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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
十四冊目 紫煙を纏う蝶
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第百三面 お兄さんに教えてくれる?

 六月中旬のある日のことである。


 鏡をくぐってワンダーランドへ行くと、誰もいなかった。いつものようにお茶の用意はしてある。けれど、よく見てみると置いてあるのは空っぽのポットと何も載っていないお皿だ。準備している途中で出かけたのかな。お菓子が足りないとか、そんな感じだろうか。


 ルルーさんとナザリオも来ていないようだ。今日のお茶会はいつもより遅い時間になるとか、そういう連絡が昨日あったのかな。昨日は学校に行っていたからこっちに来てないんだよね。


 誰もいない庭を見ていると先日の夢が思い出された。飛来するジャバウォック。地面に広がる赤。どうしてジャバウォックがぼくを狙っているのかは分からないけれど、ぼくがここにいたらみんなを巻き込んでしまうのだろうか。


 でも、ぼくには……。まだ学校には慣れていない……。ぼくにはここしかないのに……。


 何かに手が触れた。怖いことを考えていたため驚いて手を振り上げてしまったけれど、ぼくの目に映ったのは宙に浮くランチョンマットだった。ぼくの手で持ち上げられた上に風で舞い上がり、ランチョンマットは飛んで行ってしまう。


「あぁっ、待って!」


 急な来客もあるため、予備としてテーブルの端に置いてあったものだ。お皿などが載せられていなかったため簡単に飛び上がってしまったのだろう。重ねて置いてある残りの予備に傍にあったカップとソーサーを載せ、ぼくは空飛ぶランチョンマットを追った。


 お茶会セットはアーサーさんがとても大事にしているものである。去年ナザリオが壊した時の静かな怒りは今思い出しても震えてしまいそうだ。ランチョンマットだって大切なものなのだ。なくしたら絶対に怒られる。


 夏の始まりを予感させる温い風はランチョンマットを乗せてどんどん遠くへ向かって行く。ぼくは伸びた草を掻き分けて進む。日頃の運動不足のせいで全く速さは出ていない。体育の授業には出ているけれど、そう簡単に足は速くなるものではないな。


 しばらく行ったところでランチョンマットが木の枝に引っ掛かっていた。よしよし、これで一安心。アーサーさんに怒られる心配はないだろう。


「さて、と……。……あ、あれ?」


 どの方向から歩いてきたのだったっけ。周囲には鬱蒼と草木が生い茂っていて獣道すら見当たらない。ランチョンマットを見て駆け出してしまったから、百八十度方向転換すればいいというわけでもない。


 ここ……どこだ……。 


 近くをうろうろしてみたけれど皆目見当がつかない。完全に迷ってしまったらしい。


 日が暮れる前に家まで戻らなくてはならない。森が影に覆われる時間になると影の兵団チェスが活動を始めてしまう。出くわしてしまったらどうなるか……。想像しただけで震えてきた。最近チェスによる被害が増えてきているというし、夜の森の危険度は上がっている。


 腕時計を確認する。鏡のあちら側とワンダーランドの時間は同じ流れだ。こちら側でもぼくの電池式時計は正常に機能している。電波時計だったらおかしくなってしまうかもしれないけれど。


 時計の針は四時半過ぎを指している。夏至に向かってだんだんと日が長くなってきているけれど、もう少ししたら暗くなり始めるだろう。早く戻らないと。でもどちらへ行けばいいのだろうか。


 下手に動かない方がいいか? 適当にでも歩き出した方がいいか?


 ランチョンマットを手に右往左往する。せめて、どこか開けた場所に出られればいいのだけれど。


 あてもなく歩いていると、ずるっと足元が滑った。兎の巣穴に落ちていくアリスのように、ぼくは小さな斜面を転がり落ちる。


 高低差は三~四メートルくらいだろうか。やや草丈の低い草むらに放り出され、ぼくは綺麗に受け身を取ることなくしたたかにお尻を打った。


「いてて……」


 参ったな。転がっている間にどこかにぶつけたのか捻ったのか、左足に痛みがあった。立ち上がろうとしたけれど足が悲鳴を上げる。


 このままここに倒れていて、そうして日が暮れて、チェスが来て、襲われてしまう。最悪な結果をイメージしてから、どうにかしてここから移動する手段を考える。匍匐前進していけば足が痛くても大丈夫だろうか。いや、腕がもたない。転がっていけばいいだろうか。いや、さらにどこかにぶつかって体中痛くなる。


 誰か通りかからないかな。人間トランプでもドミノでもどちらでもいいから。


 靴を脱いで靴下も脱ぐ。左足首が少し赤みを帯びていた。医学の知識なんてないけれど、無理に動かさない方がいいのは分かる。


 土で汚れたランチョンマットを握りしめる。追い駆けずに、みんなが戻ってくるのを待っていればよかったのかな……。





「坊や、ひとりぼっちなの?」


 膝を抱えて蹲っている間に眠ってしまっていたらしい。目を開けて顔を上げると、黄色いドレスを着た女の人が立っていた。お姉さんと呼ぶのはそろそろ厳しいくらいの歳だと思われる。


「こんな時間に森にいるなんて危ないわよ」


 言われて周囲を見回すと、すっかり日が暮れて暗くなっていた。靴下と靴を履き直し、ランチョンマットが手元にあるのを確認する。


「おばさんが街まで連れて行ってあげるわ」


 女の人は優しそうに笑う。


「あら、足痛いの? ちょっと見せて」


 ぼくは後退る。


「あの、あのあの……。おばさんはどうしてこんな時間に森にいるんですか」

「ええ? それは……」


 女の人はぼくに顔を近付けてきた。ドレスのフリルやレースの間から滲み出るように影が差してきて、修道院のシスターが着ているような服装になった。しかし色は黄色のままだ。スカートにはスリットが入っているらしく、手を入れると足に装着していたと思われる短めの杖が出てきた。


