008:強襲 ―― 千の狼 対 天使
動物って、頭の高さが腰の辺りを超えると急に怖くなると思うのだ。
触れ合い教室では馬にも牛にも近寄れず、日が暮れるまでガン泣きするのは普通だし、首輪がされていようとボルゾイ犬が視界に入ればルート変更は止むを得ない。
カッコいい?
可愛い?
あり得ないでしょ、せめて手乗りサイズにデフォルメしてくれ。
そして異世界。
例に漏れずと言わんばかりに巨大な獣が人を襲う。
「ごめんなさいっ! 後悔してますっ! 二度と来ませんからああああああっ!」
ガチで後悔していた。
俺が必死に逃げ回っているのは闇も深まる森の中、“変異体”が率いるというウェロウの群れ、その尖端だ。 「ヴァアッ!」だの「ガァアッ!」だのバリエーションのない咆哮にもいちいち背筋を震わせながら、ひたすら逃げ回っている。
怖い!
怖すぎるっ!
露店のおっちゃん曰く「一番いい武器」である所の長槍は、つい先ほど狼の牙で美味しそうに噛み砕かれた。 金返せ。
セットで購入した盾も、咆哮ひとつでひっくり返したジグソーパズルみたいに崩壊した。 不良品じゃん。
泣き叫びながらあっちこっち駆けずり回るその間にも、追い縋るウェロウはダース単位で増えていく。 圧倒的な数ではあるが……少しだけ冷静になって見てみると、動きがてんでばらばらで、互いにぶつかってコケたりしている奴もいた。 群れているくせに連携がない。 逃げるだけならどうにかなるか?
光明が見えた所で、気付いてしまった。
辺りの地形に見覚えがあったのだ。 記憶を辿って視線を流した先に見たのは、巧妙に隠されたワイヤートラップ――思っていた以上に町に近づいている!
「……最悪かよ」
誰にともなく不満を漏らし、やけくそ気味にUターンした。 腰の高さを超える狼どもの大群目がけ、丸腰のまま再特攻だ。
アホである。 自分がどれだけ無謀であるか、闇の中に浮かび上がる眼光の数を見りゃわかるだろうに。
どうして俺はこうなのだ?
脅されようが痛めつけられようが、こんな愚行は絶対拒否する。 ヘタレっぷりなら自信がある。
だが、そう……『優しさ』、お前はダメだ。
優しい人、助け合う人、他人の為に涙を流せるような人が命の危険に晒されるのは見過ごせない。
呆れ果てるほど遅くなったが、ようやくまともな解を得た。
どう考えたってこれまで自己を投影してきたゲーム、アニメ、マンガ、ラノベの主人公たちの影響だ。 主人公属性なんて皆無のクセに、バカなの? バカだわ……愚か者ここに極まれり。
それでも、自覚したことで腹は据わっ
「ガァアッ!」
「やっぱ無理ぃいいいいいいいっ!」
んな簡単に変われたらそもそも引き篭もっていない。 獣包囲網の真っただ中で飽きるほど悲鳴を上げながら、とにかく逃げ回ることしかできない。
どこを向いてもギラつく眼光と視線がぶつかる。
どっちに駆けても必ず包囲される。
一秒一秒が綱渡りのような回避行動の連続だ。 天使素体でなければとっくの昔に胃袋の中だろう。
何度となく驚かされているが、マジですごいぞ天使素体。
こんな暗闇の中にあって、赤外線センサーでも搭載されているかのように夜目が効く。
俊敏で、バランス感覚に長け、ずっと動き続けているのにまったく息が上がらない。
何とかなるかもしれなかった。
このまま囮になって、町から引き離せれば――――などという楽観思考からしてダメダメだったのだ。
我々の業界ではこういった脳味噌糖質過多な奴らを先頭に、罠にかかるか食われるか、闇に堕ちると決まっているのだ。 我ながら学習しない、不治の病か何かですか?
「ヴァオォーーー……ン」
特大の遠吠えがした。
姿は見えないがすぐ近くだ。
それをきっかけに、ウェロウたちの動きが変化する。
下手に吠えず、単独で動かず、追い縋るよりも逃げ道を塞ぐことを優先し始めた。 統制されたその動きは「隊列を乱すな!」などとどやされた新兵たちのよう。
悪い予感に背筋が冷えたが、その時点で勝ち目の見えない詰め将棋だ。
逃げ道を制限され、面白いように誘導され、気付けば退路を失って、大樹を背に呆然と立ち尽くす天使がいた。
詰んだ獲物を前にしながら、あくまで冷静に、じりじりと距離を詰めてくる狼たち。 下手な威嚇よりよほど恐ろしい。
戦るしかない。
これが主人公ならいよいよ覚悟を決める場面だ。
けれど主人公ではない俺は、完全に腰が引けて足を震わせるだけだった。
二歩にも満たない至近距離まで迫るウェロウ。
特に大きい三匹が、勝ち誇ったように牙を剥く。
そいつらは、三方向から同時に襲い掛かってきた。
右肩と、右足首は、何とか避けた。
だが、左腕は避けられなかった。
――左腕。
結局の所、左腕に噛み付いた奴が悪いのだ。
全部そいつの責任だ。
『なぜ、お前がここにいる?』
幻聴だった。
例えそうだと分かっていても、這い上がってくる闇の痛苦と恐怖の記憶はまざまざと蘇る。
素体の呼吸が停止した。
――パァンッ!
