015:暗闇に響く慟哭 ―― 闇が深すぎるトラウマ
自由落下の開始と同時に天使素体はシフトを発動。 世界は即座に時の歩みを緩めたが、腰かけている椅子が床ごと埋没していく光景はスローであろうと十二分に恐ろしい。
単独であれば脱出は難しくなかったと思うが、視界の隅に居座るのはびっくり仰天な形相のエロオーク。 この野郎、人様のポニーテールを無遠慮に撫でやがって、はてさてどうしてくれようか……などとはさすがに思わない。 こんなセクハラ豚野郎でもカテゴリとしては人類だ。 天使として人助けをすると決めた以上、選択の余地はなかった。
さりとてこの肥満体を抱えての脱出は間に合わず、出来たことと言えば手荷物を確保するくらい。 あとはこの男の襟首をひっ掴んで、続く落下物や土砂から保護してやる程度だった。
かつて滑車用であった竪穴は、人も家財も分け隔てなく呑み込んだ。
大量の土砂とともに暗闇に呑まれていく視界。 重力加速は天使に対しても忖度はしてくれず、すぐにもヤバめな速度に到達する。 絶望的なフリーフォールの中でも、俺は諦めることなく周囲に視線を巡らせた。
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「ブードさん? 大丈夫ですか?」
「………………」
返事はないが呼気は聞こえる。 恐らくは気絶しているだけだろう。 外傷についても調べたい所だが、そこまでは無理な相談だ。 いくら天使素体の夜目が効くといっても、真の暗闇を見通せるほど万能ではない。
だいぶ深くまで落ちたが、どうにか生きながらえている。
あの後、煙る視界の中に荷上げ用と思しきロープを発見し、捕まえることに成功。 ブレーキをかけつつ振り子の要領で横穴へと滑り込んだのだ。 ここが“滑車用”の竪穴であったことが幸いした。 残念ながら竪穴は完全に埋まってしまったが、最悪の事態だけは免れた。
それでも光源がないのはかなり厳しい。
ほとんど本能的にポケットを探ってしまったが、それはこの世界に存在しないモノ。 俺はどうしてスマホと一緒に転生しなかったのかとイラつきかけた所で……類似品の心当たりを思い出した。
『生きてますかっ、天使ディーナ様!』
通信デバイスの木目テクスチャが解除されたのは、俺が荷物の中から取り出した直後のこと。
画面に食いつくように大写しで現れたのは、心配顔の赤妖精だ。
「よう、リオ。 もう週明けか?」
「冗談言ってる場合じゃありません、緊急事態です!」
間延びした語尾も忘れて切迫した声を上げるリオ。
……考えたくはなかったが、やっぱり天使サイドの案件だったらしい。
あの衝撃だ、地震ではなく何かが落下してきたと考える方が自然だろう――つまり、宇宙からの落下物。
「まさかと思うが……月の魔物か?」
「違います」
即座の答えに肩の力が抜ける。
続けて質問する前に、リオが早口で続けた。
「すぐに戻って下さい。 天使ダオ様がピックアップします」
「……は? 俺の容疑、晴れたの?」
「綺麗さっぱり晴れました。 とにかく急いでください。 今起きている問題は、エク・リプスの地上落下よりもよほど大事なんです!」
「はぁあ? 一体何が起こったんだよ」
「それは…………すみません、言えません」
思わずアニメみたいな角度で首を傾げた。
実はからかわれてるんじゃないかと思ったが、画面のリオは大事件があった時のレポーターみたいな仕草でヘッドセットに耳を傾け、しきりに頷きながら言葉を続ける。
「説明が難しいです。 あなたにその情報を与えると、事態がさらに悪化する可能性があるんですよ」
「おまえは何を言っているんだ」
「とにかく急いでください!」
状況がまるで見えないが、一大事であることは伝わった。
俺だって地上の様子、特に友人姉妹が心配なのだ。 急いで地上へ出る方針に依存はない。
「というかあなた今どこですか!? 座標位置がおかしいです」
「あー、すまん。 地下だ、古い坑道の中。 滑車用の竪穴が崩れて、そこから落ちた。 ちなみに地上の人間を一名保護して、すぐそばでノビてる」
最後まで言い切る前に、野太い声が割り込んだ。
「――アルクス村の坑道だな? こちらからマップを転送する」
もちろん、地元出身の筋肉天使ダオだ。
すぐに画面が切り替わり、ゲームのミッションブリーフィングみたいに3Dマップが高速描画された。
「すごっ、助かります」
「俺の最後の仕事だった。 だが鉱山病で――」
「う、ぅ……」
そこでブードが低い呻き声を漏らすのが聞こえた。
さすがに騒ぎ過ぎたらしい。
「同行者が気付きました、とにかく地上へ向かいます、灯りがないので通信デバイスの光源だけ継続よろしく!」
早口に捲し立ててから目を覚ましたブードへと向き直る。
彼は何度か頭を振ってから目を開き、辺りを見回しながら尋ねた。 通信に気付いた様子は、ない。
「ここは、どこだ……?」
「古い坑道の中です。 かなり深くまで落ちました」
「坑道? ……ああ、大昔の、神石の鉱脈か」
