016:異世界地上と一時の別れ ―― SF世界でいきなりセクハラ
地上に近づくにつれ、坑道には崩落箇所が目立ってきた。 埋もれた通路は回り込み、時には土砂を乗り越えて、どうにかこうにか地上を目指す。 階層構造がしっかりと保たれているのが救いだ。 当時の鉱人たちには頭が下がる。
「止まれ」
背中の貴族が肩を叩いいたのは三層に到達してすぐのこと。
彼が明かりを照らす先には、狭いというより「低い」横道があった。
「何ですか、あそこ。 何かの搬入口?」
「墓地だ」
「……はい?」
「そんなことも……いや、若い者はもう知らんのか。 地下に建てられた墓地は神聖な場所とされるのだ。 出入り口もあのように狭く設計される」
ブードの説明に、俺はここでも文化の違いを実感する。
墓地は神聖な場所なのか。 確かに死者が眠る場所だし尊重されるのも頷ける。 地下に限られる理由はよく分からないが。
「供え物があると言っていたな。 いま持っているのか?」
「はい、荷物の中に。 って、憶えててくれたんですね」
「……毎年の墓参りは欠かさんと言っただろう」
中年男のツンデレなんて一生見たくなかったが、正直すこし見直した。 本当に信心深い人だったのか。
急がなければならない状況ではあるが「崩落状況から見て、今後は立ち入り禁止にされる可能性が高いぞ」との後押しもあり、寄り道を決める。
狭い通路を屈んで通り抜けると、そこは整然と墓石が並ぶカタコンベ。 少々背筋が寒くなるが、お供えものという大義名分があるのでホラーなノリは勘弁して頂きたい。
目的のお墓はすぐに見つかった。 『鉱人の英雄 ダオ』と掘られた特段に大きい墓のすぐ隣。 墓石には『マール』という名がしかと刻まれている。
ようやくのご対面という気分だった。 まさかお供え物をするのにこうまで苦労させられるとは。 とにかくこれで当初の目的は達成だ。 不謹慎ながらも脳内ではクエストクリアのファンファーレが鳴り響く。
気持ちを改め背筋を伸ばし、俺は目的の墓石の前に膝をついた。
荷物から取り出したペンダントを出来るだけ丁寧に供えてから、静かに手を合わせ、黙とう。
並んだブードも、痛めている左足を押して、膝をついて祈ってくれた。 出会った時からは想像できない真摯な表情に驚きつつ、祈りの作法をこっそり真似させてもらった。
――本人でなくてごめんなさい。 そのペンダントはダオさんからです。
言葉にするわけにもいかないので、心の中だけで強く伝える。
彼がどんな思いで俺にこのペンダントを託したかは分からない。 だが、きっと積年の想いが籠められているに違いないのだ。 俺は組み合わせた両手に、もう一度力を込めた。
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二層に到達。
通路のほとんどが崩落して八方塞がりの状態だったが、か細く残った通路の先、うっすらと地上のものらしき明かりを発見! 採掘の音も聞こえてくる。 救出作業に当たってくれていたようだ。
「どうやら助かったようだな……この"神石"、返しておくぞ」
「えぇえっ!?」
「お前はワシのことを何だと思っているのだ!」
当然ガメつく奪われるものだと警戒していたが、彼いわく「雇われの身でないのなら、発見者のものだ」と、通信デバイスを押し付けてきた。 この人、ずいぶんとしおらしくなったものである。 こっ恥ずかしいトラウマ激白も無駄ではなかったかもしれない。
明かりの元、声を上げて救出を求めるとすぐにロープが降ってきた。 先にブードを送り出す時「世話になったな」なんて捨て台詞を置いて行ったが、パンツが破れていたので何もキマっちゃいなかった。
俺も後に続き、とうとう待望の地上へと帰還。 シャバの空気が格別にウマい!
