004:私を、助けてくれるんですか? ―― なぜ、お前がここにいる?
ドンッ。
面接を終え、廊下に出てから二秒かそこらの出来事である。
俺は、壁ドンされていた。
より正確に表現するならば「肘ドン」の構図だ。 イケメン天使の整った顔が、吐息の熱まで伝わる距離にアプローチしてきている。
これが女子ならポッと頬でも染めたかもしれないが、俺につけてはさぞや顔面蒼白なことだろう。
想像してみるといい。 逃げ道を塞がれ、上背のある男に間近で見下ろされるというシチュエーション……恐喝めいていてかなり怖い。 結構本気でビビっている。
「えっ、と……ソル、様?」
「ソルでいい。 さっきも言ったが、堅苦しいのは苦手なんだ」
「では、ソル。 代表と言う立場にかこつけて、新人を脅す天使というのは、はてさて如何なものでしょう」
「心外だな。 代表としての責任は自覚しているつもりだが、悪用した覚えはない」
「ただ今の距離感について一言」
「君の勘違いだ」
平然と言ってのけ、彼は視線を横へと流した。
釣られてそちらに目をやれば、やや湾曲した白い廊下の向こうから何やら接近してくる気配。
「天使様、失礼しまーす!」
リオと同じく子供っぽい声は妖精のそれだ。
「前方注意!」の掛け声とともに現れたのは、かなり大型のカーゴ群。 車輪もなしに浮遊するそれらの中身はアンティークな家具や彫刻、絵画など、パッと見で値が張りそうな物品の数々だった。
何人もの妖精たちが手分けしてカーゴからはみ出た部分を支えている。 先頭を飛んでいた妖精が黄色いフラッグを取り出して振ると、カーゴは徐行運転に移行。 十全な安全配慮に感心してしまう。
そのまま六両にも及ぶ長蛇のカーゴが通過していく様子を見送ると、最後には殿を務める金髪の妖精がペコリと頭を下げて消えて行った。
「……何ですか、アレ」
「地上からの奉納品だな。 フロアを圧迫して困っている」
「ははぁ」
さすがは天使、人々の信仰も篤いようだ。
俺がノーパンでないのも奉納品のお陰だし、感謝せねばなるまい。
そしてこの壁ドンの理由も分かった。
危険がないよう庇ってくれたのだ。 やり方に疑問は残るが。
「すまん。 驚かせたか?」
「それなりには」
「弁明させて欲しい」
「ひとまず距離を置きません? 物理的に」
「どうにも身体が勝手に動くんだ。 こればかりは天使になっても変わらない」
「話聞けや」
いい加減イライラしてきたので語調も強く言い放った。 至近距離に男の顔があるという状況は、思った以上にストレスがかかるらしい。
だがこのイケメン、あろうことかフッと甘い微笑みを浮かべ、こんな台詞を吐きやがったのだ。
「怒った顔も可愛いな」
「ときめかねえよ!?」
さすがに軽く突き飛ばした。
数歩後ずさったソルは両手を上げて降参のポーズを取るが、まるで悪びれた様子がない。 むしろ嬉しそうに頬を緩めているのがいけ好かない!
この野郎、面接では割と真面目な印象だったのに……猫被ってやがったな?
「驚いた。 美を讃えて突き飛ばされたのは初めてだ」
「ほーう? 他にどんなリアクションがあったか聞いてみたいもんですねぇ。 ケッコンでも申し込まれましたか?」
「ははっ、さすがにそれはないな……二回くらいしか」
出会って間もない上司だが、正直この場で葬り去りたい。
「と言うか、リオから聞いてないんですか!」
「ん? 何の話だ?」
「俺が『男』だって話です!」
ここはあっさり言ってやった。
少なくとも現状で、女として生きていく予定はない。 であればさっさとカミングアウトしておくに限るだろう、こんなトラブル二度とゴメンだ。
そして、俺のカミングアウトを言い放たれたソルはと言うと、「ふぅ、やれやれ」みたいに肩を竦めるリアクション。 イケメンがやるとあまり嫌味に見えないのがまた神経を逆撫でする。
「あからさまに信じてませんね」
「当たり前だろう、あんなキュートなヒップラインの男なんてそうそういないぞ」
「さらっと蒸し返すんじゃねえよっ! アレはお互い『無かったこと』にする流れだっただろうがっ!!」
被せ気味に声を張り上げ、思わず両手でスカートを押さえる。 思い出しただけで顔面が沸騰しそうだ。
……ついでに言うと、乙女みたいなリアクションしてる自分が恥ずかしすぎて死にそうだ!
