第百一面 事情があるんだから
うつし世は夢 よるの夢こそまこと。
とある推理作家の言葉である。
夢か現か。どちらが本当なのだろう。
自分が生きている世界は誰かの夢で、自分の見ている夢は誰かの現実なのかもしれない。
……ねえ、夢を見ているのはどっち?
♥
五月になって、四日になって、ぼくは十四歳になった。大型連休が明ければ学校へ行って「誕生日おめでとう」を言ってもらえると思っていたけれど、そのまま六月になってしまった。約二カ月ぶりに、生徒達は学び舎に集う。
「休み中に誕生日があったんだ?」
図書室のカウンター内で鬼丸先輩は言う。
「随分と遅れちゃったけど、誕生日おめでとう」
「えへへ、ありがとうございます」
先輩の手元には『怪人二十面相』が置いてあった。名探偵明智小五郎の助手である、小林少年をメインに置いた少年向けシリーズの第一作目だ。表紙にはいかにも怪盗といった風貌の、帽子に仮面にマントの男が描かれている。
ぼくは先輩に本を差し出す。今日は図書局の仕事で来たのではない。ただの生徒として本を借りに来たのだ。
「『メアリー・ポピンズ』か。もう読んでいるものだと思っていたよ」
「この訳のものはまだ読んだことがないんです」
「訳者違いかあ、拘るねえ」
本とカードのバーコードをスキャンして、先輩はぼくに本を渡してきた。
「貸出期間は二週間です。……だけど、次に来た時で大丈夫だよ」
「図書室の開館日も不定期になっちゃってますもんね」
本と貸出カードを受け取り、ぼくはそれらをリュックにしまう。そのタイミングで、本を読みながらぼく達の会話を聞き流していた女子生徒が顔を上げた。先輩の隣に座る彼女は栞を挟んで本を閉じる。動物と会話のできるお医者さんの話、かな。ドリトルという文字が見えた。
まだ新しい制服に付けられた名札の色は、彼女がこの春に入学した一年生であることを表している。ページを捲り続ける好奇心に満たされた目がぼくを見る。
「神山先輩、休みがちだったって聞いたんですけど。体……弱いんですか?」
「えっ、えっと……」
「寺園さん、神山君には事情があるんだから。あまりそういうの訊かないであげてね」
「あ……。ごめんなさい、神山先輩……」
寺園さんは視線を伏せる。
寺園つぐみ。好きな本のジャンルはメルヒェンな童話。ぼくのことを先輩と呼ぶ数少ない人物のうちの一人。この子も本が大好きで、きっとぼくや先輩と同じような部類の人間だ。共通の話題で盛り上がることのできる人が増えて嬉しい。
「もし体が弱いんだったらフォローした方がいいのかなって、思ったんですけど……」
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
後輩に向かって、いじめられて不登校だったなんて言わない方がいい。彼女はまだこの学校に来たばかりで、美しい日々を送っているはずなのだから。暗い部分なんて教えなくていい。
表情まで暗くなっていたのか、先輩が少し心配そうな顔になる。これ以上この話を引っ張るのはよくないだろう。ぼくはリュックを背負い直した。
「じゃあ、二人共、お仕事頑張って!」
「はい! 頑張ります!」
「気を付けて帰ってね」
軽く礼をして図書室を後にする。廊下に出るとノートを手にした璃紗が壁に凭れて待っていた。ちらりと見えたページには文字と線と矢印が書かれている。今度の作品についてのメモだろうか。
「お目当ての本は見つかった?」
「うん」
ノートを鞄にしまい、璃紗が歩き出す。ぼくはすぐにその後を追った。やや前方を行くおさげがゆらゆらと揺れている。結ばれたピンク色のヘアゴムには小さな花柄があしらわれているようだ。
「早く元の生活に戻りたいな。もっとたくさん授業受けたい」
「璃紗は真面目だなあ」
学校を出て歩いていると、璃紗が立ち止まった。横断歩道があって赤信号が点いているわけではない。何もないところで歩みを止めてしまったのだ。どうしたのかな。
璃紗は少し離れたところを見つめていた。ぼくもそちらを見る。
六月上旬。道路わきの植樹桝には綺麗な花が咲いている。その傍で、花に囲まれるように人が倒れていた。ぼく達は顔を見合わせてからその人に駆け寄った。
濡れたように美しい黒髪は腰くらいまであり、先の方で結ばれている。髪が長いから女の人かと思ったけれど、近くで見るとどうやら男の人らしい。二十代か、三十代前半くらいだろうか。目は閉じられていて、力が抜けたように口が少し開いていた。ぱっと見た感じ怪我をしている様子はなく、着ている服にも目立った汚れはない。
救急車を呼んだ方がいいのかもしれないけれど、生憎ぼく達は携帯電話を持っていないし近くに公衆電話もない。
「あの、大丈夫ですか」
璃紗が声をかけると、男の人は微かに指先を動かした。声になりきっていない音が口から漏れる。
「しっかりしてください」
「……う」
男の人はゆっくりと目を開ける。ぼく達は手を差しのべ、起き上がるのを補助してあげた。アスファルトにへたり込んで彼は苦しそうに息をしていた。ハーフなのだろうか、空のように青い瞳をしている。
「大丈夫ですか?」
ぼくが訊ねると、小さく頷く。
