第九十九面 単なる興味だからね
無言で佇む骨董品達の奥から現れたのは一人の少年だった。
「いらっしゃいま……。神山君?」
ぼくのことを見て眼鏡の奥の目を丸くする。
「お、鬼丸先輩……!?」
ぼく以外のお客さんがいてもおかしいことではない。おかしくはないのだけれど、今まで他のお客さんを見たことがないので気になってじろじろと見てしまう。
先輩は眼鏡のブリッジを押し上げる。そして、こちらへ歩み寄って来た。初めて見る私服姿。薄手のロング丈パーカーを羽織っている。ぼくの着古したよれよれパーカーとは大違いだ。
「どうしてこんなところにいるんだろう、という顔をしているね」
「どうしてですか」
先輩は店の奥の方を指差す。
「おじいちゃんの手伝いだよ。学校が休みで家にいるのなら、店に立っておじいちゃんの負担を減らしてあげないとね」
よくできた孫だ。
納得しかけて、ぼくは新たな疑問を抱く。先輩が祖父の手伝いをする。それは分かる。ここはどこだ? ここは骨董品店だ。ここにいるのは店主のおじいさんだ。
「えっ……先輩ってもしかして……」
「ここの店主はボクの祖父なんだ。小さい頃に両親が事故で死んでね、それからおじいちゃんと一緒に暮らしている」
店の奥のカーテンが揺れ、白ずくめの女が現れた。腕には兎のぬいぐるみを抱いている。
「栞、おじいさんお昼寝しているみたい。……あら、アリスじゃないの」
白ずくめの女は軽い足取りでぼくに駆け寄って来た。真っ白い髪がふわりと広がり、その奥で真っ赤な瞳が煌めいた。思わずぼくが後退ると彼女は愉快そうに微笑んだ。抱かれた兎のぬいぐるみが無気力に手足を揺らす。
先輩は驚いた様子でぼくと白ずくめの女を交互に見た。
「白さん、神山君と知り合いなんですか」
「うふふ、そうね。ねえ、アリス」
「アリス……。ああ、そうか、神山君が……」
先輩はぼくに向き直る。
「たまにやって来る男の子がいるっておじいちゃんが言っていたけれど、君のことだね?」
眼鏡の奥の目が笑う。ゆるりと伸ばされた手がテーブルの上の『魔術師のおい』の表紙を撫でた。描かれた有翼の馬を絡めとるかのように指が動く。
兎のぬいぐるみを抱いたまま、白ずくめの女は「またね、アリス」と言ってカーテンの向こう側に引っ込んでしまった。店内には先輩と二人きりだ。
「君が来てくれると楽しいっておじいちゃんが言っていたよ。ボクは学校に行っているし、放課後も残っていることが多いからさ、おじいちゃんの相手をしてくれてありがとう」
「い、いえ、ぼくはそんな……」
おじいさんのお店に来るのは楽しい。おじいさんもぼくが来ることで同じように思っていたのか。なんだか嬉しいな。
先輩は本を手に取る。
「神山君、ここの骨董品はいつ見ても変わり映えがないだろう」
「たまに売れてなくなったものや、新しく入ったものがあるみたいですけど」
「まあ、まれにね。ねえ、よかったらこっちも見ていかないかい?」
そう言って先輩は奥の方へ歩いて行くと、分厚いカーテンを引いた。まだ見ぬカーテンの向こう側だ。ずっと気になっていたけれど、入ってはいけないような気がしておじいさんにも訊けていなかったのだ。
カーテンの向こう側から顔をぴょこっと出して、先輩が手招きする。
まるで異世界への扉のようだ。と思っていた。そんなカーテンを捲り、ぼくは踏み込む。廊下があって、目の前のドアが少し開いている。
恐る恐る覗き込んだぼくの目に飛び込んできたのは、無数の紙の集合体だった。壁一面の棚。そこに収まりこちらを見下ろしている本。机の上にも本が積み上げられている。部屋を満たす空気は少し埃っぽさがあるけれど、嫌いじゃない。
ブラインドが下ろされ、わずかな光が差し込んでいる窓を背に先輩が立っている。そして、両手を広げた。舞台の上に立つ役者が演技をするかのように、ちょっと大げさな動きだった。ばさっという効果音がぴったりだと思う。
「ようこそ」
「わあっ……。す、すごいですね……!」
「自由に見て構わないよ」
手にしていた『魔術師のおい』を棚に戻し、先輩はぼくを振り向く。
「店頭の物達と同じ。これもおじいちゃんが集めた本だよ。売り物ではないけれどね。小さい頃からこの部屋が好きだった。だからきっと、ボクは今でも本が好きなんだ」
本棚にひしめく本達は、背表紙をこちらに向けて整列している。国別、作者別に並べられた様子は壮観だ。見上げてみると、天井までびっしりと棚になっているのが確認できた。ぼくの身長では届きそうにない。
先輩はぐるりと本棚を見回し、満足そうに頷いた。本日も変わりなし。と確認をしているようで、まるでこの書庫の管理人、もとい、番人のようだ。
自由に見ていいとのことなので、ぼくは本棚に歩み寄った。近くで見ると一層迫力がある。
ぼくの部屋もこんな風にできたら楽しいだろうなあ。今のままでは本棚から本が溢れてしまうし、床が抜ける危険性もある。いっそのこと一階にぼく専用の書庫を作ってもらおうか。けれど大規模なリフォームなんてお金がかかるので却下されそうだ。