かなり派手な音を立て、背後の大樹に叩きつけたウェロウの頭部が破裂した。 顔面にまで飛び散ってきた脳漿も、頭部を失って崩れ落ちていく胴体もとりあえずはスルー。 今やるべきなのは、左腕の被ダメージ確認だ。
安っぽい生地の袖を破って白い素肌を検める。 天使の肌は無残にも……という想像虚しく、蚊に刺されたほどもない小さな腫れがある程度。 この結果を受けて、ウェロウは脅威にならないことを自身の中で確定させる。
妙だった。
精神は平静に、視界は広く、思考はクリアになっている。 グロテスクな殺害シーンを演出したと言うのに、吐き気もしなければ命を奪った行為に対する感傷も少ない。
いわゆる『覚醒』的なアレだろうか? だが無感情になった自覚はないし、暴走している感じもしない。
ただただ冷静だ。 まるで自身を俯瞰して見ているような安定感。
そしてどうやら素体の能力も向上している。 それまでよりも身体が軽いだけでなく、時の流れが歩みを緩め、世界が水没したように動きを遅延させていた。
なので二匹目が懲りずに足首を狙って牙を見せる様子も余裕を持って把握できた。
試しにその顎を軽く蹴り上げてやると、目線の高さまで浮上してくる。 せっかくなので前足を片手で掴み、つい一秒前に地を蹴った三匹目と衝突……と思ったのだが、千切れた前足で殴りつける形になってしまった。 見た目より脆いのか。
さすがに警戒したか、更に追撃を狙っていた新手がその足を停めた。 周囲のウェロウも低く唸って距離を取る。 どうやら俺の脅威度が上方修正されたらしい。
そこで再び響く、特大の遠吠え。
出場アナウンスでも受けたように群れの奥から現れたのは、毛並の一部が黒色の個体。 偉そうにゆったりとした足取りでご登場だ。 “変異種”と呼ばれる奴だろうか? ただの色の違いにしか見えないが、一応警戒を強める。
だがそいつは襲って来ず、かなり広く間合いを取って足を止めた。 そのまま前足を踏ん張るような前傾姿勢を取ると、壊れかけの洗濯機みたいに低く唸り、黒い毛並を逆立てて――何かする気だ――そう思った時には遅かった。
「「ヴォァアアアアアッ!!!」」
過去最大音量の咆哮は、前後から同時に轟いた。
天使の視覚は空気の震動すらも捉えたが、さすがに回避は間に合わなかった。 咆哮そのものが攻撃であるとは想定外。 逆サイドからも放たれていた咆哮に挟まれて、全身が大音響に包まれた。
暴力的な大音量に脳が揺れる。 衣服が切り裂け、ポニーテールが解かれる。 強烈な音響兵器の直撃を受けて――しかしこの天使はフラつきもしなかった。
半ばで千切れ、吹き飛ばされていく髪紐を反射的に掴み取り、ポニーテールを結い直す。 俺の大事なモチベーション。
残響音まで鎮静すると、行儀よく待機していた新たな三匹が襲いかかってきた。 実に無駄なリテイクだ。 カウンター気味に先頭一匹の喉笛を鷲掴み、今度こそ三匹まとめて空中衝突を成功。 加減が分かってきたらしい。
再び距離を取るウェロウたち。 黒っぽいのが凝りもせずに前傾姿勢を取る。 間抜けめ、それが予備動作であることはネタバレしている。 初見殺しに失敗したんだ、諦めればいいものを。
「――ヴォァアアアアアッ!!!」
咆哮発射のタイミングに合わせて横手へ身体を投げ出した。 先ほどと同様、背後からも放たれていた衝撃波同士が衝突し、干渉し合って重低音を響かせる。巻き込まれた樹木が無残な姿に拉げてへし折れた。 ……あんな中にいたのかよ、マジ天使で良かったわ。
感謝の気持ちそのままに、咆哮を放った個体との距離を一歩で詰めて踵を落とし頭蓋を割った。 大技を放った後はやはり隙が大きい。 脅威度の上方修正はおあずけだな。
止まっているのは得策でないことが解ったので、ここからは殺戮の時間である。
繰り返すが、冷静になっただけで冷酷になっているわけではない。 相手が動物であろうと命を絶つのは罪の意識を感じるし、退いてくれるなら追う気はない。
だが、向かって来るなら容赦はしない。 俺は博愛主義者ではなく、人の側に立つ天使なのだ。
音響兵器に照準されないよう動き回りながら、襲い来る狼どもをすべて一撃で無力化していく。
頭を割る。 胴を裂く。 心臓を抉る。 Z指定真っ青の血の海の中、足をもつれさせることもなくひたすら死体の増産に勤しむ。 致命傷を免れた奴にはすぐに追撃し、せめて苦しみが続かないよう仕留めてやった。 ちなみに偽善は自覚している。
「ヴァオォーーー……ン」
死体の数が三桁を超えてすぐ、例の遠吠えが響き渡った。
今度はどんな指令が下ったのか、海が割れるようにウェロウの包囲網が道を開き、その奥からこれまた偉そうに、上から目線で登場する風変りな巨体。
音響兵器搭載型はただのエリートモブだったらしい。
恐らく、これが“変異種”と呼ばれる奴だろう。
他の個体より二周りは大きく、狼の顔を見上げるという初体験をさせてくれた。
高級な毛皮のように真っ黒な毛並み。 闇の中で輝く真っ赤な瞳は、なかなかどうして理知的だ。
ただ、“二匹”も出てくるとは、またまた想定外だった。
「このサイズなら、毛並みは白が鉄板だと思うけど?」
的確なツッコミだったと思う。
だが、いちいち肺に空気を取り込まなければいけないのは面倒に感じた。