「らしいですね。 竪穴は塞がってしまったので、別のルートを探します。 私が先行するので」
「おい、待て」
彼は、急にイラついたような口調になって俺の言葉を遮った。
「……何か?」
「勝手に仕切るな。 ワシが指示する」
事もなげに断言したこの肥満貴族の言葉には、怒るよりも呆気にとられた。
「あの、状況分かってますか?」
「このような状況であればこそ、貴族であるワシの指示に従え」
「意味が分かりません……」
「理解する必要はない、ワシの命令に従ってさえいれば――痛っ、いたたたっ!」
言いながら立ち上がろうとしたブードだったが、顔を顰めてへたり込んだ。 肉ばった手が押さえるのは、左足。 確認できる範囲で出血はないようだが、捻ったか。
仕方がなく、俺はスカートの裾を引き裂いた。 「じっとしていて下さい」と断ってから、映画やアニメで見たのを真似て足首を固定してやる。
「ほう、上手いものだな」
「見よう見まねです。 とにかく言い争っている場合じゃありません。 それだけは分かって下さい」
「……ふん」
不機嫌そうに鳴らした鼻が、同意の意志だったらしい。
高慢な要救助者の態度に、俺は内心で盛大な溜息を吐いた。 正直無視して先を急ぎたかったが、怪我人を暗闇の中に放置するほど鬼にはなれない。
身動きが取れそうにない彼を背負う。
……重い。 重量ではなく、ネットリとしていて精神的に陰鬱になる重さだ。 泣きたくなる。
ダークな心情を表に出さないよう注意しながら、俺は何よりこの男と離れたいが為に先を急いだ。
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加齢臭の不快さを必死に堪えながら、地下坑道を突き進む。
迷宮に棲むモンスターの襲撃! ……みたいな不測なイベントもなく、至極普通の地下道だ。 二百年も前の廃坑とは思えないほど堅牢な造りで、移動には支障がなかった。
いくらか構造を把握し、脳内3Dマップと通路の構造を照合に成功する。 場所は地下七層。 結構な深淵だが、マップがある以上迷うはずもない。
……はずだったのだが、相も変わらずこの異世界は天使に厳しい仕様だった。
マップと相違する通路が多いのだ。 途中落とし穴になっていたり、通路であるはずの場所が塞がれていたりもして、何度も迂回を強いられる。
「適当に彷徨っていても時間の無駄だぞ」
イライラしていた所で、更にイラつかせる声が耳元に吐き出された。
我慢我慢。 なるべく平静を装って答える。
「今朝方、この坑道の地図を見たので構造を覚えているんです」
無論嘘だ。
「ほう、足取りに迷いがないと思ったらそういうことか。 古い家屋にでも残っていのたか?」
「そんな所です。 なので口出しは不要です」
「大した記憶力だが、この手の坑道は深い場所ほど構造が図面から外れるぞ」
「……そういうものですか?」
「ふん、そんなことも知らんのか」
マウントを取ったつもりか、肥満オークが急に口数を増やした。
「左に曲がれ」
「はい? 何か書いてありました?」
「ワシが曲がれと言ったのだ。 曲がれ」
「理由くらい教えてくれても……」
「それと、次に扉のある部屋を見つけたら教えろ」
「なぜです?」
「言う通りにしろ」
こめかみがビキビキするほどイラ立ったが、奥歯を噛み締めて耐えた。
頭に血を昇らせるより、地上を目指すことが先決である。
ブードの指示通りに通路を曲がって進んでいくと、ややもせず幅のある道に出た。
「あれ? この道って……」
「柱が多く、幅もある。 要道だ。 お前の記憶でも、階層間通路はこの道の突き当たりにあるのではないか?」
指摘の通り、基幹となる通路だった。 聞けば彼は、北の大陸で採掘現場の指揮を執った経験があるらしい。 今現在は町の再開発責任者のようだし、実はなかなかの切れ者だったりするのかもしれない。 ……性格は別にして、そろそろホモサピエンスとして扱っておこうと思う。
「あ、ありましたよ。 扉のある部屋」
「入れ」
ラジコンよろしく面舵を取る。
中は休憩室のようだった。 椅子やテーブル、ベッドや毛布が放逐されており、生活感が残っている。
ブードは俺の背中から降りると、片足を引きながらテーブルへと向かった。
光源たる通信デバイスを持っているのは彼だ。 俺も明かりが届く範囲で何か使えそうなものが残っていないか探す。 火種くらい残っていないものか。
「ディーナ」
「何でしょうか?」
「この光る石版だが……本当に、落ちていたものか?」
「はい。 拾い物です」
これまた嘘に決まっている。
緊急時なので適当な言い訳だ。
「そう、か……こんな"神石"は見たことがないがな」
「英雄様の最後の仕事らしいですから、珍しい鉱物があってもおかしくありませんよ」
「……ふむ、しかし、普通では考えられん光量だ」
改めてマジマジと通信用デバイスを観察する様子のブード。
“神石”についてはまだよく知らないのだが、ギリギリ勘違いしてくれているようなので良しとする。
「めぼしいものはありませんね。 先を急ぎましょう」
