020:憎悪のウィルス ―― 好事魔多し。
『その間抜けた様子なら、影響はなさそうね。 さ、掛けなさい』
言って彼女はベッドに腰掛け直し、すらりと長い脚を組んだ。
花柄のパジャマ姿をして驚くほどの艶やかさ。 軽く引くほどの美貌直下には、これまた圧巻の胸部が存在感を主張している。 今にも前ボタンの悲鳴が聞こえてきそうだ。
そんな彼女が、手にしていた包丁をつまらなそうに放り投げた。
乾いた金属音を耳にして、俺はようやく闇の影が音もなく消失していたことに気づく。
『あっ、助けて頂いてありがとうございました!』
その場で居住まいを正し、まずは深く頭を下げた。 出逢っていきなり命の恩人である。
『真面目ねぇ……ていうか、こんな手合いよくいるでしょ?』
『地球じゃ見かけませんでした』
『嘘つきなさい。 実体を持たない敵なんて、ゲームやアニメで腐るほど出てくるでしょうに。 パッと見の雰囲気で核くらい分かるはずよ』
『うっ』
異世界の人に、サブカル知識で注意された……。
俺が軽くヘコんでいると、彼女は得意げに顎を上げ『雰囲気よ。 "ふいんき"じゃないから間違えちゃダメなのよ?』などと大きな胸を張る。 「いつか言ってやろう」と温めていた気配がちょっとムカつく。
『炯眼になれとまでは言わないけれど、この手のザコはちょくちょく出くわすんだから。 しっかり空気を読みなさい。 それともあなたって、KY?』
『KYて! きょうびKYて! ネットかじってなきゃ通じませんよ?』
『えぇっ!? ちょっ……コレもう死語なの!?』
ドヤな美貌が一変、彼女は肩を落として『気に入ってたのに……』としょぼくれた。
が、次にはキッと強い視線が俺を射抜く。
『てゆーかあなたの世界、言葉が死に過ぎなのよ! "言霊"なんて民間伝承がそこそこ定着しているくせに、やってることは大量虐殺じゃない!』
『その発想はなかったわー』
『……ちなみに"激おこ"は?』
『過労死ですかね』
『チョベリバ』
『古代語かな?』
無意味な問答が続くかと思いきや、俺を見下ろすエメラルド色の相貌が気が抜けたように閉じられた。
あわや寝落ちかと思ったが、がばっと顔を上げてぶんぶんとショートボブを振り乱す。
『っ、と。 あっぶない……こっちは消耗してるんだから、変な話しないでよね』
『悪いの俺かなぁ……』 黙るけどさぁ。
『ほら、掛けなさい。 なう!』
隣のスペースをぽふんっと叩き、相席を急かす爆乳パジャマ。
俺は『はぃいっ!』と飛び上がってそそくさと隣合わせに腰かけた。 色々な意味で圧のある人だ。
『さて、一応はじめましてになるかしら? わたしはファーム。 柄にもなく天使の、しかも副代表なんてやっている転生者よ』
『お、お噂はかねがね。 自分はディーナです。 ド新人にしてド底辺ですが、これでも天使やってま』
言い切る前にぐいんっと顎先を掴まれた。
近ぁいっ! 赤面を自覚する暇もなく胸と胸がふにんっと衝突し「ぴゃっ」とか恥ずかしい悲鳴が上がる。
『ふぅん……ホントに中身は男の子なのね』
『そこまで自己紹介しましたっけ!?』 俺は振り払うように距離を取って答えた。
『それなりの情報は拾わせてもらったのよ。 あなたの素体を通じてね』
『プライバシー!』
『なによ、プライベートを配信して生計立てる世の中でしょう?』
『それは一部の人だけです! ……ずいぶんジャパンに染まってますね、ファーム様』
『たまたま日本での生まれ変わりが重なっただけよ』
『……生まれ変わり?』
『そ。 この二百年間ずっと、ね』
またひとつあくびを漏らしながら、遠くを見るような視線で言う。
二百年前――エク・リプスの大攻勢で、彼女の素体が死亡判定された時期だ。
『まだ、少しは時間がありそうだし、説明しておきましょうか。 この"呪い"について……あなたには、"ウィルス感染"って表現した方が分かりやすいのかも』
たわわな胸元に手をやって、ファーム様は視線を上げた。
話は、二百年前へと遡る。
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――確かに独断先行が過ぎたとは思ってる。
でもね? 防衛線は崩壊寸前だったし、誰かが囮役を買って出なきゃどうにもならなかったのよ。
ありったけの重力子砲をばら撒きながら、敵側の拠点に接近したの。 バリアは破れなくても、少しは肝を冷やしてやれると思ったんだけど……これが罠だった。
月面の地中から自殺個体が大量の湧き出して、左半身を綺麗に持っていかれたわ。
離脱できたのだって、今にして思えばプランの内だったんでしょう。 素体の違和感に気づいたのはそのすぐあと。 自殺個体に紛れて、特殊な個体に取り付かれていたんだと思う。
ウィルスよ。
明確な意思を持って、天使素体の主導権を奪おうとしてきた。
でも、このウィルスの災難は相手がわたしだったってこと。
あんなの、ちょっと奇抜な精神攻撃みたいなものよ。 力の限り、それこそ魂の底力で抵抗してやった。
結果として天使素体の支配権が二分されて……これがマズかったんでしょうねー。 素体の機能が暴走したのよ。
私とウィルスはセットになって別の世界へランデヴー。
拠点システムの補助がなかったから、"転換"ではなく"転移"になった。
