017:天使の見る夢 ―― 当て推量に魔改造
「ほら、大丈夫。 もう大丈夫だから……」
くり返しくり返し、幼い子供をあやすような優しい声が降ってくる。
温かい胸に抱かれながら、撫でられる頭が心地良い。 ずっと小さい頃、母親がそうしてくれたことを思い起こさせるような、海みたいな抱擁だった。
「……あの、もう大丈夫です」
いい加減我に返り、気恥ずかしさのままに天使の胸から身を起こす。 既に涙は止まり、身を裂くようだった恐怖も遠のいていた。
小さく礼を言いつつ顔を上げる。 視界に飛び込んできたのは、大女優もかくやの大人びた雰囲気を持つ美女。
「無理、してない?」
覗き込むように問いかけられて、俺は反射的に目を逸らした。
妙だった。
うつむいていたせいで顔にかかった栗色を、そっと後ろへ流す仕草が艶やかで、気遣わしげに潤んだ瞳も色っぽい。 かなり破壊力のある色香のはずだが、不思議とドキドキはしないのだ。
「んー?」と微笑みかけられると居心地ばかりが悪くなり、背中まで向けてしまう。 クスクスと可愛らしい笑いが響く。 今度は羞恥で泣きそうだ。
「とりあえず、お茶にしましょう。 いい茶葉が入ったの」
ぽん、と両手をたたいて、彼女は明るく言い放った。
ドキドキしない理由が分かった。 母性だ。
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「本当にごめんなさいね。 あのクソ代表天使、基本的には淫獣だからそっち方面は全方位無制限に天然なの。 ……あ、尊敬はしてるわよ? たまに地獄へ叩き落としたくなるけれど、そこは勘違いしないでね?」
フォローする気があるのかないのか。
慎ましくも上品な仕草で紅茶を口へ運ぶ母性の天使は、しかし放つ言葉に慎ましさ皆無だった。
彼女と二人、通信用らしいデスクで向かい合いながら、既に愚痴でしかない代表天使の評価に耳を傾け続けている。
まるで俺の心中を代弁してくれているような発言の数々には、ちょっと晴れやかになったくらいだ。 いや、むしろ言い過ぎな感もあり、ゆっくりと手を上げて発言を具申する。
「あのぅ、大丈夫ですか。 アレでも一応代表なのでは」
「えー、うーん……去勢するなら認めてあげなくもないかな?」
この人は敵に回してはいけないと、男としての本能が理解する。
「ま、女の敵の話は切り上げましょう。 気分が悪くなるし。 ……状況について、話を続けてもいい?」
ヴェラが少し声を固くして確認する。
俺が落ち着くのを待ってくれていたのだ。 感謝の念を抱きつつ「もちろんです」と先を促す。
「もう理解してると思うけど、ディーナを囮にファーム様の素体をおびき出す作戦ね。 彼女の素体に巣食う敵対人格、F2がどうやってその席を獲得したのか不明だけれど、あなたを標的としているのは確かよ。 何か、心当たりは?」
俺は力なく首を振る。
「そもそも私は、エク・リプスの姿形も知りません。 心当たりなんて、つけようがありませんよ」
「そっか、"儀式"を終えて早々に追放されちゃったものね……。 いいでしょう、この機会に奴らについて少しレクチャーしておくわ」
言ってデスクへと向き直り、まるでピアノを弾くかのような優雅なタッチで指を走らせる。
そうして奥の大型スクリーンに映し出されたのは月面の一部。
映像はみるみる拡大されていき、現れたのは……ダークグレーの"円盤"だった。
天使の拠点ほど洗練されてはおらず、かなりゴテゴテしたフォルムだ。 青白い皮膜のようなドームに覆われているが、バリアだろうか?
「これがエク・リプスの拠点。 要塞って言うべきかな? ここを落とせば私たちの勝利。 とても分かりやすい標的ね」
「はー……あれ? ちょっと壊れてません?」
よく見ると円盤は所々が欠損しており、内側の基材らしき柱が露出しているのが見て取れる。 素人見解だが、かなりの数の砲撃に被弾したようだ。
「ええ、元々手負いみたい。 見栄も張れないなんて、よほど資源に余裕がないんでしょうね」
言って再び紅茶を一口。
現状、劣勢なのは天使側であると聞いているが、敵の台所事情も芳しくはないらしい。
「この円盤から異形の敵性個体が出現しては、地上目がけて降ってくるの。 ……弾切れする様子はないから、培養されてるんでしょうね」
静かにカップを置き、迷惑そうな表情で言う。 確認されている個体の映像を見せてもらったが……これはグロい。 機械の塊から人間の手や眼球が生え、痙攣するように蠢いているのを見て、俺は頂いた紅茶を吹きそうになった。 ホラーにしたって前衛的すぎる。
続く画像も似たり寄ったりで、有機物と無機物を当て推量に魔改造したようなキモグロクリーチャーばかり。 どんな神絵師が擬人化したって可愛くなりそうにない。
「見た目は大差ないから、城、船、兵とサイズで大別しているのだけれど、大きさなんて無関係に危険なのは自殺個体よ」
自殺個体――外見からは判別不能で、近接により自爆する個体。
その爆発の威力は天使素体を破壊するのに充分だとヴェラは言う。 この存在があって、天使側は遠距離攻撃がセオリーなのだそうだ。
「あなたの世界には、こういった人類の敵はいなかったの?」
ポニーテールが頬に当たるくらいぶんぶんと首を振った。
こんなのが雨のように降ってきたら、地球なんてひとたまりもあるまい。
