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(2)

「ねぇ、お前温泉入った事ある?」


 と、アスタロトが言い出したのは、新年に入り二十日ほど経ったある寒い日の午後だった。


 いつものようにアスタロトが近衛師団に遊びに来て、レオアリスと執務室の来客用の卓を挟んで座り、何となく会話を交しつつのんびりしていた。


 執務机に座っていたグランスレイとロットバルトが一度確認するように視線を上げて、また書類に戻す。レオアリスは書類を置き、アスタロトが手にしている雑誌の表紙を卓の向こうから見つめた。


 雑誌といっても化粧の仕方やらファッションやら恋愛占いやらが載っている訳ではなく、主に政治的な話題や王都や国内の目新しい物事を取り上げる、ちょっとお堅いものだ。年に四回、王立文書宮が発行している、木版多色刷りの豪華版だった。


 ちなみにこの世界、ファッション誌といった余暇娯楽的精神溢れるものは存在しない、念のため。


「温泉――? あるけど、何で?」


 アスタロトが瞳を煌めかせる。


「温泉行きたい!」

「……そうか。行ってらっしゃい」


 レオアリスはなるべく意に介さないように努め、それまで読んでいた資料に再び眼を落としかけ――、何かを察知して飛び退いた。それまで座っていた長椅子が燃え上がる。


「ああっ、てめェなぁ! 気に入ってんだぞこの椅子! 昼寝にちょうど良くて……」

「良かったじゃないか。昼寝(サボリ)の要因が消えてお前の部下は感謝してくれる」

「――」


 アスタロトの顔はにこりともせず真剣そのものだ。レオアリスはグランスレイ達の顔を見回し、そこに浮かんでいる表情と、まだ諦め切れずに炭化した長椅子とを眺め、肩と一緒に溜息を落とした。


 アスタロトはしばらくレオアリスを見つめて反論が無いのを確認した後、見た目だけは愛らしく微笑んだ。


「温泉行きたい。黒森って温泉あるんでしょ? 私まだ一度も入った事無いんだよね。露天風呂とかあるんでしょ? 空が見えてすごく気持ちいいんだって昔、母様が話してくれたの覚えてるんだー」


「ったく、そんなに温泉に入りたきゃ、適当に石でも熱してお前ん家の池に放り込んでおけよ。すぐに露天風呂……」


 今度は命の危険を感じた。


 アスタロトが薄らと、紅い陽炎を纏っている。取り敢えず口を閉ざし、レオアリスはアスタロトの様子を伺った。


 腕を組み、アスタロトはレオアリスを睨んでいる。


「……こないだ、何でも言う事聞くって言ったよねぇ」

「――言った、っけ?」

「言った!」

「言いました」


 こくりと頷く。


「じゃあ温泉行こう。明日は?」


(――無茶苦茶な……)


 レオアリスはもう一度、グランスレイとロットバルトの顔を眺めた。二人ともまだ口を挟む気は無いようだ。取り敢えず自分で反論を試みる。


「約束はした。したけどなぁ、だからって何でいきなり温泉なんだ。あんなの森ん中の池が暖かくなってるぐらいで、他には何にも無いぜ」


 情緒の欠片も無い言い方だが、仕方が無い。確かに黒森(ヴィジャ)の中には所々温泉が湧いていて傷を癒すなどと言われていたが、レオアリスが今口にした通り、そこは他には何も無い場所だった。


 というより時折命の危険を感じる代物というか。

 周りは雪と森しか無く、おまけに。


「ヴィジャの獣が色々入りに来るしなぁ……」

「何ぶつぶつ言ってんの? それよりこれだよこれ! 温泉特集!」


 うきうきと瞳を輝かせながらアスタロトの差し出したのは、先ほどの雑誌だ。


「温泉特集……?」


 そんなノリノリの記事を載せる内容だっただろうか。仮にも王立文書宮編纂である。


 レオアリスは首を傾げ、開いた頁を覗き込んだ。そこにある見出しを眼で追う。


『~心を癒す隠れ家的温泉宿~ 初公開、シュランの秘湯』


 文責、王立文書宮長スランザール


(……。スランザール……)