「いいや、少し休む」
疲れた様子もなさそうなブードが、こともなげに断言した。
何を悠長なことを。
「二次崩落も考えられますし、急いだ方がいいと思います」
「ワシが休むと言った」
「……疲れているようには見えませんよ?」
「うるさい。 お前の為でもあるんだぞ」
その時ブードは、思わぬ失言をしてしまったような渋い表情を見せた。
俺の方は首を傾げる。
「あの、何か理由があるなら教えて頂きたいです」
「…………」
「そろそろ置いていきますよ?」
後で不敬罪にでも問われそうだが、場合が場合だった。
本気で部屋を出て行こうとしたところで、ブードはようやく観念する。
「鉱山内で動きすぎると、重い病気にかかりやすくなるのだ。 ワシの指揮したチームでも何人か体調を悪くした。 病を理由に逃げた奴もいたがな」
いちいち上から目線なのは気に入らないが、一応はこちらの身を案じての気遣いらしかった。
天使素体が鉱山病に罹患するとは思えないが……理由を提示された以上、固持するのも不自然だ。 俺は仕方なく手近な椅子に腰かけた。
ブードの方も、会話は終わりとばかりに古い椅子に腰を据え直す。
彼が足首を擦る度、造後二百年を超過している木造椅子が痛々しい軋みを上げた。
「――それで、何がいい?」
不意に、なぜかうんざりした態度で口を開いたブード。
話が見えずに首を捻ると、彼はすぐに声を荒げた。
「ワシも貴族の端くれだ、さっさと欲しいものを言え!」
どうやら助けたことによる謝礼の話らしかった。
だが、彼が何をイライラしているのかはさっぱり分からない。
「特に必要ありません。 ただの人命救助です」
「嘘を吐くんじゃない! ワシを助けた手腕と、連れにはあの姉妹。 お前も探索者なのだろう? 報酬目的以外で貴族を助けるわけがあるまいっ!」
彼はフロアに響くほどの大声を上げて、手前の机を強く叩いた。 旧いホコリが舞い上がり、カビ臭い匂いが充満する。
この人、どこまで人間不信なんだよ……少し見直し始めていたのだが、これでは最初の印象へ逆戻りだ。
「ワシを毛嫌いしていたのは分かっておった。 助けたのだって『仕方なく』だろう? その上で対価を求めないはずがない。 まったくどいつもこいつも! ワシの言うことさえ聞いておけば、奴らだって…………クソッ、さっさと要求を言え、偽善者めっ!」
完全に悪いスイッチが入ったようだ。 唾を飛ばし、青筋を立てて捲し立てる。
本当に面倒な人だ……。
「……今、面倒だと思ったな?」
うっ、と首が引けるのを自覚する。
顔に出ていたのか、注意していたのに容易に感情を言い当てられたのはさすがにショックだ。
「ふん、そうか。 思えばぽんと金貨を出すような娘だ、金には困っていないな……だったら、当ててやろう」
ブードは、今度は勝ち誇ったような笑みを浮かべて、ことさら軽く言いのけた。
「お前が欲しいのは、"無関心"だ」
それは、意図したものではないだろうが、確かに突き刺さる言葉だった。
“無関心”。
自分の存在を意識しないでという願い。
確かに、大いに心当たりがある。
心がざわつきを抑え込もうとするが、この野郎は「それみたことか」と調子付き、次々言葉を吐いてきた。
呪詛のように。
「お前は、人と関わり合いたくないから、要求をしないのだ。 騙されたか何かして、酷い目に遭ったな? 人が好きではないのだろう? 墓への供物も "仕方なく"だ」
「ちがうっ!」
ほとんど反射的に立ち上がって言い返した。
ダオの気持ちまでバカにされたような気がして、ムカッ腹が立ったのだ。
対してブードは、俺の反応を愉しむように否定の言葉を重ね続ける。
「ようやく反論か。 図星だから焦ったな」
「ちがう」
「お前は面倒事が避けたいだけの半端者だ」
「やめろ」
「心の底では、常に自分を守ることが最優先か」
まるで見てきたかのように、ザクザクと致命傷レベルの発言を繰り返す奴だった。
悪意の言葉に噎せるように感情が高ぶり、アッと言う間に煮えたぎる。
ブチ切れるのはすぐだった。
「――分かったよ、認めてやる。 俺は未だに、心のどこかで人が怖い。 懐疑の視線に晒されると、足が竦むよ」
一歩踏み出し、煽り返すように言い放ってやると、ブードが薄く笑って返した。
更なる誹謗中傷が吐き出されるのに先んじて、俺は叫ぶ。
「三年前! 高校デビューの春! クラス一番の美少女に、告白された時だ!」
ブードが訝しむ。
知らん。
更に踏み出す。
「そんなもん一発オッケーだよなぁ!? でも冴えないオタクが美少女に告られること自体、現実世界じゃ有り得ない! もちろんタチの悪い悪戯、“ウソ告”って奴だよ! すっかり騙されて、舞い上がって、声裏返して、そりゃあ滑稽だっただろう、面白おかしかっただろうよ!? でもそれだけだったら……まだ、許せたよ。 頭に来るけど、仲直りだって出来たかもしれない」
止まらない。
止められない。
毒の記憶が、慟哭となって坑道の闇を震わせる。
「でも、けれど、あいつらは、あいつらはなあああああっ!