「それについては謝罪する」
「ホントですよまったく……早急に忘却してくれないと訴えますからね!」
「いや、目に焼き付いて離れない件についての謝罪……と言うのはもちろん冗談だ」
恥ずかしすぎて涙が出てきたせいか、被告人から折れてくれた。
謀らずも女の武器を使ってしまったようで、複雑な罪悪感が胸を締め付ける。
第三者の声が介入したのはそんな時である。
『ソル様、エントランスで地上貴族が待っています。 新人を口説いてる暇があったら対応を急いで下さい。 もうあまり時間がありません』
天の声……というか、館内放送らしき女性の声が流れてきたのだ。
温和で良く通る声だった。 反射的に白線の内側へ下がりたくなる。
名指しされたソルを見れば、分かり易く口元を歪めていた。 不満そうに喉を鳴らして、聖職者衣装の襟首を鬱陶しそうにクイッと引っ張る。
貴族の対応とか言っていたし、堅苦しいのが苦手な彼には嫌な仕事なのだろう。
「すまない、ディーナ。 最後までエスコートしたかったんだが、用件が入った」
「エスコート言うな。 男だっての」
「それともう一つ」
「話聞く気ないだろお前」
「少しでも話せて良かった。 君とは上手くやっていけそうだ」
不意打ちのように恥ずかしい台詞をぶつけられ、俺の表情筋が硬直した。
唐突な空気の変化に顔と脳がついていけない。
「俺たちはもう仲間だ。 何でも相談してくれ。 どんな話でも受け止める」
さりげなく両肩に手を置かれるが、そんなキラキラした目で背中がかゆくなる台詞を連発されると抗議の炎も鎮火してしまう。
こんな時どんな表情をすればいいのか本気で分からないので、とりあえず笑っておいた。 多少引き攣っているのはご愛嬌としてください。
「えー、あー……よ、よろしくお願いします」
「こちらこそ。 じゃあ後のナビゲートは頼んだぞ、リオ……リオ?」
彼は俺のポニテに目を向けて、おや?と小首を傾げた。
最初から気付いてはいたが、この赤妖精は面接終了その直後からポニテを抱き枕に就寝しているのだった。 微かだが、今もスヤスヤと気持ち良さげな寝息が聞こえる。 俺の面接合格で緊張の糸が切れたのかもしれない。
それにしてもこの騒ぎで目を覚まさないとは、なかなか肝が据わっている。
ソルは「仕方のない奴だな」と溜め息を吐いて手を伸ばしてきたが、俺はその手を反射的にブロックした。
「っと……すいません、もう少しだけ寝かせてやって下さい。 ……その、疲れてると思うので」
ソルは二度ほど目を瞬かせ、優しく微笑んで頷いた。
くっそ恥ずかしい。
「場所は真っ直ぐ行って左だ。 他の天使もいるだろうから、迷うこともないだろう」
「わかりました」
「じゃあ、また後でな」
彼は笑顔で手を振って、白い廊下を駆けて行った。
……少しでも彼と話せて良かったのはこちらの方だ。 すっかり肩の力が抜けた。
口に出すのはこっ恥ずかしいが、俺も上手くやっていけそうな気がする。
今日からは俺も、彼がトップに立つ組織の一員というわけか……。
胸に込み上げるものを感じて、もう見えない彼の背中に向かって深く頭を下げた。
頭の中でもう一度「よろしくお願いします」と言葉を重ねる。
「ぶべっ」
「あ」
顔面から行ったな。 痛そう。
---
「つまり、天使素体に資格者の魂を転換するプロセス――最近だと"儀式"とか呼びますが、このエネルギー出力補助に参加して欲しいんです」
若干鼻声なリオと並んで廊下を歩みつつ、俺はようやく自分の魂が助かった理由についての説明を受けていた。
「やっと話が見えてきたな。 俺の役目は面接でも言ってたファーム様の"儀式"に必要とされる電池の一人ってわけだ」
「です! 私もようやく話せてホッとしてますよー」
リオも肩の荷が下りた様子だ。 鼻は赤いが口調は軽い。
「でもさ、俺の魂が転換されたのって昨日だよな? その時も出力補助必要だったの? 起きた時そんな様子はなかった気がするんだけど」
「他の天使様だって通常の転換処理であれば補助なんて必要ありませんが、今のファーム様は素体の状況が特殊なんです」
リオが俺の前へと回り込み、身振りを交えて経緯を説明してくれる。
曰く、今より二百年ほど前にエク・リプスの大攻勢があった。
この攻勢はそれまでとは比較にならない規模のもので、二十名もの天使が素体を全損させた、かなり厳しい戦いだったらしい。
この戦いの中で、代表補佐である天使ファームも素体に深刻なダメージを受けてしまう。
