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限定天使物語  作者: 憂い帯
底辺天使 転落編
11/20

011:痛みを知った涙の数が ―― 心を繋ぐ道になる

「ちょっとだけ水足して」

「ん」

「あ、ごめん少し火力上げて」

「ん」


 コトコト煮込まれる即席土鍋を長いスプーンで掻き混ぜながら、的確に指示を飛ばすスズル姐。 ご指示の通りに中空からは水が注がれ、鍋の下では火種もなしに炎の輪っかが揺らめいている。 ガス水道の二役を同時にこなす妹は、鍋の姿をちらりともせず倒木に腰かけ読書中だ。 こっちはこっちで頭上に小さな火球を浮かばせて、ブックライトとして活用している。 この世界において、術式がいかに人の生活に浸透しているのかがよく分かる一幕である。


「こんなもんかな。 ディーナ、器よこしな」

「ほいきた」


 それまで手ぬぐいで磨いていたお茶碗くらいの器を手渡す。

 なんとこの器も、鍋も、スプーンも、そこらの土からスズル姐が造ったものだ。 食材以外全部術式!


「ほら、おまけしといたよ。 熱いから気をつけて」

「ありがとう!」


 具だくさんに盛られたスープをスプーンと一緒に受け取った。 正体不明な肉と野草がごった煮された、複雑な香りが鼻孔を満たす。 大自然の青臭さに慣れた鼻にはとにかく刺激的な香りだ。


「も、もう食べていい?」

「探索者に飯に流儀なんかあるわけないでしょ、好きに食べな」

「いただきます!」


 がっついた。 もちろんコンビニ弁当みたいに安定した風味が出ているわけではない。 謎の肉は筋張っていたし、変わった形の野草は結構苦味が強かった。 それであっても今日まで食べたどんな料理よりも旨かった! 世界で一番美味かった! 思わず一気に平らげて、天にも昇る心地でぷはぁ~と熱い息を吐く。


「気に入った?」

「最っ高!」

「マジ? ……ちょっと煮込み足りなくない?」

「だがそれがいい!」

「ホントに変な子だね。 おかわりは?」

「所望する!」

「お行儀が悪いですね、美人のくせに」


 ……冷たいツッコミを頂いたので、二杯目からはややペースを落として味わった。 イマリも読書を中断し、ちまちまとスープを口に運んでいるようだ。 見た目の通り小食らしい。

 スズル姐を真ん中に、三人並んでの慎ましやかな夕餉である。 思えば人と一緒に食事するのも三年ぶりだ。 長らく噛み締めてきた一人飯の寂しさを、ここぞとばかりに取り返そうというわけではないが……決してないが! 俺は少しだけスプーンを休めて雑談に興じてみることにした。 いくぶん以上に緊張したが、それを押しても踏み込みたい気分が込み上げていたのだ。


「スズル姐ってさ、よく料理するの?」

「ん? そうだね、する方かな。 男連中の作る飯って臭い上にマズいから、自分で作った方が多少はマシかな、ってね。 待機中なんかに結構試行錯誤してるよ。 ちなみにこの鍋は成功してる方」

