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「広~い!」


 アスタロトは今日何度目かの歓声を上げて浴場を見回した。


 言葉通り広い。横幅十間ほどの長方形の浴場は二十人近くが一度に入れそうなほど広かった。

 館と同じ瀟洒な造りで、半分以上が乳白色の湯を湛えた浴槽になっている。


 敷き詰められた石はこの土地のものではなく、南方で切り出された薔薇石と呼ばれる大理石と、西のキュッセン地方特産の灰銀の筋の入った白の石英岩だ。

 床は滑りにくく加工されているが、壁などは美しく磨き上げられている。浴槽を挟んで正面の壁はほぼ一面の硝子張り。

 その硝子の向こうにもう一つ、露天風呂があった。


 まずは屋内の浴槽に浸かり、熱い湯の中でぐっと身体を縮めた後、大きく息を吐いた。


「ふぁ~、気持ちいい! 来て良かったぁ~」


 広々した温泉に肩まで浸かり、うんと伸びをする。

 食事をして身体は充分暖まったと思っていたが、少し熱いお湯に浸かるとやはり冷えていたのだと判る。


 満足気な溜息を洩らし、アスタロトは細い足を伸ばしてフレイザーへ顔を向けた。


「良かったー、フレイザーがいてくれて。一緒に入れるもんね。一人じゃつまらないから皆で一緒に入ろうかと思ってたけど、フレイザーと二人でゆっくりもいいよね」


 フレイザーは一瞬だけ、アスタロトの言葉を受け入れ兼ねた。慎重に息を吐く。


「……アスタロト様――、私も、ご一緒できて本当に良かったですわ」


 眩暈がする。


 いや、軽い湯当たりだろうとフレイザーはこめかみをそっと押さえた。長く浸かっているとのぼせそうなくらい熱いから。


「普通のお風呂と違って感じるのは何でだろうね、何か不思議」


 アスタロトは乳白色のお湯を両手で掬い、指の間から零した。独特の薫りが立つ。


「温泉って好きだな。色々問題は多いけどさ、やっぱり残って欲しいよね、ここじゃなくても。難しい話は判らないけど、こんな気持ちいいなら絶対人が来るようになるもん」

「私もそう思います。大丈夫、スランザール公が受けてくだされば、確実に上手く進んで行きますわ」

「レオアリスは口出しても大丈夫かな」


 アスタロトは慎重に言った。


「相手がベールなら大丈夫だと思うけど……変な風に取られてもヤだよね。あの世界ってめんどくさいからなぁ」


 心配そうな様子が微笑ましくて、フレイザーは安心させるように笑ってみせた。


「面には立ちませんし、今回は大公からの依頼があったようなものですし、ロットバルトもああ言っていましたから大丈夫ですよ」

「うん」


 にっこり笑って、それからアスタロトは湯から立ち上がった。


「身体洗お」


 そう言ったものの、アスタロトは身体を洗う様子もなく、洗い場の桶の前に座ってじっとしている。


 フレイザーは自分も身体を洗おうと隣に座って、首を傾げた。


「アスタロト様?」

「うん、お願い」


 はい、とアスタロトがフレイザーに向かって手を伸べる。

 ほっそりと長い手足は女のフレイザーでも見惚れてしまう。


 フレイザーは見惚れたまま、何を「お願い」なのだろうと暫らくじっと考え――、あっと小さく声を上げた。


「どうしたの?」

「い、いえ……お身体、洗いますね」


 アスタロトはこう見えて、箱入りも箱入りの、公爵家のお姫様だ。

 入浴時には何人もの侍従達が、丁寧に彼女の髪や身体を洗っていて、それが彼女にとって当然の日常なのだろう。

 自分で洗うという考え方は持っていないかもしれない。


「――いつもの入浴はきっと賑やかなんでしょうね」


 おそるおそるそう聞くとアスタロトは朗らかに頷いた。


「うん、六人。楽しいよ、色々話とかして、つい長くなっちゃって叱られるけど」


(ああっ! だ、だから皆で入ろうとか言うのね!)


 くらり。


 心底、本当に、付いてきて良かったと思う。

 アスタロト一人だった場合、平気で男湯に飛び込みかねない。


(やっぱり洗ってって言うのかしら……ひー)


 下手をしたらアーシアでさえ、それを止めないのではないか――


 想像するのさえ恐ろしい。というか、想像は控えさせて頂いた。

 眩暈がする。


 それにしても、先ほどのアスタロトの照れた様子にはフレイザーも思わず身を乗り出した位だが、こうして見ていると本人はまだほとんど自覚が無いらしい。

 自覚したら多分、今のような発言はしなくなるはずだ。


(不謹慎だけど、ちょっと楽しみ……)


 時間の問題だとは思う――思うが。


 気になるのはレオアリスの方も同じで、剣士という種はそもそも恋愛感情が薄いのだと前にクライフが法術院のアルジマールから聞いたと言っていた事で、確かに先ほどのレオアリスの様子は余りに何気なさ過ぎた……