「……近所の子かな、ありがとう。迷惑かけたね」
男の人はふらふらと立ち上がって歩き始めた。どこまで行くつもりなのか分からないけれど、一人で行かせて平気だろうか。そう思っているうちに、男の人は数歩進んでバランスを崩した。ぼく達は彼を追い駆けようとしたけれど、その気配に気が付いたらしい彼はすぐに体勢を立て直して逃げるように去って行ってしまった。
ぼくと璃紗は顔を見合わせる。
「何だったの、あの人」
「ぼくに訊かれても困る」
またどこかで倒れていたら誰かが助けるだろう。執拗に追い駆けたらさらに逃げて体力を消耗してしまうだろうし。
それにしても、さっきの男の人……。どこかで見たことのあるような顔立ちだったけれど、気のせいだろうか。
「ねえ、璃紗。さっきの人、初対面だよね」
「わたしは見たことないけど?」
外に出るときなんて基本的に璃紗や琉衣と一緒なのだから、璃紗が見たことないということは琉衣と一緒に出掛けた時に会ったのかな。でも、どこで会ったんだろう……。
いつものように家の前にはお茶会の用意がしてある。けれど、そこには誰もいなかった。帽子屋も、チェシャ猫も、三月ウサギも、眠り鼠もいない。お菓子のお皿がひっくり返り、割れたティーカップが地面に落ちている。
みんなは、どこだろう……。
新緑が美しいはずの森はどうしてか薄暗く、植物には元気がない。気持ちの悪い風が吹いている。
辺りを見回していると、どこからか羽撃くような音が聞こえてきた。大きな羽が大きく動く音。
強い風が吹いて、辺りの葉っぱを大きく巻き上げた。
――アリス、待っていたよ。私のかわいいアリス。
頭上から声が聞こえると同時に、真っ赤な何かが落ちてきた。ぐちゃりという嫌な音を立てて地面に転がるそれは、何だろう。鼻の奥を刺激するような臭い。違う。鼻じゃない。鼻だけじゃない。体中に危険信号を鳴らす、臭い。
――邪魔なモノは全て消しておいたからね、アリス。かわいそうなアリス。私に食べられてしまう、かわいそうな子。
赤い何かを前にして、黒い龍が降りてきた。気色の悪い笑顔がぼくに向けられる。
邪魔な、もの……。
――毎日毎日終わらないお茶会なんて悲しいだろう。終わらせてあげたんだ、私が。
胃の奥底を掻き回されているようだった。逆流してくるあれやこれを押さえこもうと、反射的に口元に手を当てる。滲み出てきた涙で視界が白くなった。
「……ス。……アリス」
「アリス君っ!」
強く肩を揺さぶられ、ぼくは目を覚ました。アーサーさんとニールさんが心配そうにこちらを見ている。ぼくの肩にはニールさんの大きくて優しい手が添えられていた。
「……あ、れ」
「どうしたんだアリス。すごい音がしたから来てみたら……。鏡の前で倒れてたんだぞ」
ジャバウォックの夢だった。みんながジャバウォックに殺されていた。赤く、黒く、白く、形もなく。思い出しただけで気分が悪くなりそうだ。忘れよう。あんな怖いものなんて。
体の震えが止まらない。ニールさんが撫でてくれたけれど、落ち着くまではまだ時間がかかりそうだ。
「は、はは。ちょっと怖い夢見ちゃって……」
「アリス君……。体調が悪いのですか? 突然倒れるなんて……」
夢のことは話せない。前に見た時のことも話していないんだ。余計な心配はかけられない。ただの悪夢だ。
アーサーさんはぼくの額に手を当て、「熱はないようですね」と小さく呟いた。外にはルルーさんとナザリオがいるらしく、ぼくのことを訊ねる声が聞こえている。
「久し振りに学校に行ったから、疲れちゃったんだと思います……」
「それなら、そのようなところ行かなければいいでしょう」
「えっ?」
アーサーさんの言葉にニールさんが大きく頷く。ぼくを撫でていた手が獣の物に変わり、鋭い爪で空を斬った。歪められた口元に牙が覗く。アーサーさんも仮面のように口角を吊り上げて笑っていた。彼も獣であるという証拠のように、兄と同じ牙が薄っすらと見える。
何かがおかしい。と思ったけれど、ニールさんの腕が強くぼくを抱きすくめていて身動きが取れない。
外から聞こえていた声は聞こえなくなっていた。それどころか、窓は割れ、壁にはひびが入り、家全体が大きく揺れていた。
「オマエの敵、全部殺せばいいんだろう?」
家が吹き飛び、黒い龍が姿を現した。
そこでぼくは目を覚ました。ベッドから落ちていて、体中汗でびっしょりだった。ほっぺたを引っ張ると痛みがある。
どこから夢だった。
夢から覚めた夢を見ていたのか、ぼくは。
床には図書室のバーコードシールが貼られた『メアリー・ポピンズ』が落ちている。
「……ジャバウォック」
怖い怖いと思っているからこんな夢を見るんだ。ぼくにはみんながいるんだから怖くない。大丈夫だ。そう思え。そうすればきっと大丈夫。
時計は午前二時を示している。綺麗な空気を吸おうと思って、ぼくは窓を開けた。汗ばんだ顔に当たる風は生温かい。春はもうそろそろ終わりだろうか。
視界に小さなリボン結びのようなものが映った。夜に見ることは少ないから、珍しいのかな。蝶だ。蝶々が飛んでいる。
「ん?」
蝶か。
夕方に会った男の人、ワンダーランドで会った芋虫さんに似ているんだ。