「へぇ……他には? 休みの日とか何してるの?」

「何よ急に、質問ばっかり」

「これまで質問責めだったから、そのお返し」

「うわ、うざっ……休みねぇ。 自分のために時間使うことなんて少ないけど、今言ったように料理とか、あと裁縫とか?」

「意外にも女子力たけぇ!」

「地味に喧嘩売ってない? あ、でも最近見た舞台はすごかったな」

「舞台? 劇場とかでやるやつ?」

「そ。 汚れ仕事請け負うと、ギルドが歌劇のチケットくれることがあるんだよ。 なかなか取れるもんじゃないから観に行くんだけど、やっぱり本物の役者は見応えあるね」


 言って頬を緩めるスズル姐。 意外な一面が見られて得した気分になる。

 歌劇か……オペラとか、そういうのだろうか? 異世界だとか無関係に俺にとっては未知の世界だ。


「今度見てみたいかも」

「お、興味ある? でもさ、アンタならむしろ舞台に立つ側じゃない?」

「うへぇ、勘弁してよ。 注目されるのって大の苦手なんだから」

「その顔で言うコト? ……まあ確かに、アンタ胸はあるけど色気はないもんね」

「そだね」

「いやそこはキレなって。 女子として」

「んなこと言われても、最近急にこんな身体になったもんだからさー」

「――どうやって?」


 声のトーンがマジになった。

 据わった視線が俺の胸部に降り注ぎ、若干の寒気を覚える。

 恰好は大胆なくせに、気にしてたのかよ……。


「さ、サイズに貴賤の差はないと思うんだ」

「ご託はいい」

「スズル姐はスレンダーの美しさを見事に体現してると思うよ!」

「余裕がある奴の台詞だね。 心と、胸に」


 パキッ。


 絶望的な会話を中断したのは、木の枝が踏みつけられる音だった。

 この空気に割って入れるような人類はそうそういない。 ばっちり目線が合ったのはやはりと言うか、大人サイズの灰色狼。 森の中から現れたウェロウは気合を入れて牙を剥き、眼光鋭く唸っちゃいるが、さすがに相手が悪かった。 姉は心底面倒くさそうに溜息を吐き、妹は欠伸を噛み殺し、俺につけては感謝すらしている始末である。


「そういや、そろそろコイツらの好きな時間だったっけ」


 スズル姐は一息に残りのスープをかっ込むと、口元をぐいっと拭って立ち上がった。 行動がいちいち豪快だ。 そのまま軽く伸びをして脇の下のクオリティを誇示した後、傍らの荷物から棒切れを一本取り出す。


「イマリ」


 声をかける前に火が灯った。

 ウェロウは炎に怯えたように首を竦め、森の中へと引き返す。 その姿は瞬く間にも闇に紛れた。


「うわ、陽動とか生意気」

「え? 逃げたんじゃなくて?」

「ウェロウってのは本来賢いんだよ。 あんまり知られてないけどね」


 言って腰元からシャラリとナイフを抜き放つ。


「んじゃ、アタシはちょっと回ってくる。 ついでに半分くらい減らして来るよ。 ディーナ、イマリのこと守ってあげてね」


 苛つき声で「逆でしょ」と抗議する妹を一瞥もせず、スズル姐は獣の俊足で森の中へと姿を消した。



 ……スズル姐がいなくなると、体感温度が二度ほど下がるような気がする。

 有り体に言うと、気まずい。 一方通行で忌み嫌われている相手と隣り合って放逐されるのは拷問にも等しい苦行だ。

 いつ飛び出すか分からない罵詈雑言に戦々恐々としつつも、俺はこっそりとイマリの様子を窺ってみた。 もう食事はいいのか、巫女少女は倒木の上で両膝を抱え、なんとも子供じみた格好で読書に戻っている。


 魔法少女が読んでいる本とくればゴテゴテに装飾されたハードカバーしか思い浮かばないが、意外にもその手にあるのは文庫本。 カバーや帯はなくとも、他は日本の書店に並んでいて違和感ない出来栄えだった。 製紙技術が高いのも、恐らくは術式の恩恵だろう。 タイトルは……なになに「妖精の見せる夢」? 夢見悪そう。

 それはさておき、コレは一応伝えておくべきか。


「イマリ」


 声をかけた瞬間、ビクゥッと気の毒になるくらい全身を震撼させる三つ編み巫女。

 意外な反応だ。 どうやら俺と二人になって緊張していたらしい。 今更緊張する要素ある?


「なっ、なな、何か用ですか?」 

「うん、何というか……読書中悪いとは思ったんだけどさ」

「そうですよっ、読書中なんです私は! 見て分かりませんか、美人のクセに!」

「上下逆さまなんだけど」


 イマリは五秒ほど顔面凍結したが、結局言い訳の作成に失敗したようで、バツが悪そうに文庫本を懐に仕舞いこんだ。

 何に緊張しているのやらさっぱりわからん……と思っていたら、その回答は質問になってやってきた。


「聞きてもいいですか」


 震える声音は裏返る手前。

 視線は正面を見据えたまま微動だにしない。

 何かしらの決意を持っているものと窺えて、こっちまで緊張してしまう。


「そんな畏まらなくていいよ、何でも聞いて」

「じゃあ、聞きます。 あなたの『生き方』……あれって、本気ですか?」

「ああ……アレね」


 つい苦笑が漏れてしまった。

 ひっぱたかれた頬を擦りながら思い返すも、あんな修羅場みたいなシーンの中に居たなんて今でも信じられない。


「一応、本気。 でもよく考えたらそんなカッコイイものじゃなくてさ。 単純に、目の前で誰かを見殺しにしちゃったら、その瞬間に俺の……私の心が死ぬんだよ。 だから正確には『心の防衛本能に逆らえない』、って所かな」


