44歳、取締役の場合
慰めが欲しくなるほど蒸し暑い夜だった。
少しだけアンモニア臭い小便器の前で陰茎を軽く振ってから仕舞い込む。
フローリングの白いタイルにわずかばかり、男の排泄した尿が飛んでいたが、彼はそれを革靴で踏んで洗面台の前に向かった。
男の眼の前では大きな一枚張りの鏡がいやにキラキラした照明のガラス片を反射していた。
それを眺めるともなく視界に収めながら、携帯電話を肩で耳に押しつけていた。
電話越しに意味不明の音が聞こえ続けていた。
「何だ、今の?」
問いかけると男の妻は「ああ、隣の息子さんでしょ」と、こともなげに答える。
「そうか。とにかく接待中だからまたかけ直す」
そう言って男は電話を切った。
接待。その言葉を使えば妻は何も言わなかった。
それが真実「接待」であろうが無かろうが彼女の興味はそこには無い。
おそらく彼女にとって夫である男は金を運んで来る自律的な機械なのだ。もしくは、勝手に動く自分の身体機能の一部分なのだ。結婚という契約が破綻しない限り妻は男の行動に無関心であり続けるだろう。
しかし、と男は席に戻りつつ考える。
なんだ、今の叫び声は。
隣家の息子はいわゆる引きこもりだった。その過剰な自意識は時に恥じも外聞も関係ないと言わんばかりに噴出する。
社会が悪い。周囲の人間が悪い。両親が悪い。
そうやって、いつでも目を逸らしているのだ。
自分は悪くないと言いながら何もしない。
あの子供は何も考えてはいないのだろう。もしかしたら、自分の声が隣家に漏れ聞こえていることにすら思い至っていないかもしれない。
そう考えると無性に腹立たしい。
人生とは戦いであると男は考える。戦いとは生産的な実践であると。無生産を決め込んだまま何もしない人間など死んでいることと変わらない。
社会は不平等だが、戦い続ける限り人間は受け入れられると信じている。そしてそれはおそらく正しいのだ。
だのに、二十歳を超えた男がうじうじと親の脛に齧りついて何をやっているのだ。
そんな活気の無いやつらに老後を任せるのだと思うと、余計に腸が煮えた。
だが、寄った男を迎える女の声に、男は少しだけ気が紛れる。
別にそんなことを深く考える必要は無いのだと彼は考えて、席につくなり隣に座るキャバ嬢の太ももにゆっくりと手を伸ばす。酒に酔った振りをしながら。
不平等なんてありふれている。
馬鹿々々しい自己憐憫などにかかずらわっていないで、さっさと挑めばいいのだ。
それに憤ることだって馬鹿々々しい。
問題は目の前の問題をどうやって解消するかだ。