ふたたび、26歳、会社員の場合
漫然と開いていたパソコンが拾った『つぶやき』を見るともなく眺めていた。
馬鹿々々しい女子大生の日常的な感想の羅列だ。
もうすぐタバコが寿命を迎えようとしていた。
フィルターぎりぎりまで喫煙すると最後の一口が非常に不味い。それは経験上明らかだった。
それにしても、と彼は考える。
インターネット上で発言や情報の発信を試みる人々は何かを共有しているつもりなのだろうか?
自分が孤独であると宣言しているようなものなのではないか? と。
なるほど、その利便性や情報の交換における有意義性を認めないわけには行くまい。なぜなら、こうして彼自身インターネットを利用しているのだから。
しかし、それが人間的な交流を代替してくれているとは到底思えない。そこには温度がない。発言を受け取る表情がない。瞬く間に変化する人間性がない。
この『つぶやき』をした人間は誰かと、いや何かと繋がっているつもりなのだろうか?
きっと本質的には何とも、誰とも繋がっていないことに彼らは気づかない。
気づかないまま通り過ぎていく。
通り過ぎて擦れ違って、どこまで行けば終わるのだろうか。
匿名性に守られて、あるいは日常を晒して、どこまで行けば彼らは繋がるのだろうか。
誰も読まない、見ない発言があろうとも、そうして膨大になったテキストはどこに吸い込まれていくのだろうか。
……そこまで考えた後、彼はタバコの最期の一口を吸って、携帯電話のボタンを押した。
コンマに奇蹟的にゼロが並ぶ。
それに少しだけ驚き、満足して、灰皿に煙草の残り火を置いた。
微かな鈍い接触音。その一瞬後、高い悲鳴が開け放した窓から侵入する。
燃え残った白い灰が灰皿へと落下し、彼の『つぶやき』への落胆が思考の底へと落ち込み、新たな『つぶやき』がパソコンの画面上に踊る。
「人が落ちた」と。
携帯電話は四分二十一秒の経過を示していた。