(……見逃せないわ~)


 フレイザーは先行きにわくわくしながら、洗浄剤を泡立て、丁寧にアスタロトの身体を洗ってやった。









「いやー、これっすよ、これ! やっぱいいっスわ~」


 首の辺りまでざぶりと湯に浸かって、クライフは気持ち良さげに伸びをした。


「ロットバルトが入れないのが残念っすね~、こんな気持ちいいのに! ていうかあいつ、怪我したのはわざとじゃないですか」

「……怪我してなくても入らない気もするけどな。部屋に設備あったし」


 いわゆる大衆浴場に誰かと一緒に浸かっている映像が、全くと言っていいほど浮かばない相手だ。と言っても多分、ヴェルナーの屋敷はここと同じくらい広い浴室があるに違いないが。


「ちぇ、もったいねぇなぁ、こういう場所に来たら根掘り葉掘り色々聞き出すのが楽しいのに」


 クライフは残念そうにそう言ったが、本心からというよりはこの場の雰囲気半分の発言だろう。


 浸かったり出たりしながら延々恋愛話を繰り広げられる女性陣と違って、男同士で酒も入らず風呂場でそこまで盛り上がりたいとは思っていない。色気も何もない。


「混浴だったらなぁ」


 とクライフはこっそり本音を洩らした。

 せめて隣の声とか聞こえないかなぁ、と。こういう時のお約束じゃないか。


「何か言ったか?」

「いやいや! あいつも怪我が早く治るといいっすね。いっそのことしばらくここに置いときますか、今日の明日じゃ飛竜乗るのは厳しいでしょ、十日くらいゆっくりしてもらって」

「さすがに十日は困るけど、せめて後一日か二日はじっとしててもらいたいな」

「いっそのこと一月ぐらいゆっくりして頂くと俺の気が楽なんですがね」


 クライフの言葉にレオアリスは苦笑を浮かべた。


「グランスレイがいるから変わらないぜ、多分」


 それからふと思い付いて黒森に視線を投げる。


「傷薬が欲しいな。明日はじいさんとこ顔出してくるか。うちならいい薬があるし」


 村には近衛師団で用意している薬よりもっと効くものがある。それにここまで来たのだ久しぶりに顔が見たい。


 今回は、思い出す事が多くて――


「ここから村は近いんですか?」


 アーシアが尋ねる。


「近いぜ、歩いたら多分今の時期三日はかかるけど、飛竜なら二刻くらいかな」

「ぜひそうしてください。副将も同じ事勧めますよ。どうせなら上将ももう一日こっち居て、王都には明後日帰ったらいいですよ」


 クライフは気楽さを装いつつ、少し気掛かりな瞳でそっとレオアリスを見た。


 雪獣と対峙した時、クライフは自分の親を想った。多分レオアリスも、彼の母親の事を思い出していた。

 母という言葉は、レオアリスにとってどのような色彩を帯びているのだろう、と思う。


 ただ口に出しては、別の事を言った。


「――ここの話、上手く行くといいですね。俺は政治とかそっちの話は今イチ良く判らないけど」

「そうだな。シュランの人達がどのやり方を選ぶにしても、俺達が関われる範囲は少ない。スランザールが関わったとしても、当然簡単な話じゃないだろう」

「難しいすね、色々。誰かが一言言や済む話だったらいいんですが」

「……そういう話の方が少ないよ」


 年齢とは少し相応しくない老成した物言いで、クライフはまたレオアリスを見た。


 レオアリスは十七という年齢からは想像つかないほどずっと、様々な事を経験してきた。

 理不尽な、納得の行かない事も。


 ただ、それらの事がレオアリスの中に諦めや厭世感を生んでいるかと言えば、そうではない。


「だから俺達の範囲でできる事をやるしかないよな」


 いつでも前に視線を向けているこの年若い上官を、クライフは敬愛している。


「そうですね、俺も――、力の限り応援します! この温泉はホント気に入ったんで。できれば王都の近くに欲しいですけどね~。いっその事王都まで湯を引いちゃうってのはどうですか」

「惹かれるけどさすがにそこまでの規模は無理だろ。それにそれじゃこの辺りの振興にはならないし」


 笑ったレオアリスにクライフはもう一度にやりと笑みを向け、それからまた肩まで湯に浸かった。


「すっかり雪が止みましたね。こうしてあったけぇ場所から眺める分にゃいい眺めですよ」


 湯の表面から立ち上る湯気と、その揺らぐ向こうに広がる黒森の、静寂の中の光景。

 夜空は雲一つなく澄んでいる。あんなに吹雪いていたのが嘘のようだ。


「明日は晴れそうですねぇ。いい景色が見れそうだな」


 と言ってクライフは岩に寄りかかり、空を見上げた。










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