ぼくは深呼吸する。古い本の匂い。とてもいい。『はてしない物語』の主人公が訪れた古本屋もこんな匂いがしたのかな。
丁度目の前にあったのはフランス人作家の作品が置かれた棚だった。原文のものと日本語訳のものとが並んでいて、両方あるもの、片方しかないものとバラバラではあったけれど、きっとどれも面白い作品達なのだろう。
モーリス・メーテルリンクの『青い鳥』が置いてある。
「あの、友達を連れてきてもいいですか。友達も、本が好きで……」
いいよー。と先輩は言う。璃紗も琉衣も喜ぶだろう。
他にはどんな本があるのかな。
「神山君さ」
「はい?」
上の方の本を取ろうとしているのか、先輩は梯子の上に立っていた。ブラインドの隙間から差す日光が眼鏡に反射している。
「手鏡を持っていったのは君?」
手鏡。この骨董品店でぼくに対して質問される手鏡といったら、あれのことだろう。姿見の形が馴染んでしまっているけれど、あの鏡は元々手鏡だ。ぼくの部屋とワンダーランドを繋ぐ不思議な鏡。先輩はここの子だから、あの手鏡を見たことがあるのだろう。
棚から本を一冊抜き取り、ぼくを見下ろす。表紙には帆船と男の子、そして片足の男が描かれている。『宝島』……かな。ロバート・ルイス・スティーブンソンの。
「ねえ、神山君」
「そ、そうです。おじいさんが貰ってって言ったので、貰いました」
「ふうん」
先輩は『宝島』をぱらぱらと捲る。
「誰が持ち込んだのか分からないとおじいちゃんは言っていた。なんだか不思議な雰囲気の鏡だったから気になっていたんだけれど、男の子にあげちゃったっておじいちゃんが言っててさ。まだ持っているのだったら見たいんだけれど」
先輩が見たいのは手鏡だ。しかし、ぼくの部屋にあるのは姿見だ。あの手鏡が姿見になりましたなんて言えるわけがない。
ぼくが黙っていると、先輩は『宝島』を手に梯子から降りてきた。パーカーの裾がひらりと翻る。
「何か不都合でもあるのかな」
「い、いえ……」
「ボクはあの手鏡に惹かれたんだよ。鏡は特別なアイテムだ。王妃様が美しいものを訊ねるのも、カイの心に刺さったのも、アリスが二度目の冒険に出るきっかけになったのも、鏡だ。子供みたいと思うかもしれないけれど、あの鏡も何かあるのかなってね、わくわくしていたんだ。本のページを捲る時のようにね」
そこで言葉を切り、ちょっと考えるような素振りを見せてから続けた。
「衣装箪笥を開いた時のルーシィのように、ね」
鬼丸栞はぼくと似たような人間だ。本が好きで、物語を追うのが好きで、ページを捲り続ける手を止めることができない。本の話をしている時のぼくは、きっと今の先輩のように目を輝かせているのだろう。
できることならば手鏡を見せて満足させてあげたいけれど、あの姿見を手鏡に戻す方法をぼくは知らない。知っていたら、あれはとっくにアーサーさんとニールさんの手に戻っているはずなのだ。
「え、えっと、ごめん、なさい……。あれは、ちょっと……」
「……そっか。うん、分かったよ」
椅子を引いて先輩は机に向かう。
「ボクはここで読書を始めるけれど、君はここにいてもいいし、帰ってもいい。いい場所だろう、ここは」
『宝島』の表紙を捲りながら、噛みしめるように言う。
いてもいいのなら、ずっとここにいたい。この棚の端から端まで読んでみたい。
「また来てもいいですか」
「いいよ。不要不急じゃないならね」
「あの、鏡、なんですけど……」
先輩は本から顔を上げる。
「今はちょっと無理なんです……。見せられるようになったら、持ってくることも、できる、かと……」
「何かあるの、あの鏡」
「え」
「魔物が封印されてるとか」
「えと」
「っふふ、冗談だよ。急がなくていいよ、単なる興味だからね」
帰り際、「じゃあ、学校でね」と言われた。反射的に放たれた言葉なのだろうけれど、次に登校できるのはいつになるのだろう……。
書庫を出てお店の方へ行くと、いつもおじいさんが座っているロッキングチェアに白ずくめの女が座っていた。先輩が裏へ行ってしまったので、代わりに店番をしているのだろう。さっきもそうだったけれど、相変わらず帽子を目深に被っている。鍔の影から赤い瞳が覗く。
「あら、アリス。帰るの?」
ゆらゆらという椅子の動きに合わせて白い髪がさらりさらりと揺れていた。膝の上には白い兎のぬいぐるみが乗っている。おじいさんはのんびりと彼女を受け入れていたけれど、先輩は何の疑問も持たなかったのだろうか。
白ずくめの女が薄く笑う。
「おじいさんは優しいし、栞はいい子。ここは素敵ね。けれど、何も思い出せないの、まだ。……私は誰なのかしらね……。ねえ、アリス」
「ぼくに訊かれても困ります」
椅子が軋む。
「……栞がね、時々私のことを怖い目で見るのよ」
え?
体を横に向けて白ずくめの女はぼくを見た。血のように真っ赤な瞳は、嬉しそうにも悲しそうにも見える。
「忘れてしまう前の私に嫌なことでもされたのかしらね」
言葉を失って狼狽えているぼくを見て、彼女は心底愉快そうに笑って見せた。




