007:とある実験都市の日常 ―― 馬鹿は天使になっても治らない
俺と幼女をまとめて門の中へと引っ張り込んでくれたのは、衛兵然とした軽武装のおじさんだった。
「教会へ向かいなさい。 避難者用のキャンプが設営されている」
そう強く言い含め、門の外へと取って返した背中はなかなかにカッコ良かったものである。
未だに続く外の襲撃は気になるが、幼女の安全確保が第一だ。 俺はひとまず、金髪幼女の身体に目立った外傷がないことを確かめた。 膝小僧を少し擦りむいているようだが、涙目なのはそれが原因ではないのだろう。 彼女の目線まで屈み込み、なるべく優しく声をかける。 こう見えても子供好きなので、あやすのは慣れっこだ。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「……アイリー」
「アイリー、可愛い名前だね。 私はディーナ、よろしくね」
警戒の色こそ残すものの、アイリーはコクンと小さく頷いてくれた。 ファーストコミュニケーションとしては上々だ。 『お姉ちゃん』と呼ばれるのはさすがに違和感が強いが、馴れていかなければならない。
「ディーナお姉ちゃん、お母さんは? お母さんに会いたい」
「うん、一緒に探してあげる。 大丈夫、すぐに会えるよ」
辺りを見れば、怪我人を中心に町の奥へと向かう人の流れが出来ている。 恐らく行く先は教会だ。 土地勘のない町を無暗に探し回るより、避難場所へ向かうのが妥当だろう。
俺はアイリー嬢の手をしっかり握って歩き出した。
初めて目にする異世界の町並みは、石造りの家々が立ち並ぶエキゾチックな景観だった。
何を見ても珍しく、ついつい観察してしまう。
今歩いているのは港までを貫く大通り。 四車線を超える幅があり、びっしりと石畳が敷かれて歩きやすい。 民家は二階建てが中心で、窓ガラスや鉄格子は当たり前に設えていた。 想像していたよりも建築・加工技術のレベルは高いように見える。
特徴的に感じたのは石造りのアーチだ。 都内の信号機くらいの間隔で家々を繋ぐそれは、驚いたことに人の通り道なのである。 今しも長槍をかついだ青年が眠そうな顔して頭上を通過していった所だ。 日常風景なのだろう、見上げる人間なんていやしない。
落ちたら骨折程度では済まなそうだが……いや、そうでもないのか。 バトルマンガみたいに強い人たちを見たばかりだ。 ああいった通路があった方が現場に急行しやすいのかもしれない。 そう考えると理に適っているな。
続いて地上を歩く人に目を向ける。 エルフやドワーフみたいな別種族は見かけないが、身なりがバリエーションに富んでいた。 執事を従えているマダムみたいな人がいれば、俺みたいにみすぼらしい身なりの人もいる。 もちろん武装している人も少なくない。
露店も出ている。 お店も見つけた、武器屋だ! いかん、あっちもこっちも興味を引くものばかりで目移りが果てしなく――不意に袖を引っ張られた。
「ディーナお姉ちゃん、おなか痛いの?」
そんな顔を……していたのかもしれない。
事実、荒ぶる感情を押し殺すのに大変な苦労を強いられていた。 誰も見たことのない世界に立っているという実感が、心を沸騰させている。 アニメのエンディングよろしく、理由もなく駆け出したくて仕方がない。 と言うか、アイリーがいなかったらやっていた。
「大丈夫、痛くはないよ。 我ながら痛々しいだけだから」
「……よくわかんないけど、アイリーがなおしてあげるね」
ちょっと自信ありげに袖を引っ張るので屈んでやると、この子ときたら、その小さな手のひらで俺のお腹を優しくさすって来たではないか。 その上で、自信満々な笑顔でこんなことを言い放つ。
「こうするとね、痛いのが飛んでいっちゃうんだよ?」
天使がいた。
地上にも立派な天使が降臨していたのだ!
俺は猛烈な感動と共に猛省した。
物事には優先順位というものがある。 異世界見物なんてこの先嫌というほど出来るだろうに、いつまでも浮かれているんじゃあない。 今は、この子の安全と安心が最優先。 軽挙妄動控えるべし!