 言葉にしてみると病的にヤバいポリシーである。 地上生活はまだ二日目だが、この天使素体でなければ二度は死んでる。 これも主人公属性に被爆しすぎた結果だろう、我ながら影響を受け過ぎだ。


「同じじゃないですか。 そんなの、命がいくつあっても足りません。 いいように利用されて、振り回されて、死ぬまで苦労しますよ?」


 的確な暗示やめて欲しい。 当たると怖い。

 だがまあ、それでも


「後悔はしない」


 俺は心からの気持ちをそのまま言葉に表した。


 この天使はこれでいい。

 そうする責任があるのだ。


 ――誰しもがたった一つを等しく持ち合わせる『命』。 それを一度失って、神様の気まぐれ一つで帳消しにされてしまったために、俺は今、ここにいる。 転生モノ、なんて安っぽいワードに感化され、人生の延長戦みたいに軽い認識でいたこれまでの自分が滑稽すぎて笑えてくる。 命の重さも知らない元ニートのクソガキが、新しい世界で、セカンドライフを満喫する? アホくさ。 もっと他に救われるべき人間はいくらでもいたはずだ。 どうして俺みたいな破滅的バカにそんなチャンスを――


 奥歯を噛み締めて必死に思考を停止した。


 すぐこれだ。 偉い人も言っただろう、責任と責任感をはき違えてはならない。

 訂正訂正、責任を感じること自体が思い上がりだ。


 無意味極まる自責の念はさておいて、スズル姐のお陰でこの世界の死生観に少しだけ触れることが出来た。

 今持っている命の重さを実感した。

 俺は学習したのだ。


 なのでこれは適切な方針の転換である。

 ・旧:異世界『レア』で冒険の旅をする。

 ・新:異世界『レア』で人の命を助ける。

 これだけだ。 天使のお仕事とも被っているから都合もいい。


「……変な人です。 死ぬかもしれないって警告してるのに、覚悟を決めた顔する人、初めて見ました」


 いつの間にかこちらに顔を向けていたイマリは、半分呆れ顔だった。

 けれどその声は、俺が初めて聞く優しい響きを帯びていた。

 本当に、今になって初めてこの子の声を聞けたみたいで胸の奥が温かくなる。


「それなら、スズル姉も助けてくれるんですか?」

「もちろん! 差し当たっては一番助けたい人だね」

「スズル姉、怖いですよ」

「まあ、周りの席が空くくらいには怖いかも」

「そういう意味じゃありません」


 なぜだか、背筋がヒヤリとした。


「スズル姐って、ギルドからの評価がすごく高いんです。 面倒見がよくて、強いですから」

「そうだね、分かる気がする」

「でもしばらくすると、誰もが距離を取ります。 すぐ無茶するし、悪目立ちして、問題起こすんです」

「あー……あはは、それも分かる気がする」

「わざとです」


 原因が分かった。

 優しい声音は変わらないのに、儚い響きが滲んでいる。

 ……多分、疲弊しているんだと思う。 こんな小さな女の子から吐き出されるべき声ではない。


「この二年、実験都市ばかり回って来ました。 ちゃんと仕事をして、実績は上げてますけど、あちこちで物を壊して、騒ぎを起こして。 スズル姉は『自分はここにいる』って、アピールしてるみたい」

