第九十八面 悲しいね
王宮騎士らしき少年はぼくに笑いかける。帽子に付けられたスートは水色のクラブだ。
「どうしてこんな森の中に子供がいるのかな?」
やはりそう来るか。
森は獣が暮らし、夜になればチェスが蠢く危険な場所だ。人間の子供が一人でうろうろすべき場所ではない。初めてエドウィンに会った時もこの質問をされた気がする。
「迷子なんだったら街まで送るけど」
「いえ、大丈夫です。ブリッジ公爵夫人の関係者なので」
「ふうん?」
ブリッジ公爵夫人、と少年は復唱する。その時、目が笑ったように見えた。少し気だるげな青紫の瞳は深い水の底を思わせる色だ。
王宮騎士の主な仕事は王族の警護だ。だから街の中心部にいるはず。おかしなお茶会の面々などの管理をしているエドウィンや、その手伝いをしているクラウスはよく森に出入りしているけれど、他の王宮騎士の姿を見るのは珍しい。一人でいるから訓練や偵察というわけでもないだろう。
「ここで何をしているんですか? さっき歌ってましたよね」
少年は土の山を見下ろす。
「悲しい、悲しいね……。ここはお墓なんだ」
「お墓……」
金魚……ではないよね。わざわざこんな森の中にあるということは、森で死んだのだろう。もしかしてチェスに襲われたトランプだろうか、という悪い予感が頭を過った。
「猫だよ。かわいい猫だった」
大きさから分かってはいたけれど、人ではなかったか。きっとかわいがっていたんだろうな。
「……ボクの猫じゃないけどね」
「えっ?」
少年はくすくすと笑う。自分の飼っていた猫ではないけれどお墓参り。近所の人の猫だったのかな。
「……かわいそうに。悲しいね」
お墓の前で歌っていたということは、あれは鎮魂歌か何かだろうか。少年はローブを翻してその場を立ち去ろうとする。軍帽を深く被り直し、ぼくの横を通り過ぎる。と思われたけれど、目の前で立ち止まった。海底を思わせる瞳が真っ直ぐにぼくを見る。
「君、名前は? 怪しい子供だったら困るから一応訊いておきたいのだけれど。ほら、ボク王宮騎士だからね。悪い子なら王様に言っちゃうよ」
「アレクシス・ハーグリーヴズです。……騎士さんは?」
「ボクの名前必要?」
「人に訊いておいて名乗らないのは良くないことだと思います」
少年はちょっぴり困ったように笑った。
「……ボクはアニス。じゃあね、アレクシス君。日が暮れる前に帰るんだよ」
アニス。そう名乗った王宮騎士の少年は茂みの向こうへ消えていった。しばらく彼が向かって行った方を眺めていたけれど、こんなところでぼーっとしている場合ではない。早くログハウスへ行って公爵夫人にイヤリングを届けてあげなくては。
草を掻き分け、獣道へ戻る。いつも通りに歩いて行くと、程なくしてログハウスの前に出た。テラスの上で何か影が動いたように見えたので、恐る恐る近付く。シルエットの大きさからしてラミロさんやマミさん、公爵夫人ではなさそうだ。
「あーり」
「……えっ」
テラスに上がると、何かがぼくの足を掴んだ。
「むぎゃあああっ!」
何だこの小さくて柔らかいものは。驚いて大きな声を出してしまった。中でピーターが眠っているかもしれないのに。起こしてしまったらどうしよう。
足元を確認する。そこにはかわいい豚のワンポイントが付いている服を着た小さな小さな男の子が立っていた。自分の体を支えるようにぼくの足にしがみついている。小さな手からはその小ささ故の意外と大きな圧力が掛けられていてちょっと痛い。
子供の成長とは早いものだ。まだまだ子供なぼくが言うのはおかしなことだけれど、本当にそうだと思う。ついこの間までだっこされていて、「あー」とか「うー」とかしか言葉を発していなかったというのに、今はこうして自分の足で立っている。
「ピーター?」
「んーんー」
ぼくはピーターを抱き上げる。やっぱりちょっと重いな。
ぼくの叫び声を聞きつけたマミさんが外に出てきた。
「坊ちゃん! ごめんなさいねアリス君」
「いえ」
「もう、少し歩けるようになったからって勝手にどこにでも行かないでくださいね」
「まぁみぃー」
マミさんはぼくの腕からピーターを取り上げ、優しく抱きしめる。お菓子を作っていたのか、マミさんからはほんのりと甘い香りが漂っていた。ピーターはマミさんのエプロンを引っ張っている。
マミさんが料理の最中ならば、ラミロさんがぴょこんと現れるはずだ。しかしドアからカエルの召使が姿を現す気配はない。公爵夫人も出て来ない。
「あ、あの。イヤリングを届けに来ました」
ぼくはジャンパーのポケットから薔薇のイヤリングを取り出す。春の日差しを受けて真っ赤な薔薇がきらりと光った。丁度そのタイミングで、ようやく公爵夫人が姿を現した。けれど、ハートのエースはそのドレスのどこにもハートを付けていなかった。真っ黒なドレスを纏った公爵夫人がゆっくりとこちらへ歩いてきて、ぼくの手からイヤリングを受け取る。表情は暗い。
しばらくイヤリングを見つめていた公爵夫人は、ラミロさんを呼んで彼にそれを渡した。琥珀色の瞳は翳っていて、いつものような輝きを持っていない。