「ありがとう、目が覚めたよ」
「痛いのなおらない? 泣いたらだめだよ?」
「あはは、これは痛くて泣いてるんじゃないから」
「女が泣くのは、ねらった男の前だけなんだよ?」
「……ありがとう、目が覚めたよ」
「お取り込み中の所悪いが、ちょっといいかね」
かかった声は、悪い予感を孕む濁声だった。
立ち上がってみれば、目の前には通行止めするように立ち並ぶ数人の男たち。 軒並み犯罪係数の高そうなごろつき連中から一歩踏み出しふんぞり返っているのが、声をかけてきた中年男だ。 背が低いが身なりは良い、あまりお近づきになりたくない職業の人に見える。
俺は警戒レベルを引き上げてアイリーを後ろに庇った。
「ほぅ、ナリはみすぼらしいが、こいつは掘り出し物だな」
顎髭に指を這わせながら、好き勝手に品評を始める中年男。
ギラついた視線に身体を舐め回されるようで吐き気を催す。
「そう睨まんでくれ。 お嬢さんもマデイドからの流れだろう? このご時世、そんなコブ付きじゃ食わせていくのも大変だ。 稼がせてやろうって慈善事業さ」
聞いているだけで気分が悪くなる嘘である。
意味は分からずとも不穏な空気は感じているのだろう、アイリーがぐずり始めた。 まずい、俺の魂には『女の子を泣かせたら死刑』というローカルルールが存在するのだ。
「お断りします。 どいて下さい」
「話だけでも聞いてくれんかね?」
「必要ありません」
「どうも誤解があるようだな、うちは貴族にも繋がりがある老舗だ。 悪いようには」
――ズダンッ!
物騒な打撃音に引っ張られ、中年男が地に伏せた。
「やっ、別嬪さん。 また会ったね」
あのお姉さんだった。
よく降ってくる人だな。 趣味なの?
「ちょっと聞いてよー、あの犬どものしつっこいのなんのって。 こっちは起き抜けだってのにさー」
足元の惨状など気にすることなく、旧知の間柄かのように愚痴りながら近接しては肩に腕を回してくるお姉さん。
全身がぞわりとして「ひゃい」なんて変な声が溢れ出た。 女子にゼロ距離まで詰められたのは果たして何年ぶりであろうか。
慌てふためきながらも、やっぱりキレイな人だと内心で溜息を吐く。 健康的で明るい笑顔が素敵だ。 女子高にでも通わせたら下駄箱がラブレターで破裂しそう。
「また貴様か、“奏ノ獣刃”!」
がばっと勢いよく立ち上がり、中年男がツバを飛ばした。
鼻血程度で済んでいる。 割と頑丈な中年だな。
「いつもいつも邪魔しおって、新しい店舗もお前のせいでめちゃくちゃだ!」
「それこっちに台詞でしょ。 ここらでこっすい商売するなって、前にも警告したはずだけど?」
「警告だぁ? こっちは許可を得て店を構えておるんだぞ。 “二つ名”持ちだからといって調子に乗るな!」
中年男は青筋を立てて激昂し、周囲の取り巻きを顎でしゃくった。
ごろつき連中が凄んで刃物を取り出す。 うげ、勘弁して欲しい。 こっちは完全に巻き添えだ。
「へぇ、やるの? 内地からノコノコ出張ってきたザコッカスが、このアタシと?」
悪役染みた微笑で上から目線のお姉さん。 完全に小馬鹿にしている。
これにはさすがに頭に来たのか、一番近くにいた大男が「ナメんなよ、探索者」と凄みをきかせ、青筋立てて殴りかかってきた。
……が、大方の予想通り、吹っ飛んだのは大男の方。 裏拳一発で大通りの反対側までノーバウンドで飛んで行き、露店が一つ犠牲になった。 店主は天を仰ぎ、通行人が馴れた様子で距離を取る。 どうやらこれも日常の一幕らしい。
早くも戦意を喪失した様子の取り巻きたちだったが、お姉さんは容赦なかった。 続けざまに繰り出す蹴りや拳の一撃で、軽々と男たちを伸していく。 このスレンダーな体躯のどこからそんなパワーが湧き出してくるのか、本当に不思議でならない。
「……ぐぅううっ、この悪魔めっ!」
最後に残った中年男が、逃げ腰涙目で吐き捨てた台詞は憐れでしかなかった。
だが、その瞬間だ。
俺ははっきりと見た。
それまで終始笑顔を張り付けていたお姉さんが、完全に表情を消したのだ。
