳です」

「ちっちゃいじゃないの」


 ヤマトさんはぼくをカウンター席に座らせる。やはりここはお店らしい。三つ編みの男の人はカウンターの中に入ると、グラスに水を注いでぼくの前に置いてくれた。氷が浮かんでいて冷たくて美味しい。


 ぼくを連れてきた事情をヤマトさんが説明すると、三つ編みの男の人は「なんだー」と気の抜けたような声を出した。


「てっきり誘拐して来たのかと思ったわ」

「人聞きの悪い蝿だなぁ。俺そんなに人相悪い?」

「前髪で片目を隠しているお兄さんが怪しくないといったら嘘になるわね」


 三つ編みの男の人の背には一対の翅があった。半透明で、向こう側が薄っすら透けている。ヤマトさんは彼のことを蝿と呼んでいた。そういえば蝿の翅は一対か。もう一対はパッと見だと分からないんだったっけ。


 ぼくの隣に座ったヤマトさんの前に徳利とお猪口が置かれる。


「ほらヤマト、貴方のためにイーハトヴのお酒仕入れたんだからね」

「不当な取引で手に入れてるんでしょ。お兄さん感心しないなあ」

「誰のためにその不当な取引したのか一度その頭で考えてみろクソ蝶。一肌どころか、何肌脱いだと思ってんだ」


 若干裏声気味だった声が素の状態と思われる低い声になった。が、次の瞬間再び裏声のようになる。「足痛いんでしょ? かわいそうにー」と言ってカウンターから出てくると、ぼくの返答を待たずに右の靴を脱がせた。


「左です」

「あらやだ! ごめんなさいね。こっちか。氷を当てておきましょうね」


 三つ編みの蝿男。いわゆる女性語を使っているけれど、先程の様子を見るに普段はそういう話し方を演じているというわけか。何か事情でもあるのかな。人の性別のことについてはあまり詮索しない方がいいか。


 一度カウンターの奥に戻ってから、氷を布製の袋に入れてこちらへ出てくる。痛む足にひんやりとした感じが広がった。しばらく当てておけば応急処置としては大丈夫かな。転がってからだいぶ時間が経っているから心配だけれど。


「アレクシス君って言ったかしら。ワタシはユーリ・フリートウッドよ」

「ユーリ……さん……」

「夜ご飯、食べるでしょ。すぐ用意するわね」


 曰く、ここはユーリさんが営むパブだそうだ。お客さんが来て賑わうのはもう少し遅い時間なのだという。そう説明してくれているヤマトさんもお店の人ではなくお客さんらしい。居候なのだと言ってユーリさんはヤマトさんを軽く睨む。


 ほどなくしてカウンター上には鶏肉のパイが置かれた。温野菜が添えられている。


 忘れそうになっていたけれどご飯の時間だったか。腕時計を確認すると八時過ぎを指していた。そう気が付いた途端にぼくのお腹は力ない音を出した。ヤマトさんとユーリさんが笑う。腹時計はほぼ正確か。


 切ったフランスパンが置かれる。違うか、ブルボヌールパン、かな。見た感じバゲットのようだ。


「いただきます!」

「うふふ、かわいいわね。ヤマトは?」

「俺は後で残り物をいただくよ。客が来たら残りが出るだろ」


 そう言って煙管に火を点ける。ふぅっと吐き出した紫煙が店内に漂った。


「ちょっとぉ、嫌よもう煙草ばっかり」

「客だって煙草吸うやついるだろ」

「体ぼろぼろになっても知らないわよ」

「あんたが困ることじゃねえだろ」


 煙管を見つめるヤマトさんは何かを考え込んでいるように見えた。長い前髪で隠された顔の右側はうかがえないけれど、左半分だけでもある程度の表情は読み取れる。着流し姿で物憂げに煙管を燻らせる男なんてまるで時代劇の一場面のようで、ヤマトさんの周囲だけ切り取ったらワンダーランドだということを忘れてしまいそうだ。


 チキンパイをもぐもぐと咀嚼しながら見遣ると目が合った。紫煙を纏う蝶は顔に浮かべていた緊張を解き、「にひひっ」と笑って見せる。けれど、その笑いも煙のように消えてしまった。吸い口を咥えてぼくから目を逸らし、店の奥の方へ行ってしまった。『STAFF ONLY』と札のかかったドアを開けてその中へ入っていく。