用事は済んだ。猫と帽子屋の家に戻ろう。
でも気になるな。
「珍しいですね、黒いドレス……」
公爵夫人は目を伏せる。
「今日は悲しい日なの……。アリス君、イヤリングを届けてくれてありがとう。今日はもう、そっとしておいてくれるかしら……」
静かにログハウスの中に戻っていく公爵夫人の後をラミロさんが追う。続いて、ピーターを抱いたマミさんが軽く一礼をして引っ込んでいった。公爵夫人、元気がなさそうだったけれど大丈夫かな。
誰もいないテラスに佇んでいるわけにもいかないので、ぼくは獣道へ戻った。
帰り道では特にこれといった出来事もなく、無事に猫と帽子屋の家に辿り着いた。まるで初めてのお遣いへ行った小さな子を出迎えるように、玄関にはニールさんが待ち構えていた。
「おかえり」
「ただいまです。わざわざお出迎えなんて……」
「ミレイユの様子はどうだった」
ニールさんは思いつめたような表情をしている。ぼくの発言を聞き逃すまいと、猫耳がぴくりと動いた。
「黒いドレスを着て、元気が無さそうでした」
「そうか」
「ニールさんに会えば元気になるんじゃないですか?」
ぼくが訊ねると、ニールさんは首を横に振った。
「駄目だ……。俺は、今日は会いに行けない。行っちゃ駄目なんだ……」
悔しそうに猫耳に触れる。伏せられた目は小さく震えていた。
「今日は……ダイナの命日だからな……。……ちゃんと手ェ洗ってからリビング来いよ」
そう言い残して、ニールさんはリビングの方へ歩いて行った。
ダイナ。公爵夫人が昔飼っていた猫で、とても大事にしていたと聞く。その猫が死んでしまった時、夫人はとてもショックを受けた。そして、ニールさんのことをダイナの代わりにして愛でている。今日がダイナの命日ならば、夫人が暗い様子だったのも、ニールさんが会いに行けないというのも分かる。きっと会ってしまったら、いつにもまして愛猫のことを思い出して辛くなってしまうのだろうな。
もしかして、あのお墓って……。いや、でも、それじゃああの王宮騎士、アニスはどうしてあそこに……? 夫人の知り合いなのかな。
あれがどこの猫のお墓なのかは分からないのだからこれは単なるこじつけに過ぎない。王宮騎士のことが気になるのならばエドウィンかクラウスに訊ねてみればいいだろう。
風邪の予防に手洗いうがいは大事なことで、それはワンダーランドも同じだ。玄関のドアを閉め、ぼくは洗面所へ向かった。鏡にはぼくの姿が映っている。洗面台のタイルは照明を反射してぴかぴかと光っていた。細かくて綺麗なモザイクタイルは誰の趣味だろう。ニールさんとアーサーさんの、お父さんか、お母さんか……。赤と白の格子柄がかわいいな。何かに似ている気がするけれど、何だろう。
リビングに戻ると、アーサーさんが追加のお茶を淹れてくれた。
「先程は申し訳ありません、つい眠ってしまって」
「疲れてたら休んだ方がいいですよ」
「ありがとうございます」
テーブルの上にはトランプのカードが広げられている。単にカードと呼ばれているこの遊びは、ワンダーランドでは最もポピュラーなテーブルゲームだ。
「何やってるんですか?」
「んーとね、デュラックだよ。アリス君もやる?」
聞いたことのない遊び方だな。
「ぼくは見てるだけでいいです」
ナザリオは目覚めているようで、四人でゲームをしているらしい。
「あの、トランプのゲームってありますけど、ドミノのゲームもあるんですか? チェス、とかも」
「ありますよ。アリス君はそちらの方がよろしかったでしょうか」
「い、いえ。カードの方がいいです。これは分かんないけど」
そうだ。あのタイル、チェス盤に似ているんだ。赤と白。『鏡の国のアリス』に登場したチェスの色。
すぐに物語を連想してしまう。これは相当重症だ。いくら読書好きと言っても、これはかなり危ないんじゃないだろうか。明日新しい本を買おう。ああ、また本のこと考えてる。
「アリスぅ、大丈夫ぅ? 頭痛いの? 眠いの?」
「大いに悩んでいるだけです」
「なんでおれにも敬語……」
たまには何か別のことをしてみてもいいのかな。
◆
おじいさんの骨董品店に行ってアンティークなあれやこれやでも見て来よう。そう思ってぼくは家を出た。
学校はまだまだ休みが続いているし、余計な外出は控えるようにと偉い人も言っていた。けれど、星夜周辺はいつも通りの穏やかな空気が流れているから緊張感というものがいまいち沸かない。昔から病気の流行というものに強い地域だという話を聞いたことがある。一説では、ここいらの土地には何らかの力があるとか、ないとか。諸説あるしただの言い伝えだけどね。
ドアを開けると、上部に取り付けられたベルがリロンリロンと鳴った。
「いらっしゃいませー」
店の奥から聞こえてきた声はおじいさんのものではなかった。白ずくめの女のものでもない。
テーブルの上には一冊の本が置かれている。
「『魔術師のおい』……。ナルニア国物語?」
椅子の軋む音が聞こえた。