五、六人いた土木作業員の一人が「二名とも救出成功!」と声を上げ、それぞれ泥だらけの手で拍手しながら、笑顔を向けてくれた。 もう泣きそう。
「ディーナっ!」
「ディーナさんっ!」
そんな作業員たちをかき分けて、現れたるは友人姉妹。
二人とも最高の笑顔で勢いよく抱きついてきた。
心が近づいた気がした。
涙が込み上げてくる。
「「……くさっ!」」
心が遠のいた気がした。
涙がひっこんでいく。
「うわ臭い、マジで臭い、生ゴミより死体より臭い! ちょっと近づかないでよ、鼻がもげるでしょ!」
姉の方は遠慮なしに心を抉る罵詈雑言。
妹の方はかくも小さくうずくまり、ぇほぇほと力なく咳き込んでいる。 えずいて涙ぐむほどの悪臭らしい。
なにもそこまでと思い肩口に鼻を近づけ……くっさ! カビとか土とかじゃなく、激烈におっさんくさいっ!
公害レベルの悪臭天使は問答無用で連行され、身ぐるみ剥がされテント式の仮説風呂にブチ込まれた。
地上へ戻って来られた以上、早急に連絡を取る必要があるのだが、天使拠点を異臭騒動に巻き込むわけにもいかない。 待機しているらしいダオには申し訳ないが、もう少しだけ時間を頂くことにした。
背中を流してくれているのは「こういう時、地術や風術を扱えないのは肩身が狭いです」なんで愚痴る巫女少女だ。 薄着だが、脱いではいない。 スズル姐はシャベルを担いで他の救出活動へ出張って行った。 嘘みたいに似合っていたので今日から標準装備でいいと思う。
それはそうと、地上も大変な被害だったらしい。 ほとんどの建物が半壊し、負傷者も多数。 だが死者が出なかったのは不幸中の幸いである。
「スズル姐も言ってましたけど、見た目よりずっと頑丈なんですね……傷ひとつないなんて驚きです。 あっ、あの貴族にヘンなことされませんでした?」
「ん、大丈夫。 ああ見えて、案外いい人かもよ」
背中で息を止める気配。
わしゃわしゃと背中を撫でる布地の動きが一瞬止まる。
「……ディーナさんて、不思議な人ですよね」
「その件について言及されると弱いんだけども」
「あ、そういう意味じゃなくて」
イマリはうーん、と小さく唸り「これは内緒にしてください」と前置き、言った。
「ディーナさんに会ってからのスズル姉、少し変わったんです」
「なかなかの不意打ちだよ。 なにそれマジで?」
「少しですけどね。 私のことを遠ざけるようなこと、言わなくなりました」
……ふむ、確かに。
会ったばかりの時は何度か目にしたやりとりだったが、言われてみると見なくなったな。
「だからディーナさんて、人のことを優しくしちゃうような、不思議な力があるのかも……って」
「うわ何そのヘンなスキル。 偶然だよ、偶然! ちょっと珍しいからそんな風に感じられるだけだって」
声を大にして否定した。
元ニートにそんな異能は無縁である。 加えてこの天使素体(予備)にその手の特殊能力が備わっているとも思えない。
えー、でもー、なんて誉めそやしてくる巫女少女のアプローチは、茶化し半分にしても嬉しいが、ご期待に添えられない以上認めるわけにはいかない。
なんだかイチャついているような空気になってしまったが、視界の端で人工的な光が点滅するのに気付いた直後、ほわほわした空気が凍結した。
「あれ? ディーナさんの荷物、何か光って……」
「そうだ! 急用が出来たから、この後すぐに町を出なきゃ!」
「えぇっ!?」
誤魔化せたが、想像以上のリアクションに驚く。
イマリは「なんでですか、どうしてですか」と言及しながら肩に首を乗せてくる。
密着されると胸がざわつくが「納得できません! ずっと一緒にいられると思ってたのに!」とほとんど涙声で訴えられると、それ以上に胸が痛む。
気持ちは嬉しいが、天使側もいい加減痺れを切らせているようだし、ここらが限界だ。
「別に今生の別れってワケじゃないってば。 ちゃんと戻ってくるから」
「それっていつまでですか? 私たち、手伝えませんか?」
「巻き込みたくないよ。 それにこの問題は、私にしか出来ないことなんだ」
「え……ディーナさん、それ……いいように利用されてないですか?」
何かを察したような問い掛けに、うぐっと喉が詰まってしまう。
