24歳、フリーターの場合
冷蔵庫に頭を突っ込みたくなる程度には蒸し暑い夜だった。
だけど、このぐらいの気温でエアコンを起動していたら夏場なんてとてもやり過ごせない。
だから、彼女は帰宅するとともに窓を開け放って網戸にした。
カーテンは確かに閉めていたのに部屋はちょっとした蒸し風呂のようで空気が入れ替わるまでは最悪の気分。
陽が落ちてしばらくして、ようやく彼女は落ち着いて読書をし始めた。
まだセミが起きる季節には早く、騒がしさはそれほどでもない。
彼女が読んでいる本は梶井基次郎の『檸檬』なんかが入った短編集だった。
作中、金銭の困窮をきっかけとして主人公が朦朧とした感覚へと落ち込んでいく。
梶井本人もまた金に頓着しない人間だったというから、おそらくは自伝的な話なのだろうと彼女は想像する。
そもそも、彼女が実家を出て一人暮らしを始めたのはやはり金銭のことからだった。
彼女自身は別段、働くつもりも働きたくもなかったのだが彼氏はそれを許さなかった。
一足先に社会人となった彼女のパートナーは、彼女に一般常識を蓄えるように要求した。
結果、彼女は実家を出てフリーターになった。
彼女の生活の終わりは、彼氏が満足した時に終了する。
しかし、最近はその彼氏からの返信も少しずつ時間が空くようになっていた。
不安はある。けれど、それでも梶井ですらなんとかして生きていたのだからと彼女は自分を慰めるように、日に焼けた文庫のページに指を這わせた。
その時。彼女の携帯電話が鳴き声を上げた。
彼氏からではないことはわかっていた。
アルバイト先の店長からだ。
一度だけ気まぐれに彼氏へのあてつけのために肉体関係を持ったら、それ以来連絡が来るようになった。
妻子もある癖にいい大人がこんな関係を楽しんでいる。
大して気持ちよくもないのに。
彼女はふと自分が不感症なのではないかと不安に思うことがあった。
彼氏との間でもオーガズムは感じたことが無い。
しかしそれ以上に感じたふりをしていることに気がつかない男たち、それでも彼女を満足させたと思ってそれを誇っている男たちを、彼女は軽蔑していた。
携帯電話はすぐに鳴き声を上げるのを止めた。
それは、まるで行為の最中に彼女が上げる喘ぎ声のように空々しかった。
そう思うとなんだかすべてが馬鹿々々しくなった。
微かな臭いを嗅いだ。嗅いだ覚えのある臭いの中でも、彼女が屈指で嫌いな臭い。タバコの臭いだ。
おそらくは蒸し暑い部屋を換気するために開け放っていた東側の窓からその異臭が流れ込んだのだ。
それは、彼女にとっては初めての経験ではなく、この部屋に住み始めてから既に数度同様の事態が、特に風の少ない蒸し暑い日に起こっていた。
過去数回の経験から彼女が導き出した結論は、彼女の住む部屋に隣接する上下左右のどれかに位置している部屋の住人が喫煙者であり、その人物が換気と称して煙を振り撒いているのではないかということだった。
彼女はその顔も知らない人物、もしくは全ての喫煙者の無神経さに腹を立てる。
彼らが勝手に臭くなるのも自身の健康を害するのも、彼女に阻害する権利は勿論無いが、彼らは決して自分の責任の取れる範囲でのみ喫煙行為におよぶわけではない。
実際、彼女の隣人も彼女がその人物の喫煙行為によって嫌悪を覚えていることに気づきもしないだろう。
そして、アルバイト先の店長も、彼女の彼氏も、事後には決まって煙草を咥えるのだ。
彼女の乳首を吸った唇で。
ひとつため息をついて彼女は立ち上がる。そして臭いの元であるタバコの煙を部屋の中に引き込んでいる開け放たれた窓を閉めようと、窓枠の取手に手を掛けた。
こんなことで彼女は余計な出費を負うことになる。
エアコンのスイッチを入れるのだ。電気代が嵩む。
そして、隣人はなお、彼女のやり場のない怒りを知ることはない。
もう、いっそ笑える。
彼女はゴロゴロと音を立てながら勢いよく掃出し窓を閉めた。