彼女の纏う雰囲気が一変する。
寒気がした。
「アンタさ、今なんつった?」
声のトーンだけが変わらないのが逆に恐怖を掻き立てる。
とんでもなく悪い予感がして、直後にそれは現実のものとなった。
彼女が一歩を踏み込む。
右手に構えられていたのはぬらりと光る肉厚のナイフ。
二歩目は、それまでとは比較にならない、目を瞠る鋭い踏み込み。
繰り出されるのはしなやかで無駄のない、芸術的なまでの、斬撃。
――結果から言うと、間に合った。
凶刃が中年男の首元へ吸い込まれようとしたその直前、俺はどうにか彼女の腕を掴まえることに成功していた。 一命を取り留めた男は、その場で腰を抜かして失神する。
「へぇ……やっぱ、いい踏込みだね。 面白いよ、アンタ」
どんな目で睨まれるかと思ったら、彼女はそれまでの冷たい気配が嘘だったかのように、元の明るい笑顔へと戻っていた。 恐怖に固まる俺の肩をぽんぽん叩き、「心配しなくてもこんなザコ殺ったりしないって」なんて冗談めかしてケラケラ笑う。
そう簡単には信じることは出来なかった。 俺は門の外で彼女の戦闘は目にしている。 今の踏み込みは、狼の首を刎ねるのとほぼ同じ速度だった。 まだ寒気が止まらない。
言葉を失うばかりだったが、そこで再びカーン、カーンというあの鐘音が響き渡った。
これを耳にしたお姉さんは「またぁ?」なんて迷惑そうに溜息を洩らす。
「ゴメン、ちょっと野暮用できたみたい。 コレ、預けとくわ」
彼女は胸元からチェーンのついたカード型の金属板を取り出して、俺の首へと素早く掛けた。 クレジットカードよりやや小さいそれは、軍人が持っている認識票に近い。
「それ提げときゃこの町でおかしな目に遭わないからさ。 後でテキトーに返してね」
彼女はヒラヒラと手を振るや、驚きの跳躍力で民家の壁を蹴り、窓に張り付き、アーチの道を辿って屋根の向こうへと姿を消した。
……取り残されたまま呆然としていた俺だが、衛兵らしき人たちが走ってくるのに気付き、アイリーを抱き上げダッシュでその場を後にしたのだった。
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「もう大丈夫よデーナちゃん。 手伝わせて悪かったねぇ」
「いえいえ、これくらいは何でも……あと、ディーナです」
「ああ、この辺りの地理に詳しい人だったかしら。 なら、斡旋所を頼ったら? デーナちゃん美人だから、すぐ教えてくれるわよ」
「ありがとうございます……ディーナです」
手強い係員のおばちゃんは、俺が抱えていた包帯の束をひょいと奪うと自分の業務へと戻って行った。 確かにそろそろ手伝いは必要ないくらいに院内の喧騒は収まっている。 すれ違うスタッフの顔にもやり切った感が窺えた。
病院にしか見えないこの場所が『教会』である。
シスターや神父の代わりに詰めているのは白い衣服の医療スタッフ。 礼拝堂のような天井の高い空間は見当たらず、病室ばかりが並んでいるが……それでもここが『教会』で間違いない。
この世界には神や天使といった信仰の対象が実在するので、教会としての在り方が変化した――というのが俺の予想だが、機会があれば調べてみたいものだ。
外に出ると、既に空は茜色に染まっていた。 自分から手伝いを申し出たので文句はないが、やや時間を食い過ぎたかもしれない。
「ディーナお姉ちゃん!」
元気な声を張り上げて、人波かき分けやってくるのは幼女様。
がしっ、と太腿にしがみついた金髪を軽く撫でてやると、くすぐったそうにはしゃいだ。
「アイリーさんや、ここは人が多いから走ると危ないよ?」
「お姉ちゃんだって走ってたもん」
この年齢特有の減らず口である。
向かいの避難者用テントの中を覗けば、お母様がこちらへ向かって頭を下げているのが見えた。 俺もペコリと頭を下げる。 あの人は足に怪我を負っているので動けない。
「お母さんがね、コレをお姉ちゃんにって!」
「ん? おぉ、ホントに用意してくれたのか」
受け取ったのは割としっかりした一枚の紙。 ここ東大陸の地図だ。