状況だけを見るなら、まさにその通り。 覚えのない容疑で追放されて数日後、今度は早く帰って来いとのお達しだ。 これが追放系の主人公ならば怒り心頭なことだろう。
しばし答えに窮していると、最後はイマリの方が溜め息混じりに折れてくれた。
「もぅ……仕方ないですね。 スズル姉にはうまいこと言っておきます」
「ごめん、頼むよ。 次会う時までにせめて常識は勉強しておくから」
「それについては賛成です」
最後には「気をつけてくださいね」と笑顔をくれた巫女少女のためにも、迅速に問題を解決しようと誓った。
そうして俺は、ポニーテールを引かれる思いでアルクスの町を後にした。
服は昨日買ってもらったばかりの、ふわふわとした上品な白の上下に身を包んでいる。 見た感じ、休日にお出かけするお嬢様みたいな装いだ。 気合を入れて凱旋ようで気恥ずかしいが、コーディネートをやり直している時間はない。
通信デバイスからの指示に従い近くの森に入ると、すぐに空からワイヤーのようなものが飛来。 軽く掴むや否や、ぐぃんっと空へ引っ張り上げられた。
「待ちかねたぞ」
「すみません、色々あって遅れました」
「……いや、すまん。 無理を言っているのはこちらの方だったな」
首を横に振った筋肉天使は「また気遣いが足りなかった」と嘆息し、それでも急いではいたようで、俺を背中に乗せるや弾丸みたいな超加速で大海をぶっちぎった。
これが天使本来の速度なのか、音速上等の筋肉一号は夕暮れ近かった空の色すら変えて、アッと言う間に大海を横断してしまった。
白いピラミッドが視界に入る。 その尖端部が展開し、開いた穴に吸い込まれるようにして滑り込む。 勢いそのままメインシャフトのような垂直通路を降下して、気が付けば白いドアの前に立っていた。
やや屈んで入室するダオに続いて部屋に踏み入ると、視界に広がるはこれまた驚きの光景。
そこは指令室、ないしモニタールームのような部屋だった。
小さい映画館ほどもある扇状に拡がる空間には、奥に向かって大型のコンソールが並んでおり、最奥には巨大な湾曲スクリーンが地上や月の映像を映し出していた。
ついさっきまでの地上世界とはガラリと変わったSF的な景観に、目が回りそうになる。
「ディーナ、よく戻って来てくれた」
出迎えの声は聖職者姿のソルだ。
努めたような明るい声だったが、その目元には疲れが滲んでいる。 事態の深刻さがうかがわれた。
その上で申し訳なさそうな表情を作ったので、先を読んで言葉を投げる。
「緊急事態なんですよね。 固い話は抜きにして、状況説明をお願いします」
「……すまない、助かるよ」
ふっと笑顔を作ってから、緊張に表情を戻したソルが室内中央、ビリアードができそうな台座へと近づく。
と、その上に3D映像が浮かび上がった。 大きな青い球体は、もちろんこの惑星『レア』だろう。 地形までもが精細な3Dマップだ。 うおおおおおおっ、と騒ぎ出す厨二心も空気を読んで抑制しつつ、ソルの説明に耳を傾ける。
「ここが第一拠点、今いる座標だ。 そしてベリアス海を挟んで、ここがディーナが先ほどまで居た地上の町」
彼の指先がマップ上の二点をチェック。
それぞれにオレンジ色の光点が出現し、輝く菱形がクルクルと回った。
「そしてこれが、本日02:30発生した事象だ」
言葉に続き、拠点から緑色のポインタが垂直発進。 一定の高度に到達すると、突然鋭角に折れた。
その軌道は真っ直ぐに、二つ目の光点――つまり再開発中のアルクス村へと向かう。 そのまま直進すると思われた緑色のポインタだったが、途中で何かに弾かれたように軌道を変えた。
ポインタは、今度は自然な放物線を描いて……村から少し逸れた、右手の森へと着弾した。 なるほど、これがあの衝撃の正体か。
「って、はぁあ!? ちょっ、まさかあの衝撃って……」
「そう、君を追放した後もずっと目を覚まさなかった……副代表天使、ファームだよ」
彼自身未だに信じられないかのような、現実感のない声音だった。
今日はほとほと驚いてばかりの一日だが、これにはガチで驚愕した。
この世界を守護する天使、そのナンバー2が……敵対、したのか?