「となると……やっぱりディーナの記憶が鍵になるのかな。 何か思い出した?」
「あ、少し思い出しました。 でも完全ではないですね」
花束のお届け中だった所から先は、まだもやもやとした闇の中だ。
「なるほど。 なら、プランBね」
不敵に笑ったヴェラが、部屋の入口に視線を向ける。
待っていたように姿を現したのは、懐かしさすら感じさせる小顔の赤妖精だった。
「指示した通りよ、リオ。 準備は出来てる?」
「万全ですー」
元気に答えた妖精は、せっかくの再会だというのに早速ポニーテールに跨りおった。
なに定位置にしてんだコイツ……まあ、いいけど。
「じゃ、行きましょうか、天使ディーナ様」
「やっぱりお前に呼ばれるとなんか……あ、蹴るなお前。 ポニテ蹴るな!」
「がんばってねー」
天使ヴェラはヒラヒラと手を振って、俺を送り出してくれた。
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「おおっ、いいじゃん!」
案内されたのは、新築マンションのモデルルームみたいに豪華な大部屋だった。
家具もしっかり備え付けられ、壁面は気遣いが小憎らしいオフホワイト。 キングサイズのふかふかベッドが強い存在感を放っている。
「うぉおっ、フライパンがある!」
部屋の奥、キッチンにまで踏み入ると更にテンションが上がった。
こう見えても最近は料理にハマっており、ホットケーキとオムレツまでなら習得済みだ。 材料あれば試してみたい。
「どうですー? あなたの世界の文化レベルと合ってますかー?」
「ジャンプとポテチは?」
「リアクションできない地元ネタは控えてくださいねー」
相変わらず切り返しが鋭い奴である。
「しかしなるほど。 俺が記憶を取り戻しやすいように配慮しての部屋なんだな」
「ご名答。 あなたとの会話から、大体これくらいの文明レベルだと推測して、色々と手を回してみました」
「見事なプロデュース力だ。 称賛に値するぞ」
えへへー、と頭上でドヤる妖精の声。
PCとスマホがあれば尚良かったが、いい加減寒いので口にはしない。
「ではでは、思う存分リラックスしてください。 さあ、はやく!」
「変なプレッシャーのかけ方をするな。 んー、そうだな……いっそ寝てみるか」
リラックスになるかは分からないが、記憶を取り戻す刺激にはなるかもしれない。
というかこの異世界に来てからこっち、気絶以外じゃ活動しっぱなしである。
「ほほー、いいアイディアかもしれませんね」
「だろう? じゃあ1時間くらい寝てみるわ」
「オッケーです。 また後で来ますから、ごゆっくりー」
そうと決まれば大きいベッドに大胆ダイブ!
羽のような優しい弾力に身を任せ、俺は気合を入れて目を閉じた。
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これは夢だということは、すぐに認識することができた。
何せ眼下に広がるその景色は最寄の駅前商店街。 見知ったコンビニ、馴染みの本屋、いきつけのネットカフェ! 今となっては何もかもが懐かしい。 こういったノスタルジーなら精神衛生上も悪くないので歓迎だ。
それにしてもリアリティーのある夢である。 夢は記憶の整理という話はネットで見かけたことがあるが、道行く人まで再現されているとは。
お、あの子ポニテじゃん。
……ん? なんだか既視感があるポニテだな、いつ見たんだっけ?
記憶を辿っている内に、原付バイクがその子を追い越すのが見えた。
何に気を取られていたのか、ハンドルを誤りそうになって車体をもたつかせる。 危ない奴だ。
冴えない後姿、ボロくてエンジン音ばかり五月蝿い原付、そのリアボックスに収まっているのが大きい花束であることは、開けなくっても分かってる。
俺じゃん。
さすがに見間違えようがない。 テンションMAXなバイト初日の自分の姿だ。
つまりこの夢は、ちょうど異世界に移る直前の時間帯というわけだ。
これは僥倖。
このまま視聴を続ければ、容易に記憶が辿れることだろう。
上からだと良く分かるが、ずいぶんと道を間違えていたようだ。
あー、違う違う、そこは左折だって。 目的地はほら、あっちに見えるマンションの702号室――
『――繋がった』
唐突に響いたのは女性の声。
と、同時。 まるで古いブラウン管テレビが消えるみたいに、マイドリームが空間丸ごと閉幕した。
なにコレ。 続きは課金が必要ですか?
『時間がないので手短に伝えるわ、よく聞いて』
暗闇の中、女性の声だけが続く。
聞き覚えのない声だが、迫力のある、一度聞いたら忘れられないくらい存在感のある声だった。
その声が、切迫した空気を纏って訴える。
『"この子"を見つけて。 あなたがやるの。 "呪い"が力を増しているから、決して人間に会わせてはダメ。 殺されるわよ』
話が見えないが、穏やかではないことは理解できる。
……これ、俺の夢だよね? 違うの?
『急いで。 "この子"を"助けた"あなたなら、きっと希望になれるから』
……え?
この子?
助けた?
背筋がざわつく。
遅ればせながら、事態の重大さに気づき始める。
すぐに思い至ったのは『私を、助けてくれるんですか?』の声。
待ってくれ。
もっと、しっかり説明を――
『もう時間がない。 私の、ファームの素体が、完全に乗っ取られる!』
夢の中で息を呑んだ。