「それは貴方のようなトランプを探すためでしょう!?」


 女の人が杖を振るうと、彼女の斜め前方へ向けて光線のように影が放たれた。正面にいるぼくに当たることはないけれど、それは同時にここから動けないということを意味する。この人は……おそらく黄色のビショップ。


 夜の森、一人、足を痛めた。そんな状態でチェスと遭遇してしまった。最悪の状況だ。


 ビショップはぼくの左右の地面を抉っている。じわじわ追い詰めようとでもいうのだろうか。斜面を背にして、ぼくに逃げ場はない。それでもすぐにとどめを刺さないのはどうしてだろう。恐怖に満ちたおまえの顔を見るのは最高だぜとかそういうのかな。


「おばさんのこと怖くないの?」

「こ、怖い。けど、泣いたって誰も来ないんだから無駄な体力は使いませんよ」

「あら、思ったよりも強い子なのね。感心感心」

「お、おばさん、ビショップなら、どう動いてもぼくを攻撃できませんよね」

「一人だと思う?」


 やはりどこかに別のチェスもいるのか。ランチョンマットを追い駆けていただけなのにとんでもないことになってしまった。兎を追い駆けてへんてこな国に迷い込む少女がいるのだから、きっかけなんて何だっていいのだ。


「あれー。声が聞こえるなあって思ったらおばさんが男の子いじめてるじゃん」


 頭上から声が聞こえたかと思うと、着流し姿の男がふうわりと降りてきた。


「ヤマトさん……!」

「お兄さんこういうの見逃せないんだよねぇ。粋じゃないっていうかさ」


 芋虫、もとい蝶はぼくとビショップの間に割って入る。煙管に火を点けて紫煙を燻らせながら、ビショップと向かい合う。


「野暮なことはしないほうがいいぜ。おばさん」

「ちっ、ドミノかい。とんだ邪魔が入ったね」


 ぼくからは後ろ姿なので表情などは読み取れない。けれど、怯むことなく、むしろ挑発するかのようにビショップに向かっていることは分かった。青い翅が月光を受けて美しく煌めいている。


 軽く踏み込んだヤマトさんの足下でカランと言う音がした。下駄の歯が石か何かに当たったらしい。


「俺ぁドミノだからさ、あんたを殺すことだってできるんだ。でも俺はハンターじゃないし面倒臭いことはしたくないからできるだけ穏便に済ませたいんだよね」

「そんな余裕もじきになくなるわよ」


 ビショップが指を鳴らした。どこからか発砲音が聞こえ、ヤマトさんがよろめく。


「なっ……ん、で……」

「急いでいる時には手段なんて選ばないでしょう」


 足元から影が沸きあがり、ビショップの姿は消えてしまった。


「くそっ……どっかにルークがいたのか……」

「ヤマトさん、助けてくれてありがとうございます。あの、怪我……」

「あー、大丈夫大丈夫。ちょっとほっぺた掠っただけだから」


 紫煙を燻らせながらヤマトさんが振り向く。左頬からは血が一筋伝っていた。へたり込むぼくと目の高さを合わせるように屈み、にやりと笑う。にやり、じゃないな。どちらかというと「にひひっ」だろうか。


「よお人間。こんな時間に一人でどうしたんだ。帽子屋とチェシャ猫のところにいるやつだろ?」

「ア、アレクシス、です。アレクシス・ハーグリーヴズ」

「……アレクシスはどうしてこんなことになっているのかな。お兄さんに教えてくれる?」


 ランチョンマットを追い駆けて転がって足を痛めてチェスに襲われた。状況を説明すると、ヤマトさんは煙管を消して懐にしまい、ひょいとぼくを持ち上げる。そして小脇に抱えるようにして歩き出した。


 人間の子供を一人で放置なんてできない、とヤマトさんは言う。


「今からアイツらの家まで行くのも面倒臭いし、今日は特別に俺のところに泊めてやるよ。明日になったら家まで連れて行ってやるからさ」


 ぼくはクロックフォード兄弟にお世話になっているみなしごという設定になっている。だからヤマトさんの判断は間違ってはいないのだ。しかし、実際は違う。ぼくはワンダーランドの人間ではない。今頃両親が心配している。帰らないといけないのに、この足では一人で動けない。


 仕方ない。明日帰ってから怒られることにしよう。


 カラコロという下駄の音が森に響く。今日日あまり聞くことのないこの音を、まさかワンダーランドで聞かされるとは思わなかった。


「はーぁ、怖かった怖かった。戦闘にならなくてよかったよ。結局は俺は蝶のお兄さんなわけじゃない? 鋭い爪も立派な牙もないからほんとは戦えないんだよね。……撃たれるとは思わなかったけど」


 ヤマトさんは左頬に触れる。


「チェスはドミノを襲わない……。そもそも、その理由が分からないんだから突然襲う可能性だって無きにしも非ずだよな……。俺がアレクシスとの間に入って邪魔したからかもしれないけどさ。やれやれ、面倒なことには巻き込まれたくないね」


 さて、着いたよ。という声に顔を上げると、そこには巨大な蜘蛛の巣のように縄が張り巡らされていた。











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