本当の本当に、一大事だ。
思わず口を押える俺に、ソルが追い打ちをかけるように続ける。
「ディーナ、君にとっては災難ばかりで本当に申し訳ないが……落ち着いて聞いてくれ」
「この上何があるんですか……」
「……このファーム――仮に、『F2』と呼称するが、彼女の狙いは、君だ」
ぶっ倒れそうになった。
「君の左腕から検出されたエク・リプスの反応は、君自身の素体からじゃない。 拠点内のネットワークを経由して、F2から攻撃されたんだ。 今回の件も、狙いが君であったことは明白だろう。 危うい所で迎撃には成功したが、もし失敗していたらこの星に風穴が空いていたかもしれない」
知らない間に惑星崩壊の危機の中に居たらしい。
笑えねぇ。
「そして現状だが……奇妙な点がある」
彼は言いながら再び3Dモニターを操作した。
惑星モデルが消失し、次いで表示されたのはF2の墜落地点。 そこには目立つ形の平地が形成されていた。
『平地』である。 あれだけの衝撃があったのに、クレーターになっていない。 形も奇妙で……これは、アルファベットの『E』か? デフォルメした王冠のマークに見えなくもないが。
「これが現場の状態だ。 周辺が砂漠化していないことからも分かる通り、“融素”の霧散が発生していない。 一度でも意識が覚醒した天使素体では有り得ないことだ」
……頭がこんがらがってきて、思わずこめかみを押さえる。
“融素”は、人の生命維持に必要となる大気だ。 それは知っている。
天使が発する重力場が、この大気を霧散させてしまうことも知っている。
墜落したF2は、融素霧散が発生していない。 つまり素体が未覚醒の状態である、と。
「……墜落して、未覚醒状態に戻ったってことですか?」
「焦点になっているのはまさにそこだ。 ディーナ、君は“儀式”の時、二つの声を聞いたと言っていたな?」
「ああ、はい。 確かに聞きました」
忘れるものか。
儚げな女の子の声で、『私を、助けてくれるんですか?』。
続いて怨念めいた声の『なぜ、お前がここにいる?』。
特に後者はトラウマだ。
「仮に、その声が別々の人格――魂であったとしたら、現場の状況に説明がつく」
「あっ! そうか、今眠っているのは『私を助けてくれるんですか?』と、助けを求めた人格ってことですね?」
言葉と一緒に視線を返すと、彼は強く首肯した。
海色の瞳には期待の色が宿っている。
「そこで、君に質問だ。 なるべく正確に答えて欲しい――ヴェラ、準備は?」
「現状で二十六名が現場上空で待機中です。 広域隔離の結界も、準備が整っています」
ソルが視線を送った先、綺麗に澄んだ声がした。
今の今まで気付かなかったが、室内の奥へ向かって並ぶ大型コンソールの一つに、女性が一人腰かけている。 耳によく通るこの声は、館内放送の人だ。
栗色の長い髪。 桃色のカーディガンを肩に羽織り、背筋を伸ばしてタッチ式であろうキーボードに指を走らせていた。 オペレーター役なのかもしれない。