娘を送り届けたことで何かお礼を……とのことだったので、欲しかった情報を求めてみた結果である。 有り難いことに手書きで注釈まで書き加えられていた。 教育方針には苦言を呈したい所だったがやめておこう。
「ありがとう、すごく助かるよ」
「コレもあげる!」
その手に掲げられたるは、夕陽を浴びてキラキラ輝く黄色い飴玉。 背伸びしてまで手を伸ばすので、腰を落として口を近づけてやる。 と、お口に広がる柑橘系の甘味。 突発クエストのクリア報酬はミカンみたいな味だった。
「美味しいよ」と感想を述べると、アイリーは小ジャンプしてはしゃいだものだ。
未だ幼女を口説く境地に至らぬこの身だが、その信仰には強く賛同を示そう。
だって可愛いんだもの。 守れて良かった、この笑顔。
アイリーにはすっかり懐かれてしまったので、別れ際にはかなりポニーテールを引かれる思いだった。 もちろん俺だって名残惜しいが、このまま連れ添うわけにもいかない。 また会いに来ると約束を残して教会を後にした。
目的地への道すがら、頂いた地図を確認しておく。
『レアの大地:東の大陸地図』
大げさな表題だ。 せいぜい周辺区域くらいの縮尺である。
ここは港町『クルズ』。 まだ新しい町なのか、手書きで書き加えられている。 少し北方には同じく港町の『マデイド』があるが、地図には『現在、亜人種と交戦状態』と大きい注意書き。 難民が流れ込んでいる原因だな。
亜人種ね……。
ゴブリン、オーク、トロールなんかが連想されるが、果たしてどれに当たるだろうか。 いずれであろうと女騎士には転職すまい。
『クルズ』から森に沿って内陸へ進めば、当面の目的地である『アルクス』という村があるはずなのだが……この地図には見当たらなかった。 と言うか、『ローネット領』という表記すらどこにもない。 これは恐らく地図の縮尺が悪いのだろう、何せ町の名前が四つしか載っていないのだから。
もっと情報が必要だ。 斡旋所のことを聞いておいてよかった。
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違う。 これは斡旋所ではない。
そこはスケールの大きい場末の酒場みたいな、独特の空気感を持つ店だった。
客層は武装している人が大半で、昼にウェロウを屠っていた甲冑姿の御仁が、今は美味そうに肉料理を屠っている。 二階席もあってなかなか繁盛しているようだ。
そしてお食事処にしては窓口が多い。 例の襲撃の時見かけた若者が、銀貨を受け取っている姿を認めて確信する。
ここは『ギルド』だ。 今後はギルドと呼ばざるをえない。
条件反射的にテンション上がってしまうが、俺は精神力を総動員して冷静さを維持した。 浮かれていると痛い目を見るのは先刻体験したばかり。 きっとこれは、あらゆる世界で共通の法則なのだ。 学習していこう。
何も頼まないでいきなり窓口を訪ねるのもマナーが悪い気がしたので、とりあえずは席を取った。 メニューはテーブルの上に直接書かれている。 すぐに現れたメイドみたいなウェイトレスさんに日替わりの定食をオーダーする。 ちなみに膝上二十センチだ。 通いたい。
定食を待つ間、まず注目したのは窓口横の掲示板だ。 周辺地図が大きく張り出されており、画鋲と赤い糸でラインが形成されている。 恐らくは警戒ラインだろう。
……残念ながら、ここにも目的地となる村の名前はない。
地図の右側には大きい黒板が掲げられており、罠設置作業、偵察員、連絡員、ウェロウ討伐などなど危険度の高そうな依頼が掲載されている。 基本報酬と対応窓口の番号が併記されている辺り、結構事務的だ。
「お待ちどうさまでーす」
早くも本日の日替わり定食がご到着。 パンとスープがセットの魚料理だ。 ファミレスで出てきても違和感のないクオリティに少々驚く。
……この段階になって気付くのもかなり間抜けな話だが、天使になってからこの三日間、まともな食事をとっていなかったのに空腹を感じた覚えがない。
