22歳、ニートの場合
風が欲しくなるほどに蒸し暑い夜だった。
それでも、彼の体は暑さとは違う汗によって濡れていた。
地上に点る街灯の微かな灯りを頼りに暗闇を透かして見下ろすように小さな人影を見た。その影はこちらに一瞥もくれずにその部屋のベランダに面した掃出し窓を閉める。
道路を挟んでこの団地の一角と向かい合って建設されたマンションの一室に現れたその人影が女性であろうことは遠目にも判別できた。彼女がこちらに気づかないことが彼には不思議なことに思えた。
なぜなら彼は、彼女のマンションとは道路を隔てただけの向かい側の団地のベランダの柵を乗り越えて立っていたからだ。
それが日常的とは言い難い事態であることは、彼の姿に気づいた者ならばすぐに理解を示したはずである。団地の八階に位置するベランダから何の支えも無く中空へと歩み出そうとしている彼の意図は火を見るより明らかだったはずだ。
その証拠に彼の母親は彼を思いとどめようと、屋内から大声で彼に呼びかけ続ける。事ここに至って、彼は改めて悟った。
やはり、自分は無価値だったのだ、と。
最初は小さなことからだった。
単純に言えば、学校の人間関係がうまくいかなかった、それだけだった。
だが、一度外界との交流を途絶すれば、次のきっかけなんて永遠に来なかった。
自分の部屋の扉は次第に重くなっていき、自分一人では開けられなかった。
積み重なった経験にもならない経験を否定することは耐えがたかった。経験が無いということが余計に扉を重くさせて、同級生が当たり前に生きているという事実が自分に烙印を押印し続けた。
誰もが自分のことを笑い続けている。社会不適合者。当たり前のこともできない、無知で無能な男。
どうしても、次の一歩なんて踏み出せる気がしなかった。
更生という言葉自体が好きじゃなかった。
悪いのはほんとうに自分だったのだろうか?
違うだろう?
自分に機会を与えてくれなかったクラスメイトだろ?
自分を蔑んで、弄んだあいつらじゃないのか?
わかっているさ。
チャンスなんてものはいくらでも与えていたと言うのだろう?
だけど、どうしても自分には出来なかった。当たり前に出来るはずのことが何一つ出来なかった。
そして、今になって悟る。
彼らは、自分に関心すら持っていなかったのだということを。
これは、ひとつのパフォーマンスだったはずだ。
自分にもどこかで言い聞かせていた。
いつもと同じだ。無関心なふりをしている父親と、関心のあるふりをしている母親を振り向かせて、脅して、自分のテリトリーを守るための。
これは一つの様式を逸脱したのだと彼は理解する。偽ることの無い人生の様式の一つ。つまり、ただ単にそれだけのことである。
自分の意図や母親としての義務を果たすことを目的とした背後の声や向かいのマンションの女性の無関心。
どうせ自分が見られていたことに向かいのマンションの彼女は気づかないのだろう。
不意に、背後の雑音に思考を邪魔されたように感じて、彼は振り返って大声を上げる。
彼の精一杯の叫び声。
でも、きっとこれも誰の耳にも届かないのだろう。