素体の回収、修復までは成功したものの、彼女の意識が戻ることはついになかった……。
恐らくは精神、ないし魂の部分が失われてしまったのだろうと言うのが凡その見解だ。
そのファーム様の素体に適合する魂が、異世界から検出されたのがつい二日前の出来事。
現在の戦況は天使側の劣勢にあるが、彼女の素体が戦線に復帰すれば形勢逆転が見込める。
だが、魂の『再』転換という過去に例のない処理であることが理由なのか、必要とされるエネルギーは通常の転換処理の約三倍にもなり、現行の天使総動員で出力を補助しても成功率は五分五分であると言うことだ。
……そんな事情で、僅かでも成功率を上げたいからこそ予備の素体まで引っ張されたわけである。
ソルはああ言ってくれていたが、遠慮なしに表現すれば『必要なのは器だけ。 中身は完全に用無し』だ。 考えると気分が沈んで来るのでさっさと思考を停止した。
「そうだ、ついでに聞くけど『時間がない』ってのはどういうこと?」
「人が死を迎えた時、魂に付随情報が保持される期間がおおよそ三日間。 これを過ぎると記憶情報から剥離して行くんです」
「衝撃的な事実だな」
「普通の人は知りませんよねー。 ささ、着きましたよー」
案内されてやってきたのは、俺が目を覚ましたのと同じ大部屋だった。
部屋と言うか、年末特番でも余裕で回せるスタジオ並みはあろう広大な空間だ。 ここも例に漏れず真っ白な部屋なので、バイオ的な隔離施設にしか見えない。 百個近くもベッド型のカプセルが並んでいるのだから尚更だ。
「出力補助って言うけどさ、実際にはどうするの? マニュアルとかある?」
「ほとんどシステム任せなので、横になっているだけですね。 強いて言うなら落ち着いて、精神を集中するくらいでしょうか」
「なるほどね……参考にするわ」
そんなやりとりをしながら居並ぶカプセルを横切って、着いた先は一番奥。
今更気付いたが、俺のカプセルのすぐ左隣だけカバーが閉じられている。
確か起きた時も閉じていたはずなので、恐らくここに寝ているのが件の天使、ファーム様なのだろう。
「顔見ちゃダメ?」
「美人過ぎて寿命縮みますよ?」
「マジそのネタ止めて、ホントに泣くから」
カプセルに身体を載せつつ訴えたが、意外にもリオは取り合わない。
物申してやろうと思ったものの、真面目な顔でコンソールを操作していたのでそんな気勢は削がれてしまった。
周囲を見渡せば既に何人か、サイバースーツ姿が入室してくるのが目に留まる。
他の天使だ。 やはり美男美女ばかり。 彼らは俺の方を一瞥することもなく、それぞれに素早くカプセルへと滑り込んではカバーを閉じていく。
にわかに緊張感が漂ってきて、知らずゴクリと喉が鳴った。
「左手を上げて下さい。 接続します」
リオもすっかり真面目モードだ。
指示通りに左手を差し出すと、透明な籠手っぽいデバイスを装着された。
ヒヤリと冷たいと印象だったが、人肌程度に温かい。 籠手デバイスはカプセル内側にケーブルで接続されている。
「では、接続の有効化を意識してください」
「えっ? スイッチとかじゃなくて?」
「それだけ動かせてるんですから、出来ますよ。 少し熱を持つかもしれませんが、無害ですから安心して下さいね」
「……了解」
――ファーム様の天使素体、その再転換処理の為に、できる限りエネルギー出力を補助したい。
そう意識すると、確かに装着されたデバイスが熱を帯びた……だけではなく、体温が上昇していくのを自覚した。 ちょっと熱めの風呂に浸かっているような感覚だ。 背中の肩甲骨辺りは更に熱い。
「うわっ、何かすごいな」
「ちゃんと接続確立してますね。 では横になって下さい」
起きた時と同じくカプセルに身体を横たえると、白いカバーが視界を覆いカプセルが密閉される。
自動的にライトが点灯し、カバー内側がディスプレイとなってカウントダウンが始まった。
読めない文字だが、ちょうど三桁を切った所なので恐らくカウントしているのだろう。
……やばい。 今更緊張してきた。
そうだよ、劣勢な状況における戦力の補填。 これは重要案件だ、部外者面している場合じゃない。
ええと、精神集中するんだったか?
集中、集中………………難しい。 精神集中なんて意識的にやった経験皆無だ、どうしても雑念が入る。
俺の素体は予備らしいが、本当に出力に加算されているんだろうか……?
