第九面 何で子供が兎の庭にいるんだ
それはお茶会セットの脇に落ちていた。
柔らかそうな抱き枕を抱えたパジャマ姿の少年。頭頂部には小さな丸い耳があり、柔らかそうな細い尻尾がパジャマのトップス部分の裾からはみ出している。
少年といっても、ぼくより年上かもしれない。この世界に学校があるのかはわからないけれど、高校生くらいにも見える。
アーサーさん達はお買い物かな。
「あのぅ、風邪ひきますよ?」
少年は抱き枕をひしっと抱いて動かない。時々耳が動いて、寝息が聞こえる。
おそらくこの少年がおかしなお茶会のもう一人の客、眠り鼠だろう。いくら眠り鼠と言ったって、こんなにも起きないものなのか。うーん、困ったな。
猫と帽子屋の行方を聞くこともできないし、かといってこんなところで眠っているのを放置するわけにもいかないしな。帰らずに、ここで二人の帰りを待つしかないか。
近くにあった椅子を引き、腰を下ろす。
ティーカップやティーポットは置かれているけれど、中には何も入っていない。お茶、淹れてきてもいいのかな。なんだかお預けをくらった犬みたいな気分だ。犬になったことないけど。
風に木々が揺れる音と、鳥のさえずり。なんて穏やかなんだろう。ぼくの暮らす町は都会ではないけれど、街の喧騒から離れたこんな場所はとても心地いい。時々聞こえてくる寝息さえも森の音の一部のようだ。このまま椅子に凭れて、ぼくも眠ってしまいそう。
「帽子屋ぁー、いるかあー」
誰……?
「ん? ヤマネと……人間だな。おい、オマエ」
肩を揺さぶられた。眠ってしまったらしい。ぼくは目を開ける。
若い男だった。緑色の腕章をした黒い軍服姿で、軍帽には緑色のクラブがある。腰には剣を差しているようだった。
「何で子供が兎の庭にいるんだ。迷子か?」
軍服の青年は腰につけていたポーチらしきものから手帳とペンを取り出す。
「街まで連れてってやる。スートと番号教えてくれるか」
この家の敷地から出なければ安心だって言ったじゃないですか! 敷地に人が来るなんて聞いてませんよ!
青年は答えないぼくを不思議そうに見ている。感情を映していないような冷たい緑の瞳だった。この世界では初めて見る黒髪が首を傾げるのに合わせてうねる。
「♣J」と腕章に書かれているから、この人はクラブのジャック。十一番は貴族か騎士。格好からして騎士か、それとも軍に入った貴族の子弟だろうか。うん、どっちにしろ兵隊さんだね。
眠り鼠の寝息だけが時間の流れを表している。
青年は表情を全く変えずにこちらを見つめている。答えるまで待つつもりなんだろうか。
「スートと番号が分からないのか? それなら名前を教えてくれ。役場に聞けばスートも分かるだろう」
どうすればいいんだ。早く帰ってきてくださいアーサーさん! ニールさん!
静かに待っていると思われた青年が手を伸ばしてきた。ぼくの腕を掴む。
「埒が明かない。来い、役場まで歩くぞ」
「ええっ、ちょっと待って……」
「なんだ、声、出るんじゃないか。なぜ何も答えない」
「えーと、えーとですね……」
ぐいぐい引っ張って来る青年になんとか耐えながら、ぼくは椅子にしがみ付く。こんないいタイミングで眠り鼠が起きるとも思えない。助けは訪れないか……。
「……ぼくは」
「ふわーあ、よく寝た……」
なんてタイミングだ。
眠り鼠が目を擦りながら起き上がる。青年の力が一瞬緩んだ。
「ん? おはようエドウィン、来てたの?」
「ヤマネ、この子供はオマエの知り合いか」
眠り鼠は寝ぼけ眼でぼくを見る。
「知らなーい」
ルルーさんにはぼくのことを言っていたようだったけど、彼には何も伝えていなかったのだろうか。青年は「そうか」と小さく呟いてぼくを引っ張った。
「待ってください、ぼくはっ」
「いいから来い。こんな森、子供が一人でいると危ない」
椅子が倒れた。
引っ張られるまま、ぼくは庭から出てしまう。大変なことになってしまった。役場に連れて行かれて、ぼくがこの世界の人間じゃないということが分かったらどうなってしまうのだろう。ハートの女王が登場して、あの有名な「首をお刎ね」を言われてしまうのだろうか。
絶対二人に怒られる。
助けを求めて振り返るが、眠り鼠は再び深い眠りについているらしかった。
「オマエ、名前は? 名前くらい言えるだろう」
「こ、個人情報なので……」
「個人情報? おかしなことを言うやつだな。教えてくれないと身元が分からないんだぞ」
「迷子じゃないんで……」
「どう見ても迷子だろう。……分かった、オマエあれだな」
まさか、気付かれた……!?