 カウンターには手の付けられていないイーハトーヴ酒が残されている。ユーリさんは徳利とお猪口をカウンター内にしまうと、「困っちゃうわね」とぼくに笑いかけた。


「折角出してあげたのに一杯も飲まないんだから」

「ユーリさんはヤマトさんと一緒に住んでるんですか?」


 ぼくが訊ねると、ユーリさんは首を横に振る。


「そうだと言えばそうだし、違うと言えば違うのよ。彼はさっきも言ったように居候で、勝手にここに居付いているの。ふらふらしてるからここ以外にも拠点はあるはずよ」


 ユーリさんは入口の立て付けの悪いドアを見る。


「そろそろ開店時間。酔っ払いが溢れるから、アレクシス君はご飯食べ終わったら奥に行ってなさいね」


 そう言い切る前に、立て付けの悪いドアはぎぎっという音を立てて開かれた。お客さんがやって来たらしい。


 店に入って来たのはブランデーの瓶を手にした女の人だった。キャシーさんほどではないけれど露出の多めな格好をしていて、その派手な雰囲気を中和するかのように、真面目そうな印象を与える紺色の縁の眼鏡をかけている。背中には細長い半透明の翅が二対付いているのが見えた。既にお酒が入っているのか、足元が少し覚束ない様子だ。


 眼鏡の女の人はふらふらとカウンターに近付いてきて、ぼくの後ろを過ぎて一番奥の席に着いた。声にならない「うにゃうにゃ」といった感じの音を口から漏らしながらカウンターに突っ伏す。呆れた様子のユーリさんが水の入ったグラスを彼女の前に置く。


「持ち込み禁止よ!」

「堅い事言わない言わない。お酒飲んでないとやってられないって」


 眼鏡の女の人は体を起こし、水ではなくブランデーをラッパ飲みした。


「もう疲れたあ。仕事したくない」

「あらまあ。じゃあお姉さんがお話聞いてあげるわよ」


 ユーリさんがカウンター内から身を乗り出す。


「えー。マスターはお姉さんじゃなくてお兄さんじゃん」

「あらやだ! 失礼しちゃうわ!」

「いつものお兄さん出してよ。お兄さん。煙草吸ってるお兄さんいるじゃん」


 ぼんやりとした様子で店内を見ていた女の人がその視線をぼくに向けて一瞬硬直する。だらしない感じだった顔はすぐに引き締まり、ブランデーの瓶をカウンターに置いて立ち上がる。眼鏡のレンズが店内の照明を反射して不気味に光った。


 薄い二対の翅が震える。この翅は、蜻蛉だろうか。


 女の人はぼくの方へ歩み寄って来て、眼鏡のブリッジを押し上げた。いかにも真面目といった感じだけれど、周囲に漂うお酒の臭いは誤魔化しきれていない。かなり着崩しているけれど着ているのはブラウスにベスト。この服装、前にどこかで見たな。よくある格好だけれど、ここで、ワンダーランドで見たはずだ。


「トランプの子供がこんな時間に森にいるのは感心できませんね。マスター、いけませんよ幼気な少年を誘拐して」

「ワタシじゃないわよ! ヤマトが連れてきたの! あと誘拐じゃないから!」


 去年、エドウィンに初めて会った日。街の役場に連れて行かれたけれど、その時役場の窓口にいたお姉さんがこの格好をしていた。それならば、この女の人は役場の人?


 怪訝な顔をしている女の人にユーリさんが説明をする。すると、彼女は渋々納得したようだった。ぼくに向けている視線はまだまだ胡乱な感じだ。それどころか、「チェシャ猫と帽子屋」という言葉を聞いて余計疑うような目つきになってしまった気がする。


「私は役場の者です」

「お姉さん、ドミノですよね」

「街にもドミノは住んでいますので彼らの対応にあたる人員が必要でしょう。なので私のような者がいるのです。貴方、ハーグリーヴズ君。事情は分かりましたが、あまりドミノなどとは関わらない方がいいですよ。なんて、ドミノの私が言うのもおかしなことですけれどね。森には危険がいっぱいなんですから」


 先生が教え子を諭すようにそう言って、彼女は席に戻っていった。真面目そうな雰囲気が消し飛び、再び酔っ払いと化す。トランプのたくさんいるところで働くのはきっと大変なのだろうな。


 少しして、お店は賑わって来た。お酒や煙草の臭いがその場を包み込んでいるようだった。食事を終えたぼくはユーリさんに言われた通り、奥へ移動することにした。椅子や壁に掴まりながら少しずつ歩く。『STAFF ONLY』のドアを開けると、傍に座っていた蜻蛉の女の人がグラス片手に「おやすみ」と言った。「おやすみなさい」と返してからドアを閉める。


 ドアの向こうには短めの廊下があり、奥には下へ繋がる階段が見えた。地下にあると思っていたけれど、廊下には窓があり月光が差し込んでいた。おそらく斜面にお店があり、地表の位置がこちらとあちらでずれているのだろう。


 風が吹き込んでいたのでそちらを見ると、出窓にヤマトさんが座って煙管を燻らせていた。触覚のように跳ねた髪が二房揺れている。風が入っているのだから窓が開いている。落ちたら危ないですよ、と声をかけようとして、蝶だから大丈夫だと気が付いた。ぼくが中途半端に口を開けているところでヤマトさんはこちらを向く。


「変な顔だな」

「あうぅ」


 風に流された紫煙が青い翅の表面を這うようにして漂っていた。綺麗な蝶だ。「ぼく」とエーミールなら、きっと嬉しそうに見るのだろうな。










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