その“ウソ告”の一部始終を、
動画にして、
投稿しやがったんだよっ!!!」
その事実を知った時。 アップされた動画に流れるコメントを目にした時。 本当に、現象として、目の前が真っ暗になった。 同時に去来した感覚は、とても言葉で表せるものではない。 この世の終わりみたいに悲鳴を上げながら、胃の中のものを全てその場にぶちまけ、そのまま布団にもぐりこみ、動けなくなった。 人の目という目が恐ろしくて恐ろしくて仕方がなかった。 自殺という選択をしなかったのは、ただ極度に混乱し、その選択を見過ごしていただけに過ぎない。 やがては衰弱死しかけ、目を覚ましたのは病院のベッドの上だ。 麻薬中毒患者みたいに全身拘束されていた。 何をしたのかは覚えていない。
リハビリには時間を要した。 当たり前だろう、視界に人間が現れたが最後、発狂しながら逃走を試みるのだ。 俺が医者なら二秒で匙を投げる。 ずっと見捨てないでいてくれた両親にはいくら感謝したって足りやしない。
自殺の方法を模索する入院生活の中、俺を救ってくれたのは、ゲームやアニメ、マンガやラノベといったサブカル全般の“主人公”たちだった。 世界のために、仲間のために、たった一人の女の子のために、命を張って、勇気を奮い立たせて、絶望的な戦いに挑み続ける奴らだった。
ドハマりした。 憧れた。 涙した。 生きていくためのエネルギーをもらった。 今にして思えば、それもリハビリの一環だったのだと思う。
それなりに人と会話できるくらいに快復したある日、たんまりと見舞金を持って姿を現したのは、俺を“ウソ告”にハメて動画をアップしたと言う主犯の男。 いい加減顔も覚えていなかったが、イケメンだった。
今更どうでもよかった。 その頃はラノベの消化の方が忙しくいこともあり、どんな対応をしたのかもよく覚えていない。 覚えていないが……とりあえず、イケメンはそれなりに嫌いになったと思う。
――全ての毒を吐き散らかして、俺はようやっと冷静さを取り戻した。
涙は止まらなかったが、以前よりダメージは少ない。 きっとこの世界で出来た友達のお陰だろう。
……冷静になったら、それはそれで情けなくて新たな涙が溢れ出す。
こんな生活習慣病特盛つゆだくみたいなおっさん相手に、何を熱くなってるんだ、俺……。
強い感情には他愛もなっくコロッと中てられ、影響されて、感情そのままにガチなリアクションをしてしまう。
もうコレで何度目になるだろう、実に難儀な天使である。 異世界まで来て、黒歴史を増築してどうすると言うのか……。
見ればブードは呆気にとられた顔のままで固まっていた。
既に手遅れだが、この人のイラつきも何かしらトラウマが原因なのではないかと思う。 何となくだが、俺はそう察っした。
「……大変失礼しました」
背筋を伸ばし、頭を下げた。
そして伝える。 そうした方がいいと思った。
「頭ごなしに命令されると、気分が悪いです。 でも、ちゃんと理由を説明して頂ければ、理解できます。 理解させて下さい」
短い休憩は、それで終わり。
俺は物言わぬ彼を背負い直して、階層間通路へ向かって駆け出した。
「泣かせるつもりはなかった」
道中、遠慮がちな謝罪の声を耳にした。
バカめ。 反省したからって、セクハラも暴言も取り消しにはしてやらん。
……心なしか、背中が少し軽くなったような気はする。