ソルが背筋を伸ばして俺を見据える。
そうしてから、祈るように質問した。
「教えてくれ、ディーナ。 付近にF2が墜落する前、君の周囲で何があった?」
この質問の意味は、俺にだって充分に理解できた。
この素体に、何かしらF2の敵対起動を刺激する原因があると踏んでいるのだ。
どうやら安全措置も取っているようだし……いいだろう、撒き餌役を買って出ようじゃないか。
さて、時間的には今朝になる。
タイミングとしては当然、ブードと一緒に滑車通路へダイブする直前だ。
…………あー。うわぁ、あの時かよ……。
あまり人前では言いたくない。 言いたくないが……こんなシチュエーションで黙秘するわけにもいかない。
俺は暗たんたる気持ちになって、重い口をどうにか開いた。
「大変言いづらいですが……セクハラを受けていました」
「セクハラ……」
困惑したような表情で腕を組むソル。
そんな難しい顔をされても困る。
「……ダオ」
「何だ、首領」
「“セクハラ”って、なんだっけ?」
イラッときた。
セクハラ? ゴメ~ン、俺ってば何しても喜ばれちゃうから、セクハラって意味知らないんだわ~、ってかっ!? はっ倒すぞこの野郎。
などと口には出さなかったが、このイケメンの株価はたった今地殻を砕いて暴落した。
問われた筋肉天使も肩を竦めて呆れ顔だ。 わかる! わかるよそのリアクション!
「無理やり性的なアプローチすること、だったか?」
「……まあ、そんな所です」
ダオの確認するような問いかけに同意を示す。
この世界の言語、俺の修得した『第二言語』は日本語によく似て複雑だ。 ニュアンスの違いはあるかもしれないが、概ねそんな意味で合っているだろう。
「なるほど。 それで、どんなセクハラを受けていたんだ?」
「うーん……確か、髪に触られてましたね」
「その状況を再現することはできそうか?」
「あー……いや。 その後で相手の印象が少し変わってしまったので、再現は難しいかと」
「そうか……髪を触るというと、こういう感じか?」
言いながらソルは、いかにも神妙な面持ちでポニーテールを撫でてきた。 認めたくはないが、結構心地良い。 ブードにされた時とは別の意味で頭に来るが、涙を飲んで許容した。 彼は真面目にやっているのだ。
「ええと、もっと後ろから撫でる感じだったかと」
「と言うと……こうか?」
背後に回り、角度を変えて優しく髪を撫でつける。 さり気なく肩に手まで置いてきて腹が煮え返るが、あくまで紳士的な振る舞いなので崖っぷちで我慢する。
「どうだ?」
「どうと言われましても……」
「ふむ……ディーナ」
「はい?」
「あとで謝る」
ふにゅっ
「はふぁっ!?」
突如として胸部に発生した斬新な体感が、呼気と一緒に間抜けな声を押し出した。
……否。 過去に一度だけ経験がある、この“直接的”な体感は。
「んなっ!? さっ、さわっ……直で、さわりゅわぁあっ!?」
天使になって初めて噛んだ。
男の大きい掌が、“直接”左の、胸の膨らみを包み込んでいる!