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『――じゃあ二百年間、ずっと地球人してたってことですか?』
『当たらずも遠からずって所ね。 あの世界のシステムは私たちの世界ほど融通がきかないみたいで、ずっと"憑依"みたいな状態だったの。 それに、しょっちゅう殺されていたわ』
急に穏やかでない単語が出てきて、俺は身を固くする。
ファーム様は眠たげな目をこすりながら言葉を続けた。
『予想だけれど、このウィルスは天使素体の乗っ取り失敗も織り込み済みだったのよ。 実験兵器だったのかも。 だから、失敗した場合を想定して布石が打たれていた。 かなり悪趣味な布石よ? なにせ周囲に憎悪の感情を振り撒くんだから』
『憎悪、ですか……』
俺は未だ脳裏にこびり付いている、憎しみにまみれた声を思い出す。
『この能力が、人間には効果絶大。 地球では憑依のたび、近くの人間に殺され続けたわ。 刺殺、撲殺、銃殺……数えるのもおっくうなほど死んでは憑依を繰り返して、主人格の魂にしっかり同期できたのは"この子"が初めてだった』
彼女は、どこかげっそりとした様子で言葉を途切れさせた。
これまでの二百年を振り返っていたのかもしれない。
殺され続ける二百年……俺には想像すら及ばない。
…………ん?
『あの、ファーム様?』
『なに? そろそろガチで眠いんだけど』
『そのウィルス、健在ですよね?』
『元気してるわね。 F2、通称"呪い"ウィルスは今も絶賛憑依中よ。 天使の魂は環境が良いみたいで、加速度的に知恵をつけてる。 次起こしたら手が付けられないかもしれないわ』
『そうじゃなくて――いや、それも重要案件ですが。 そのウィルス、天使には効かないって、知ってたんです?』
『………………』
この質問にだけは無言のまま、彼女はゆーっくりとそっぽを向いた。
『あなた俺のこと実験台にしましたね!?』
声を大にして食ってかかった。
『影響なさそう』ってそういうことか。 どうりで、単独で呼び出すはずだよ!
『し、仕方ないじゃない! 今の私は素体の主導権明け渡してるんだから! まともな天使に救出されて、"呪い"の効果が発動したら敵の思うつぼなのよ!?』
『うわ開き直った』
『ちがいますー! 確かに理由の一つではるけれど、あなたを呼んだのは他にも理由があるんですー!』
子供かよ……と思った矢先、真面目顔になった彼女はずずいと俺の眼前まで迫り、両の肩に手を置いた。
眠そうだったエメラルドの瞳に力が宿る。
『よく聞きなさい、ディーナ。 “呪い”の効果を聞いた今なら“この子”の人生がどんなものだったか、想像くらいは出来るでしょう? あなたは“呪い”に捕らわれたお姫様を助けに来た王子様。 “この子”は今この瞬間も、あなたを近くに感じて心の力を取り戻してる。 この世界で、あなただけが"この子"の希望なの』
大仰なほど力強く言い含めるファーム様。
彼女の言葉の一言一句が、ことの重大さを訴えてくるようだ。
生前の俺は“この子”を助けられなかった。
封印部屋に踏み入った直後に死亡したのだ。
だが裏を返せば、俺はウィルスの影響を受けず、“この子”を“憎んでいない”。
偶然の産物だが、確かに“希望”と言えるだろう。
『あと数時間もすれば目を覚ますと思うから、必ず……必ず、最初に出逢ってあげて。 いいわね?』
『承りましたっ! 約束します……って、ファーム様大丈夫ですか?』
問いかけたのは、いよいよ彼女が眠りに落ちそうな様子だったからだ。
もう「表」に出ていられる力がないのかもしれない。
『……ちょっとキツいっぽい。 でもこれで最後。 通信用のデバイス持ってるでしょ、出して』
俺は下手に質問を挟まず、バックパックからデバイスを取り出し、手渡した。
それを受け取ってすぐ、エメラルドの美貌が泣きそうに歪む。
ギギギ、と壊れかけた業務用ロボットみたいにこちらへ顔を向けるファーム様。
『……繋がらない』
『うぇえっ!?』
俺も操作してみるが、確かにオフラインになっている。
『そう、か……サイキックが働いた時、隙を突いて妨害装置を仕込んだわけ、ね……。 予想より、知恵をつけるのが、早いじゃない……』
嘆くような声で、顔を押えるようにうつむく。
せっかくの美貌に深い影が落ちていた。 二次元ならば大量の縦線が入っていたことだろう。
『えっと、よくわからないんですが、通信が必要なんですか? なら、急いで外に……』
『アガトは元気?』
流された。 もう本当に無理らしい。
……アガト? どっかで聞いたぞ。
『名前は聞いた気がします。 元気だと思いますよ』
『そう、良かった……頑張るように伝えておいて』
その天使に状況を引き継げという意味だろうが、声の暗さからして頑張ってどうにかなるとは思えない。
困ったぞ。
何か伝えたいのだろうけど、方法がないのか。
口頭で……ダメだ。 通信に固執する理由を考えれば分かるだろう。
今のこの状況、“呪い”ウィルスも認識しているのだ。
『大事なことなんですよね? 何とかなりませんか? ファイルに保存とか……って、このデバイスは通信機能しかないのか。 ええっと、他に何かぅあおっ!?』
押し倒された。
完全無欠に意味不明!
