26歳会社員の場合
コンクリートに頬擦りしたくなるほど蒸し暑い夜だった。
実際、人目がなければそうしていたかもしれないと彼は考える。
帰路にある、駅から歩いて十分ほどのコンビニエンスストアのロゴがしょぼんと張り付けられたビニール袋を揺らし、もう片方の手にはビジネスバッグをぶら下げながら、彼は築十年という古すぎず別段新しくもないマンションへと向かう。
彼の目的地は、その九階建てマンションの五階に位置していた。
日没から既に二時間は経過しているというのに歩いている間にも毛穴は開き肌はじっとりとした汗を浮かべる。
Yシャツの襟に皮脂の黄ばみが滲んでいるだろう。
自分の盛んな新陳代謝を呪いながら彼はビニール袋を揺らしてネクタイを緩めた。
彼が居住するマンションの周囲は閑静と言えるはずの住宅街だったが、近くに旧陸軍の防疫研究施設があったなどという噂がまことしやかに語られている大学のキャンパスがあるために夜は駅周辺から帰宅途上が学生のたまり場と化す。
もし体力と精神力と世間様に許されるなら夜陰に乗じて騒ぐ学生たちの後頭部をひとりずつこの鈍器のごときビジネスバッグで殴り倒したことだろう。
彼にも当然、学生の時代があり飲み会とコールの嵐に体内体外問わず洗われたことはあったが、そんなものは遠い昔の話だった。
彼は回転しながら踊るようにバッグを振り回す自分の姿を思い浮かべて、その光景の馬鹿々々しさを鼻で笑った。
目指すマンションは大きな杓子定規な団地の一角と道路を隔てて向かい合っており、朝や昼は井戸も無いのにゴミ捨て場で井戸端会議に耽る主婦たちと集団登校を正義だと言わんばかり子どもたちの嬌声を聞かされる。街灯の少ない暗い夜道は前述の学生たちが肩で夜風を切って歩いている。
だからといって、彼自身はストレスに記憶の容量を割けることができるほど器用な人間ではなかったので、そんな些細なことはすぐに忘れてしまうことが常である。
まったく違いのわからない団地群の果てにようやく彼の目指す建物が見えて来た。間借りするマンションの外観は白く、周りに大きな建物が団地住宅ぐらいしかないために、遠くからでも割と目立った。
駅からは多少離れてはいるが、夜中街の明るさや騒々しさがかなり薄れるために彼はその立地を気に入っていた。ただ、同時に駅から少し距離のある大学のキャンパスとも遠くはないために、学生が多く入居していることもマンションの特徴ではあった。
彼は主にこの街の、時には耳障りな喧騒を耳にしなければならぬような、しかし多くの時間まるで変化を見せない微妙な静けさを愛し、同時に彼自身の私生活もそれとパラレルに大まかに静かなものだった。
学生時代に付き合っていた彼女と別れて以来、数年間彼の女性遍歴はまったく更新されることも無く、またそれをも彼は気ままに楽しんでいたし、経理事務という仕事にも慣れて会社の人間関係も悪くはない。
そんな彼が抱える問題がひとつあるとするならば、部屋に帰った後、彼にはやるべきことややりたいことがひとつも無いということに尽きた。無趣味と言っていい、いや、そうとしか言えない彼は帰宅するたびに暇を持て余した。
最近流行りだしたソーシャルゲームは一時期嵌っていたこともあったが、課金熱を消化してしまうとあまり周囲について行けなくなって虚しさを感じるようになった。
読書量も元々多いほうではなく、贔屓にしている作家も最近では新作を書かない。
音楽もこだわりが無く、彼の頭のなかに流れる音楽はここのところずっとサティのジムノペディの哀愁漂う調べだ。
なぜ、神々を讃えるはずの曲があれほど愁いに満ちているのか彼は知らない。
一階の郵便受けを形ばかり覗いてから廊下を進み、ちょうど彼を待ち受けていたエレベーターに乗り五階のボタンを押す。
静穏は望むところだったが、ただ目的も無く暇を持て余すことには疲れを覚えた。
それは漫然とひとりエレベーターという個室に閉じ込められ、扉が開く時を待っているようなものだ。