コイツ、いつの間に腕を忍び込ませたっ!? まるで認識できなかったぞ。
イケメンのチートスキルに驚愕しつつも、全身が羞恥と恐怖に硬直する。 ずっと意識しないよう努めてきたというのに、この身体が……女の子のそれなのだと、強制的に自覚させられる。
「ヴェラ」
「反応ありません」
「…………」
――ヤバい、続ける気だ。
俺は緊急事態を察知してすぐに脱出を試みた。 が、抵抗すらままならない。 優しく胸の膨らみを包む右腕も、腹部を抱く左腕も、固定オブジェクトであるかのように微動だにしない。
相手が悪すぎる。 最弱が最強に勝るのは、アニメかラノベの中だけだ。
「バカ、ちがっ! これっ、セクハラってレベルじゃ――」
「大丈夫、恐くはしないさ。 ……男だなんて、やっぱり嘘じゃないか。 その服、似合ってるよ」
これ以上ないほどに恐ろしい甘言が耳朶を打ち、全身から血の気が引いた。
今から起こる事態を予想し、脳内は完全にパニック状態だ。
膨らみを包み込んだ掌が、想像を遥かに超えて妖しく蠢く。
「ひぃいっ!? ややややめろばかしねこのイケメンっ!!」
混迷極まるが故、ディスりも稚拙極まりない。
優しく、時に強く、“円を描くような”手指の動きに背筋がぶるりと震え上がる。
さらに何を血迷ったのかこの男、耳に吐息を吹きかけて、甘噛みまでもかましてきた。
「ばっ……や、めっ……ッ!? ぅあ、そっ…………イヤだっ!」
信じがたいことに、こんな淡い刺激に対して、天使の耳は発火したみたいな熱を持った。 裏側を舌でなぞられた瞬間、あろうことか脳髄に痺れが走り……一瞬だけ、双肩から力が抜けた。
その間隙を狙ったかのようなタイミングで、男の右手の指先が、“先端部分”を摘み上げる。
「んぁっ……! く、ぅ……! やめ……、ろ……」
本当に、かろうじて、望まぬ声を漏らすのは堪えた――堪えたと、思いたい。
身体が熱い。 燃えるよう。
耳と、胸、それらの刺激が共振でもするかのように、熱が温度を増していく。
男の指先が蠢く。 背中が勝手に反り返る。
耳の裏に滑りを感じる。 肩がぶるぶると震える。
顎の力が抜けて、乱れる呼吸に音が混じるのを、どうしても制御できない!
否応もなく昂るソレの理解をあらん限りの精神力で拒絶するが、素体の心臓は魂を裏切って脈動を加速し続ける。
その上で、空いていた男の左手が、腹部をそっと撫でながら……そのまま、下腹部へ――。
「やっ……!! やだっ、ヤだっ! やめてっ、もぅ……、やだよぅ…………」
「――ソル様」
微かでしかなかった切望は、一人の天使によって拾い上げられた。
右手のデスク、悠然と腰かけていた女性がいつの間にか立ち上がって、鋭い声を発したのだ。
振り返った救済者の顔が、溢れる涙でよく見えない。
「それはもうセクハラの域を超えています。 依然反応はありませんので、許してあげて下さい。 その子、泣いてますよ」
「え?」
男の指先の動きが止まる。
本当に危うい、ギリギリの場所だった。
解放された俺はその場で崩れるように膝をつき、白い床へとうずくまる。
泣いた。
身も世もなく大声を上げて泣き叫んだ。
自分の身体を抱きしめて、自分でも引くほどの大号泣だった。
幼稚園でヤギに噛まれた時だって、こんなに涙は出なかった。
情けない、居た堪れない、死にたいくらいに恥ずかしい。
そして、それ以上に怖かった。
くっ殺なんてベタな展開いくらだって見てきたが、かのキャラクターたちに土下座して謝罪したい。
本当に、殺された方がマシだった……。
「あ……その、悪かった。 “あれくらいで”泣くなんて思わなくて……」
追い打ちかけてきやがった。
もう知らん、こいつとは二度と口利いてやるもんか。
イケメンでも、結構いい奴だと思ってたのに……やっぱりイケメンは世界の敵だ! 異世界でも敵だった!
「お二人とも、少し席を外していただけますか?」
「いや、だが……まだ、状況が」
「つーか出てけや男どもっ! ツブすぞコラッ!」
静かになった。