馬乗りになったファーム様の表情が……なぜだかやたらと……色っぽい。
『……ねぇ、ディーナ。 わたしのこと、どう思う?』
その質問は二度目だが、どうやら今回のは異なる響きを帯びている。
絶世の美少女が、匂い立つような色気を纏って密着して来る!
何だ、なんなんだこの展開は?
そういう流れなかったよねっ!?
『わたしはアナタのこと、カッコイイって思ったよ……囚われの女の子を助ける王子様、ステキだと思う』
『あ、ありがとうございま……すおぅうっ!?』
桜色の唇に強襲され、反射的に顔を反らして回避した。
副代表様は肉食系!?
――いや、ふざけてやっているのとは、違うようだ。
吐息は熱く、頬は上気しているが……その瞳には、必死な思いが滲んでいる。
『わたしね、もうすぐ“消える”の……最後に、思い出が欲しい』
ひどく物騒な動詞に気を取られ、心の隙をつくように――キスされた。
瞬間的に脳が沸騰する。
しかも今回のキスはさらにハードにエボリューション!
『――んぅ……っ!?』
舌が、唇を割って押し入ってきたのだ!
事実の認識が追い付かない内にも、口腔内がカァッと熱を持ち、一瞬で耳まで伝播する。
怖くなって顔が逃げる反応をしてしまうが、追いすがられて、押さえ込まれる。
内頬が、歯茎が、自分以外の人の舌で刺激される感覚って……こんな……こんなに、気持ち良いのか。
熱を帯びた空気が甘い。
流し込まれる唾液まで甘美に感じられる。
媚薬なんてアイテムがあればこんな味なのかもしれなかった。
頭がぼぅっとして、思考が鈍る。
縮み上がっていた舌からも力が抜けて、彼女のそれに絡み取られた。
『んぁっ……! ふぁ、ン……ッ!?』
形容し難い、いやらしい水音が口腔の内側から鳴り響く。
舌と舌の触れ合いは、意識を小刻みにスパークさせた。
この、感じって……ヤバいん、じゃ…………
『ぷぁっ! ……ふぅ。 結構、いい思い出になったかな。 ありがとうね、ディーナ……』
『……ふぇ?』
これで、終わった……んだろうか?
意識は茹で上がったまま、思考がまるで安定しない。
『続きは“四条の丘のベンチ”で、ね? じゃあ、おやすみなさ、い……』
その言葉を最後に、彼女は目を閉じて倒れ込んでしまった。
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突然のディープなキス体験に全力放心してしまい、任務復帰には時間を要した。
より正確には、興奮を抑えるのに大変な苦労を強いられたわけだが、淫行にも自慰行為にも及ばなかった己の自制心には賞賛の声を送りたい。
ファーム様を背負って、帰路につく。
背中の幸福な感触と戦いながらの凱旋だ。
とにもかくにも任務達成。 ピンチこそあったが、大成功。 成し遂げたぜ!
クックックッ、帰ったらあの青色レイパーに訴訟でも仕掛けてやろうか?
――そうなのだ。
この時俺は、無意識にスキップしてしまうくらいに浮かれていたのだ。
無理もない。 空も飛べない戦力外の底辺天使が、副代表様の救出に単独で成功したのだから。 これ以上ない大金星である。
……が、好事魔多し。
ヘラヘラと調子に乗った奴らのオチがどうなるか、俺はよく知っていたはずなのに――。
再会したのは、一本道の地下通路。
確かに出会ったら気まずいと思ってはいたけどさ……。
どうしてそんな殺気立った目をしているのさ。
スズル姐。