素体の不具合が悪影響を及ぼしたりしないだろうか……?
ネガティブ!
雑念がネガティブ!
まずいって、もうカウントが一桁に入った。
そうだ! どうせ考てしまうなら、せめてポジティブな方がいい。
この"儀式"は成功して、新生ファーム様は目を覚ますのだ。
きっと超絶美人だ。
俺にも感謝感激で、百合展開まっしぐら。
エロはダメだろ!!
……いや待て、百合までならそう悪くない。
覚醒祝いに綺麗な花でもプレゼントすれば喜ばれるかもしれない。
……花?
はて、最近どこかで花を見たような。
というか、持っていたような気が
『私を、助けてくれるんですか?』
「はいっ!?」
いきなり間近で声がして、リアルに間抜けな声が漏れてしまった。
聞こえたのは女の子の声だったようだが、システム的な何かだろうか?
そんな感想を抱いた矢先、同じ女の子の声が……今度は、尋常ではない怨嗟に満ちた声音で問う。
『なぜ、お前がここにいる?』
憎悪をそのまま音にするなら、これこそが該当するのではないか――そんな声だった。
あまりのおぞましさに身体の芯までが麻痺したような錯覚。 悲鳴になりそこねた、空気の抜ける音が喉の奥から漏れ出した。
本気で、ヤバい。
そう直感し、実力行使でカプセルを出ようと決めた直後。
左腕に激痛が走った。
何かに噛み付かれるような、同時に引きちぎられるような、異様な痛感。
次には視界が明滅し、歪曲しながら色を失った。
「――――――――」
口が、喉が動かず、上がりかけた悲鳴が凍結される。
何だ? 何が起こってる?
左腕を確認しようと動かす首が、重い。
身体が脳の命令を実行するまでの、致命的な遅延が発生しているような……違う。 時間の感覚がおかしい。 意識だけを取り残して、世界がスローモーションを始めてしまった。
俺の驚愕と焦りを余所に、痛みが増幅する。
痛み? そんな生易しいものじゃない。 神経そのものがズタズタに破壊されるような、激烈な痛感。 死すら予感させる灼熱だ。
――何なんだ!? やめてくれっ! 何でもするから許してくれっ!
――リオ、ソル、近くにいるんじゃないのかよっ! 早く、早く助けてくれっ!!
痛苦の叫びも、救いの願いも、ただの悲鳴も許されない、地獄のような時間の遅延。
激感が増幅していくほどに、時間の流れが完全な停止へと近づいていく。
痛みが増す。
増幅し続ける。
意識はこんなにもはっきりしているのに、
動けない。
叫べない。
死にたくなるような絶望の中で、視界がようやく左腕を捉えた。
黒い。
いや、暗い?
なんだ、これ。
左腕を、得体の知れない闇色が、既に肘まで呑み込んでいた。
ほとんど停止した時間の中、その闇は、虫が這い上がってくるような速度を維持して――
やめろ。 来るな。
思考の間にも、肩口まで、闇が
――否。 光が闇の浸食を阻止した。
目で捉えることは出来なかった。
突然光の壁が出現して、あの闇を、左腕ごと持っていった。
「――ぁあああああああああああああああああっ!!」
時間感覚が復帰し、ようやく叫び声を最後まで吐き出すことに成功する。
俺はカプセルから転げ落ち、白い床へ強かに背中を打ち付けた。
闇に侵される痛みが苛烈すぎたのか、左肩から先は痛みよりも痺れが強い。 その左肩に飛びついて来たのは……リオか?
視界がぼやけて、判然としない。
白い床が真っ赤に染まっていくのが辛うじて見えるが……この量、ちょっとヤバくない?
「撃つなっ、仲間だっ! 誰か警報を止めろっ!」
ソルの声がした。
必死な様子だが、何のことだ?
……妙だった。
視界が狭まっていく。
四肢に力が入らない。
いや、左腕は、無いんだけどさ……。
「ユーリー、ディーナを診てやれ。 アガトは切断された腕を隔離、分析。 他の者は持ち場へ戻れっ!」
ソルの檄が飛ぶ中、ぼやけた視界の中央に赤毛の妖精が映り込む。
リオが、しゃくりあげるように泣いている。
心配をかけてしまったようだ。
謝ろうとするのだが、声が出ない。
そんな泣き虫妖精の頭を優しく撫でてくれたのが、ユーリーという名の天使だろうか。
「負荷がかかりすぎたみたいね。 少し休みなさい」
頬を撫でる手が冷たくて心地良い。
優しそうな人でよかった……。
俺は安心して、今度は怖くない闇の中に意識をあずけた。