 ああ、浸かりそう……とほんわり思った。

 気持ちよさそうに湯に浸かっているスランザールの姿が容易に思い浮かぶ。手ぬぐいを頭に乗せたり……


「食事が豪華なんだって~、ここ」

「食事? 何で食事?」


 何の話かともう一度良く確認すると、表題にもしっかり宿と書かれている。


「宿? ヴィジャに?」


 レオアリスは少しばかり驚きを覚えた。


 シュランは知っている。故郷の村から歩いて三日ほどの黒森の縁あたりにある村だが、故郷と同じくらい寂れた村で、故郷にいた四年前には何もない場所だった。


(確かに温泉はあったけど)


「いつの間にこんなになったんだ?」


 それに答えたのはロットバルトだ。


「観光資源としての温泉の価値が見直されたのは三年ほど前ですね。北方公の辺境部振興施策として二年前から整備が進められていて、今年になって本格化するようです」

「温泉が振興になるのか」


「なりますよ。そもそも財政支援や不定期の義援金だけでは根本的解決にはならず限界がある。地域そのものの生産性の向上や自主財源確保は重要な課題です」

「ああ、確かに」

「スランザール公のその記事は新規事業の周知が目的でしょう。似合ってますが」


 さすがは国内最高峰学府王立学術院三年連続首席記録保持者、知識が広範囲に渡っている。


 が、こんな処で懇切丁寧に説明する位なら、アスタロトが椅子を焼いた時点で適切な口出しをして欲しかった。


 しかしロットバルトはそれだけ注釈を入れると、後はまた書類に戻ってしまった。


「――まあ」


 何はともあれ、辺境へのそうした施策が進められているというのは興味深くもある。


「振興策か」

「固い話はいいけど、ベールがやってるなら宿押さえてもらえるな」

「マジで行くのかよ……仕事はどうするんだ。ヴィジャまで飛竜でだって一日近く掛かるぜ」

「行くよ! 二泊三日(機中一泊)の弾丸ツアーだよ~」

「騎上だろ。大体明日だの明後日だの、お前はいっつも無計画過ぎるんだ」


 むっとしてアスタロトはレオアリスを睨んだ。瞳には傷ついた色が浮かんでいる。


「――何だよっ、お前、いっつもいつも私がやりたい事否定ばっかしてっ。私と遊ぶの嫌なのか! 判った、私のコトなんか嫌いなんだ!」

「ガキじゃ」


 あるまいし、と言おうとしてさすがに止めた。いくら気が置けない間柄だとは言え、軽口もこれ以上は言い過ぎだ。


 既にもう、アスタロトは拗ねてしまっている。


「いいよ、もう、レオアリスなんか誘わないもん! 絶対誘ってやらないからね! 美味しいお店も面白い場所もアーシアと行くもん! どうせ私の事キライなんだから」

「違うって」

「何が?!」


 ぷい、と膨らませ頬を背けたアスタロトの腕を取り、レオアリスはもう一度向かい合った。


「嫌な訳ないだろ。アスタロトの事は好きだぜ」

「――す……」


 一瞬、室内の音が消えた。


 アスタロトがさっと押し黙り、それから見る見る頬に血を昇らせる。


 頬が火照っているのが自分ですら判って、アスタロトはそれを隠すように両手を当てた。


「お前、そ、そういうコト」

「そういう意味じゃなくって」

「え……」

「俺が気にしてるのは今の時期、慣れない奴がヴィジャなんて無理だって事だよ。行くにしてもせめて春になってからにしようぜ」


 アスタロトを落ち着かせようというように、レオアリスは穏やかに、にこりと笑ってみせた。


「絶対その方が楽しいって」

「――」


 再びしん、と室内が静まり、空気が一度に冷え込んだ。

 ロットバルトが片手を額に当て、軽く溜息をつく。


(ある意味、(たち)が悪いな……)