「名前を聞くならオマエが名乗れ、とかいうやつだろう」
「え」
「オレは緑のクラブのジャック。エドウィン・カザハヤ」
カザハヤ? 漢字だと風早、かな。日本人?
さあ、名乗ったぞ。とエドウィンさんは言う。
「オマエの名前は?」
「え、えと……。有主……」
「ナオユキ? 珍しい名前だな、聞いたことない」
家の敷地を抜け、森に入る。家の周りもそうだけれど、見たことのない花が咲き、見たことのない葉を生やした木々が並んでいる。
「エドウィンさんは」
「エドウィンでいい。オレのモットーは市民と対等に清き良き関係を、だからな」
「えーと、じゃあ、エドウィンはあのお家に何をしに来たの?」
「口調まで砕けるのか……。……あれはな……。いや、言うわけにはいかない。一般市民は知らなくていいんだよ」
そう言われると余計気になるな。
「だいたい、森に迷い込むにしても他に場所があるだろう。どうしてよりにもよって帽子屋の家に……」
ぶつくさ言いながら、エドウィンはぼくの腕を引っ張っている。
森の木々は手入れされていないのか、自由に生え、自由に育っているようだ。確かにこれは案内がないと迷子になってしまいそう。
途中、何軒かの家が見えた。カエル頭の人影が一瞬見えた気がする。
街まではまだだいぶあるのだろうか。一向に視界が開けない。
進んでいる。まだ進んでいる。
しばらく歩いて、ようやく木がまばらになってきた。
「街はもうすぐなの?」
「あと少しだ。……って、変なこと言うやつだな。街からあそこまで歩いたんだろう?」
「そ、そうですね! あは、あはは……」
エドウィンは怪訝そうな顔になる。
木が少なくなるにつれて、人の声が聞こえるようになってきた。
「着いたぞ」
垂れ下がっている枝を避けながらエドウィンが言う。
街があった。
テレビでやっていた世界の街を訪れる番組でいつも旅をしているような、おしゃれな街並みが広がっていた。レンガや石で造られた建物が多いようだ。道行く人々はみんな人間の姿をしていて、スートの飾りをどこかしらに着けている。
『オズの魔法使い』に出てくるエメラルドの都みたいだ、という第一印象だけれど、この街は緑一色ではない。黒と赤を中心にしつつも、色とりどりで、まさにメルヘンといった感じだ。
「おい、行くぞ」
腕を引かれ、歩き出す。
「役場はこっちなの?」
しまった。
立ち止まったエドウィンが不気味がるように振り向く。
「オマエ何言ってるの……」
感情を映さないと思われた緑の瞳が僅かに揺れていた。
「あはははド忘れしちゃったー!」
変なやつ。と呟いて、再び歩き出す。誤魔化せたのかなあ。
商店街らしき通りを歩く。お店の人たちがエドウィンに声をかけていた。お兄さん寄ってかないかい、とか、兵隊さん見ていかないかい、とか。エドウィン、と名前も呼ばれている。馴染みのお店なのかな。
「役場だ」
スートが描かれた大きな扉のある大きな建物の前に着いた。
「ナオユキ、だったな。名前でスートを確認してもらおう」
引っ張られるままここまで来てしまったけれど、これはかなりやばい。
エドウィンは役場の重そうな扉をえいっと引いた。引き戸なのか……。って、そんなこと考えてる場合じゃない!