プロローグ
偏り過ぎて盆がひっくり返ってしまいそうな至極漠然とした設問を用意してみよう。
――日本の中心はどこだろうか?
使い古された問いかけに読者諸氏の溜息が聞こえてきそうだ。
この設問がどれほど自由自在に繰り返され繰り出され、答えられて来たことか。
日本の都道府県を東西に分けた場合の中心は滋賀県に、経緯度の中心は兵庫県西脇市になるという。ちなみに、兵庫県西脇市が中心となるために必要な日本の東端は択捉島であり、そこは北の国家によって実効支配されている。
加えて国土交通省によれば日本の本土とは北は北海道から南は沖縄本島を含むはずなのだが、離島航路整備法なるものによれば沖縄本島は本土から疎外されるという極めて珍妙な区分が存在する。
結果として多くの日本の中心地が本土の最南端を鹿児島県は佐多岬に置くことによって、中心として名乗りを上げる事態になっているのだが、もう、それについてはとやかく言うまい。
数多ある回答とその背中にとりつく面倒な背景を明歩谷というよりは往年の霧島なみにうっちゃって、行事の軍配も待たずに答えを提出してしまおう。
『東京』だ。
しかしながら、『東京』という回答は多くの人間が妥当と認めるものだろう。
さて、ではここで日本の中心として妥当とみなされる『東京』という言葉あるいは概念が内包するものは何だろうか?
政治、経済の中心として国内の総人口の約十パーセントの人口を有する都内すべてを指すのか。それとも、前述の機能の中心としての二十三区内のどれかのことを指すのか。もしくは、その行政および経済的な活動が背景としているもっと広域な関東圏内のことを内包している可能性もまた否定できないだろう。
関東圏内にも中心と周縁が存在することは言うまでもない。関東圏内を中心と周縁に荒っぽく分割した場合、もっとも大きく特異な行政区分が何か、と問われればそれは千葉県ということになるのではないかという見解を提示したとしよう。
そこには日本の輸送・流通機能の中心を代表するもの、あるいはかつて代表したものとしての成田国際空港がある。地理的にも行政区分上も千葉県に内包されるこの空港の存在を『東京』という概念がもつ機能の中に内包されているとかつて語ったことのある人間は少なくないだろう。特に、羽田空港がハブ化される以前の数年前までその認識は強く一般化されていたと言って大きく間違ってはいない。
他にも例はある。『東京』の名を冠する大型テーマパークは勿論、東京には無い。千葉県浦安市にあるこのテーマパークの名称について今さら異議を申し立てる者もいないだろう。そう名付けた者がなにをどのように考えていたのか、興味もない。
日本といえば『TOKYO』的な短絡な思考からであったとしても、それがまかり通っている以上言うことなどない。
しかし、千葉が関東内および国内においてほぼ中心的機能および概念を代表しているとしても当然ながらなお『東京』ではない。そこは、中心であると共にそれを補完し、また周縁を代表する。そういう意義において千葉は特異である。
そして千葉県内にも中心と周縁が存在することは言うまでもない。千葉県の中心が行政・経済の中心であるところの千葉市であるとするならば、他は周縁ということになる。そして、千葉市にも同様に中心と周縁がある。その中心が中央区であるとするならば、それ以外の区は周縁ということになる。そして東京に対置される千葉のように特異点がそれらにも存在することになる。
ここで初めて我々は始点を確認する。それが同時に特異点であり、特異点を代表する一人の個人でもある。具体的には、東京に内包されつつもどこまでも周縁である千葉、その千葉の中心に内包されつつもなお周縁から逃れえない稲毛区、そして稲毛区の中心から少し外れた場所に居を構える一人の人間が始点となる。
彼に到るまでのこの道程は所詮、補助的な意味しか持たない。なぜならば、特異点が特異点とされ、始点が始点とされるのは、その構造と全体と終点によるためであるに過ぎないからだ。
始点を特定するためのこの操作は、ある意味でまるで意義を持たないと同時に、また当該文脈においては重要な意義を持つかもしれない。そして特異点としての彼は、数あるそれらの中から偶然発見されたに過ぎない。
だが、我々は必然的なものとしてそれを見る。つまりはただ単にそれだけのことに過ぎないのだ。
同時に中心と周縁の差異はある一面においては解消されつつある。時に中心が周縁に、周縁が中心に移行し一見してまったく違う様相を現す。そして中心と周縁の差異は力学的な多寡へと還元されながらも、同時に詳細にクラス分けされながら差異を強調するという二重性が生まれる。それはクラスによって矛盾を回避しながら膨大で広大な世界を形成する。
しかしながらデータを蓄積することにより形成されるすべてを、うっちゃりによって土俵外に投擲する刹那、丸い俵の上に足を落ち着けてこの物語は展開する。
あるいは、俵の直上から眺められる景色というものもあることだろう。