 レオアリスは自分の言った言葉の持つ側面を認識していない。周囲の予想通り、アスタロトは眉をキッと引き上げた。


「春なんか待ってられるかっ、ばぁーか!」

「バカ……?」

「今の時期だからこそだろ! 何の為の振興策だ!」

「だから振興する前に凍るっての」

「皆行きたがってるもんっ」

「皆って誰だよ」

「私と……」


 アスタロトははっと気が付いた。


 今まで彼女は無意識ながら、レオアリスと二人で行こうと誘っていた事になる。しかも泊まりで。そこらに食べに行くのとは訳が違う。


 元々ちょっと破天荒とは言え良家の子女だ。再び、アスタロトは首筋まで真っ赤に染めた。


「だからほら、無理しないで春に」

「いや、行く! ア、アーシアもいるしっ」


 ちょうどその時がちゃりと扉が開き、演習場へ行っていたクライフとヴィルトール、フレイザーが戻って来た。クライフは執務室に一歩入ると暖炉で暖められた空気に触れ、ぶるりと身体を震わせた。


「うぉあー、寒かったー! 熱い風呂に浸かりてぇー!」


 アスタロトがはいっと右手を上げる。


「温泉行くひとー!」

「行きまーす!」


 にょっきり手を上げたクライフは、直後に書類の束で頭を(はた)かれた。叩いたヴィルトールが涼しい顔で書類を手渡す。


「お前もさ、取り敢えずで乗ってみるのは止めたら? 話は良く聞いてから答えないと人生後悔するよ」

「取り敢えずで叩くな。第一その言い方はアスタロト様に失礼じゃねぇの?」

「まだまだだな」


 意味深な笑みを残し、ヴィルトールは自分の席に座った。


「何だまだまだって。後悔なんてしねぇっての、ねぇアスタロト様。で、アスタロト様、温泉て何の事です?」


 遊びの話は大歓迎と身を乗り出したクライフの目の前に、アスタロトはほっと息を吐いてあの雑誌を開いて差し出した。


「ここここ。この温泉宿に行くんだ。皆も行かない?」

「温泉宿! いいっすねー、行きます!」


 またしても即決し、クライフは雑誌を覗き込んだ。


「へぇ、黒森か。黒森ったら上将の出身地ですね。一度行ってみたいと思ってたんですよ。どんな感じですか、上将」


 賑やかなクライフに年下のレオアリスが苦笑を浮かべる。


「まあいい所だけど、真冬はマジで止めた方がいいと思うぜ。温泉がいくら温かくても出た瞬間凍って死ねる。周りは森ばっかだし、色々厄介な獣も多いし……シュランはこれまでは本当に人の行かない場所だったからな」