勝手に送られてくる引き落としの領収書や、無差別にもほどがある広告のチラシに目を通すよりは、ただ単純な情報を吐き出すエレベーターの階数点灯のほうが、よほど目には優しいように思えたが。
エレベーターが低速になり、微妙な浮遊感と共に五階であることを指示した。
彼は、勝手に姿を隠す扉を見送って小さな箱から吐き出された。
一つの階に十ほどの部屋がある。そのうちの一つの扉の前に立ち止まり、鍵を取り出して鍵穴に挿し込んだ。鍵を回して扉を開くといつもと変わらない十畳ほどのワンルーム型の一室が彼を出迎える。
冷蔵庫と液晶テレビと低反発マットレスを敷いたベッドと赤い合皮張りのカウチソファーと本棚と小さな明るい木目調のテーブル。テーブルの上には開いたままのノートパソコンと鉄製の灰皿がひとつ。それが彼の部屋を占める主要物の全てである。
バッグとビニール袋を床に置き、上着を脱いでハンガーに掛けてネクタイを引っ張ってはずして溜め息と共にソファーに腰を下ろした彼は、ビニール袋の中にある弁当を取り出してテーブルの上に置く。そして、パソコンの起動スイッチを押した。小さな排気音を立ててゆっくりと起ち上がろうとするそれを横目に、テレビのリモコンを操り電源を入れる。けたたましい娯楽番組内の笑い声、報道番組の今朝と変わらない内容、教養番組の静か過ぎるナレーション。軽くチャンネルを回した後で彼は自分が見るべき番組が無いことを確認して、再び電源ボタンを押した。
やはりやることが無い。そこで彼は思い出す。コンビニで買ってビニール袋とは別に、スーツの内ポケットに忍ばせていたもの。
タバコである。マルボロのライト、ボックスタイプ。ゴールドと書かれているが、近年その金色がパッケージからほとんど消えてしまって白が箱を覆っている。箱を覆うフィルムを剥がし、内側の銀色の包装紙を破いて、二十本の内の一本を取り出して唇に挟み込む。
ふと、彼はある暇つぶしを思いついた。一本およそ七・五センチメートル、フィルター部分を除けば、おおよそ四・五センチメートルのタバコ。この四・五センチメートルの距離を自分はどのくらいの時間で消費するのであろうか。
それは暇つぶしにしてもあまりに儚い距離と時間であることには違いない。しかし、彼にはそれがなぜだかそれなりに良い思いつきのように感じられた。考えてみれば、一日に必ず十本以上は喫煙するそれが、どれだけ時間を消費させるものなのか彼は正確には把握していなかった。
確か携帯電話に一度も使用したことが無いストップウォッチ機能が内蔵されていたはずだ。そう考えて、タバコを咥えたまま立ち上がりスーツのポケットをまさぐって、携帯電話を取り出すと機能の検索をし始めた。
微妙に合皮が剥げはじめたソファーに腰掛けて、ストップウォッチ画面を表示した携帯電話をテーブル上に開いて乗せる。あとは携帯電話のスイッチを押して、タバコに火をつけるだけだ。
いや、換気だ。彼は再び立ち上がると、東向きの窓へと向かう。道路側に面したベランダ側、その向こう側には黒々とした団地が聳えていた。引き違いの掃き出し窓の鍵を開け、ゴロゴロと微妙な音と感触と共に窓を開けた。
彼は窓を横目にソファーに座りなおし、目の前のテーブルに視線を落とした。右手には元カノのプレゼントだったガス交換式の黒いライター、左手は携帯電話の上である。口には先ほどから、咥えられたままのタバコ。フィルターが唾液で少し湿ってしまっている。まあ、構うほどのことではない。
頭の中で「うっちゃり」とかけ声を掛けて右手と左手、そして肺を同時に機能させた。携帯電話も無事に稼動し、タバコにも明々と火種が灯っていた。深く煙を吸い込み口から気道、肺を廻らせて薄く開いた唇と肺から煙を吐き出した。
吐き出された煙とタバコから直接出ていた煙が空中で溶け合って踊りながら、開け放たれた窓へと流れていく。蒸し暑い、風の無い外気の中を煙が立ち上って行った。