そもそもこの天使素体、いったい何をエネルギーにして動いているのだ? チュートリアル飛ばされたんだから、マニュアルくらい寄越して欲しい。 うっかり自爆装置とか起動させても責任取れないぞ。
「相席しつれー」
新たな懸念を抱えた所で、聞き覚えのある明るい声が隣の席に腰を下ろした。
もう彼女の名前は知っている。
そしてここがギルドである以上、彼女と出会ったこともさほど驚くことではない。
「ミーナさん、ナップ追加! 二つね!」
常連らしく、既に自前で持っていたジョッキを天へと掲げ、クイクイ振って追加オーダー。 綺麗な脇の下に視線が吸引されるのを我慢して、俺は認識票を首から外した。
名前:スズル
性別:女性
年齢:18
出身:トーノブル
術式:土1
使用武器:短剣・弩
特記:・星神歴百八四年より探索者
・師事:英雄サーラ
・二つ名:奏ノ獣刃
あれ以後、おかしな輩に絡まれなかったのはこの認識票のお陰だ。 ナンパ目的らしき男連中は、これを見るや顔を青くして退散していった。 世界の暦や、『術式』、『探索者』など常識的と思しき用語が読み取れたのも大きい。 あと、かなり大人っぽく思えた彼女だが、同い年とは意外であった。
「これお返しします。 助かりました、スズルさん」
「ああ、そういや貸してたっけ。 んじゃ、アンタの名前も教えてよ」
「ディーナと言います」
「三度も会ってようやく知り合えたね。 よろしく、ディーナ」
ひまわりみたいな明るい笑顔で肩を寄せてくるスズルさん。 パーソナルスペースという概念を忘れた距離感には心中穏やかではいられない。
彼女の親しみやすい雰囲気に好感を覚えるのは確かだが、先刻の冷酷な斬撃が忘れられず、この人のことは怖かった。 何やら気に入られてしまったようだが、距離を置きたいというのが本音だ。
テーブルにジョッキが二つ到着。 シュワシュワと泡を立ち上げるそれは明らかに酒類である。 ビールくらいなら興味本位で口にしてみたことはあるが、惨憺たる結果だったので天使素体で試したくはない。
「それじゃあ素敵な出会いに乾杯ね。 今日は気分がいいからおごっちゃう」
「えっ、いやいや、悪いですって」
「つれないこと言わない」
いい加減分かってきたが、強引な人だ。
しばらく前にコミュ障は脱した俺だが、それでもグイグイ来る人は苦手である。
「総員注目!」
強制乾杯の直前、緊張感のある声が響き渡った。
見れば厳しい表情をした男が、二階席から身を乗り出している。
「緊急事態だ。 探索者は全員上がって来てくれ」
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「ちょ、ちょっとスズルさん、さすがに場違いな空気を感じるんですが」
「まだ乾杯してないでしょ? 逃がさないからね」
逃走に失敗し、連行されて上がってきたのはギルドの三階。 軍隊のブリーフィングルームのようなフロアだった。
そんな印象を受けたのは、今日の襲撃で見かけた武装集団の何人かが既に着席していた為である。 皆、正面奥の大きい掲示板を注視していた。 そこには周辺地図の拡大版がでかでかと貼り出されいる。
「……まだ集まりは良くないが、緊急につき状況説明を始める」
俺とスズルさんが後方席に陣取るのと同時、固い声を発したのはやや頭皮が後退している壮年の男性。 身分が高い人なのか、タキシードに似たスーツ姿が堂に入っている。 彼は教壇のような机に身を乗り出し、緊迫感を持って状況説明を開始した。
「昼のウェロウ襲撃後、偵察員からの情報だ。 ――“変異種”が確認された」
その言葉ひとつで、空気がピリッと張り詰める。 よほど厄介な存在らしい。
彼は続けて「目撃があったのはここ」と、地図に赤丸を加筆。 町にかなり近い。 恐らく俺の地上スタート地点より手前だろう。
「追加で二度の偵察を出して確認させた。 群れの規模は少なく見積もってもその数三千。 ほぼ真っ直ぐこちらへ進行しており、早ければ……明朝にも森を抜けてくるだろう」
重い沈黙が場に満ちた。
三千って……三千匹? あの大狼が?