 レオアリスの言葉の内容にも関わらず、クライフは目を輝かせた。


「おおー、それってなんか秘湯ってヤツっすねー!」

「いや、」

「できたばっかりなんだって。じゃ、決定ね! 私ベールに言って部屋取ってもらうよ」

「おい、まだ行くって決まった訳じゃ、」


 アスタロトがすうっと瞳を細め、レオアリスは口を噤んだ。


「これ以上文句あるの?」

「――」

「はーい、じゃ決まり! 行くのは私とアーシアとレオアリスとクライフ?」

「――」


 ぽんぽんぽん、と名前が列挙され、ここにはいないアーシアを抜かした三人は顔を見合わせた。


 ……何が原因とは言いがたい、微妙な空気が流れている。


 ロットバルトが流麗な笑みを刷き、その空気の原因を容赦無く言い表わした。


「また随分と、方向を外れて雪道を転がり落ちそうな顔触れが揃ったものですね」

「お前、またそういう事をさらっと……。じゃ一緒に来るか? 歓迎するぞ」


 レオアリスが自棄(やけ)ぎみに口の端を上げる。


「遠慮します。同行した場合の自分の役割が判り切っているのでね。アーシアも常識が有りそうで無いしな」


 ロットバルトの評価はかなりひどい。が、実際そうだ。

 基本的にアーシアはアスタロトが満足なら満足なのだ。


「まあまあ、道中は俺に任せてくださいよ! なんつってもこの面子じゃ俺が一番年上ですからね~!」とクライフが言い、


「私がいるから大丈夫! 心配すんなよ~!」とアスタロトが胸を張り、そんなお気楽な発言を聞いていると、余計不安が増してきてレオアリスは肩を落とした。


 冬の黒森がどんな場所か、彼等は判っていない。特にこの時期は。


 それまでただ状況を見守っていたグランスレイは、その場を区切るように溜息を吐いた。


「ロットバルト」


 執務室内に、緊張を(はら)んだ静寂が落ちる。


「――何か」


 グランスレイの意図を明確に理解した上で、ロットバルトは非常に爽やかな笑みを返した。


 ものすごく、命令しづらい。


 自分のこなすべき量以上の仕事を全てこなして正に帰宅しようと席を立った部下に残業を命じる時の上司の心持ちのそれだ。


 上司の心が折れたら、次はどちらにお鉢が回ってくるだろうかとヴィルトールとフレイザーはお互いに牽制する視線を交わした。


 真冬の北の辺境、黒森、アスタロト、クライフ。


 暖炉の火で暖められているはずの室内の空気は、黒森を吹き(すさ)ぶ北風だ。


 が、グランスレイの精神は鋼のように強かった。多分熱風でも曲がらない。


「休暇でなくても構わん。同行してくれるな?」


 一呼吸を置いて、ロットバルトは再び柔らかな笑みを刷いた。


「ご命令とあれば致し方ありませんね」


 固唾を飲んで見守っていたヴィルトール達が、ほぉっと安堵の息を洩らす。


「……失礼だろ……」


 一連のやり取りにレオアリスは肩を落としたが、アスタロトは気にならなかったようだ。


「そんじゃ、ロットバルトも入れて五名ね! 私今からベールんとこ行ってくるネ~」

「五人か、結構な人数だね」

「そうね――あ!」


 フレイザーは重大な事に気が付いた。


「待ってください、アスタロト様」


 飛び出しかけたアスタロトを慌てて止める。


 こればかりは黒森だの真冬だの、クライフだアスタロトだと言ってはいられない、最重要問題だ。


「アスタロト様、その、女の子一人じゃつまらないでしょう。私も同行しましょうか」

「ホント?! やったぁ! 一緒に入ればいいやとか思ってたけど、フレイザーがいるなら良かったぁ」

「一緒――」


 びしり、と室内の空気に亀裂が走った。冷えたり荒れたりひび割れたりと、今日の執務室内は慌しい。


「も……もうぜひ、ご一緒致しますわ!」


 フレイザーは引き攣った微笑みを浮かべ、アスタロトの手を握りしめた。


「じゃ、後で予定連絡するね~」


 そう言って片手を上げ、一人アスタロトは明るく、執務室を出ていった。


 室内は再び何とも言い難い空気に満たされたが、さすがにロットバルトでさえその原因に触れようとはしない。


 行く手には波乱しか見えない気がする。


「――まあ、今日の明日で部屋が空いてるとも限らないしな」


 そもそも普通この時期なら閉鎖してもおかしくはない。ベールが断ってくれる事に期待して、レオアリスはもう一度あの雑誌を眺めた。


 ふと気が付いてそれを取り上げる。


「――何だ、春の営業開始じゃねえか」

「あら、そうなんですか?」

「そりゃそうだよな、今の時期ヴィジャなんて訓練ぐらいにしかならないし」

「じゃあ今回は無しというか、延期ですね」


 漸く今日一番、室内の空気がほぐれ、クライフ以外は全員安堵の笑みを浮かべた。










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