それはちょっと、シャレになっていないような……。
「すまなかった! 我々の見通しが甘かったと言わざるを得ない」
場の沈黙に耐えかねるように、タキシード男が勢いよく頭を下げた。
「諸君も知っての通り、予定されていた援軍はマデイドで足止めされたままだ。 今年は亜人どもの戦線が特に強固で身動きが取れん。 既に北と西の大陸に援軍は要請したが……間に合わなかった」
低頭する男の声は、涙に震えていた。
だが、誰も、これといってリアクションを取らなかった。 何人かが軽く溜息を吐いた程度だ。
そんな空気のせいか俺は状況がよく呑み込めない。 現実感が湧いてこない。
「うざい」
呆ける天使をよそに、隣人がつまらなそうな表情で声を上げる。
「アンタら貴族が仕事してるってことはみんな知ってるっての。 時間が惜しいんだから、さっさとプラン教えてよ。 あるんでしょ?」
「……そうだな、すまん」
彼は顔を上げると、一度鼻をすすって襟を正した。
「市民は第一区まで避難させる。 既に教会側で対応中だ。 幸い、明朝に大型貨物船が入港する予定がある。 これに可能な限り住民を収容し、マデイドへ合流する。 諸君らには、遅滞戦闘を依頼したい」
……明らかに引っ掛かる言葉があった。
はっきりさせるべきだと思うが、これにも誰もツッコミを入れない。
どうしても気になって口を挟もうとしたが、彼が捲し立てるように言葉を続けるのでタイミングを失ってしまう。
「いいか、ここクルズは実験都市だ。 名を上げようなどと、ましてや英雄になろうなどと思うな。 諸君ら探索者は失地回復計画の要だ。 己の命を第一に考えろ。 決して命を無駄にせず、生き残ってくれ。 ……私からは、以上だ」
締めくくりの一言をきっかけに、探索者たちが足早に階下へ降りて行った。
呆気にとられた。
どうしてそんな淡々と行動に移せるんだ?
俺なんて、未だに状況が呑み込めない。
言葉では理解できても、脳が情報の処理を拒否している。
気が付けば、檀上にいた薄ら頭の……貴族の人が、スズルさんの前にやって来ていた。
「奏ノ獣刃、そちらの方は?」
「アタシの連れ。 美人でしょ? 触ったら蹴るからね」
「命が惜しいので遠慮しておく。 妹の調子はどうだ?」
「イマリならまだ宿で寝てる。 アタシから伝えとくよ」
「よろしく頼む、術師が足りんのだ」
「あの」
つい、声を上げてしまった。
二人が俺に注目する。
心の一部が、よせ、やめろと声を上げるが止まらない。
「……さっき、『可能な限り住民を収容』って、言ってましたけど……」
言った傍から後悔した。
やっぱりやめておけばよかった。
だって言葉を向けられた彼は、唇を噛み締めて、渋面を作って、本当に苦しそうに口を開いたのだ。
「三割は、収容できると思う」
――スズルさんが何か言葉をかけてくれた気がするが、覚えていない。
夕闇に包まれていく港町を、いつの間にか港へと向かって歩いていた。
多くの人々が、ささやかな家財を背負って、同じ方向へと歩いている。
怪我人もいる。
親子連れもいる。
……アイリーによく似た、小さい女の子と目が合った。
まずは宿を探した。
時間を要さずに見つけることは出来たが、我ながら呆れたことに、カウンターに座っていた老人に対して、早く避難した方がいいと訴えてしまった。
あなたこそ早く避難しなさい、と。
若い人が先だよ、と。
優しい笑顔で諭された。
部屋の中に麻袋を放ってすぐに出た。
胸が苦しい。
息ができない。
耳元に心臓があるかと錯覚するほどに、鼓動がバクバクとうるさかった。
僅かに残った冷静な部分が、雰囲気に呑まれているぞ、馬鹿なことを考えるなと叫んでいる。
本当に馬鹿だと思う。
……武器が必要だ。