「アピールって……誰に対して?」


 イマリは一度息を吸い、しかし吐き出すのを怖れるように、ぐっと奥歯を噛み締めた。

 そのまま俯く彼女の様子を、俺は決心がつかなかったものと見る。


 躊躇われた言葉に、心当たりならあった。 口に出すべきか迷いはしたが、そこはこの天使である。 悲しみに暮れている女の子を前に、手札を隠すなんて真似はできっこない。


「"悪魔"に関係すること?」


 イマリが背筋を伸ばし、驚いたように顔を上げる。


「知ってたんですか?」

「事情は知らない。 でも、その言葉を聞いた時すごく怖かったから、関係してるんじゃないかと思って」


 あの瞬間の恐怖は忘れられない。

 世の中を達観しているような、いつも余裕のある立ち居振る舞いを見せるスズル姐だが、驚くほど沸点の低い『何か』を抱えている。 トリガーであるその"悪魔"が何なのか、まだ情報に疎い俺には想像する他ないが、重要なファクターであるのは間違いない。


「本気で関わるなら……友達を続けるなら、覚悟がいると思います」


 続く言葉は警告止まり。 どうやら教えてくれはしないらしい。

 ま、何があろうと今さら友達をやめるつもりはないわけだが。


「でも、それでも友達でいてくれるなら……スズル姉のこと、お願いします」

「妹公認!?」

「……私じゃ、いざという時置いて行かれちゃうから」


 茶化すんじゃなかった。

 また少し気まずくなったが、俺は頬を掻きながら「もちろん」と自信を付け足して答える。

 イマリが安堵の笑みを浮かべてくれたのが救いだ。


「それと……ごめんなさい」

「どしたぁっ!?」


 繋がりのない唐突な謝罪。 反射的に大声で問い返してしまった所、この巫女さんは心底嫌そうに口元を歪ませて視線を逸らした。 そうして「うぅ~」としばし呻いた後に、ぼそぼそと回答を口にする。


「……スズル姉が他の人の髪触ってるの、珍しくて、びっくりして……くやしかった、から」


 真っ赤になる顔を隠すように、小さな身体を丸めて縮こまるミニ巫女少女。

 髪って……ああ、ギルドでスズル姐にポニテを整えてもらった時か。

 なるほど、分かってきたぞ。 話を統合すと、イマリのこれまでのツン行動は、俺のことを心配してくれていたのが半分、姉との関係性への嫉妬が半分、というわけだ。


 今この瞬間までのこの子の態度の印象が、丸ごと一気に反転した。

 ヤバかった。 急激に愛しくなって、泣きそうになってしまう。


「だから、謝ります。 ……許してくれますか?」


 上目遣いでそんな台詞叩き付けられて、拒否する奴こそ悪魔である。


「許す! 許した! 姉妹愛に過失なし! ……うぅ、嬉しくて泣きそう」

「もう号泣してるじゃないですか」


 またハンカチを借りてしまった。

 自分のハンカチを持とうと、いい加減心に決めた瞬間だ。


「よく泣く人ですね」

「ぐす、……情けないとは思うけど、この性分は生まれつきっぽい」

「……あなたらしくて、私はいいと思います」


 くすりと笑ってから、イマリは大きく欠伸をした。


「さすがに疲れた?」

「ふぁ……はい。 少し気が抜けちゃいました、回ってきます」

「あー、そういえば二人ともそんなこと言って時々森の中に消えるよね。 休憩?」


 俺の素朴な疑問に、イマリが口元を引き攣らせる。

 この反応だけは相変わらずの据え置きだ。


「そうでした。 あなた……ディーナさんは、大丈夫なんですか?」

「へ? 何の話?」

「だから、その……おトイレ」

「――――――――――――ッ!?」


 まさに、電流が走るような衝撃だった。


 人ならば、誰しも催す生理現象。

 すっかり失念していたが、美少女でも例外ではない。 食えば出るのだ。 人だもの!


「ああ、あー……痛っ、アイタタタッタ、そういえばお腹の調子がっ!」

「もー、やっぱり我慢してたんですね。 じゃあ一緒に行きましょう」

「ご一緒にぃいいっ!?」

「一応は護衛ですから」


 そんな、「仲直りの証に」みたいな笑顔で手を出されたら、断ることなど出来やしない。


 無抵抗な天使は巫女少女の為すがまま、手を引かれて森の中へと踏み入った。

 浮遊する炎球に足元を照らされながら、"都合の良さそうな"場所を探すイマリ。

 森に潜む狼なんて怖くはないが、別カテゴリーの恐怖で冷や汗が止まらない。


「スズル姉はデリカシーがないから気付かなかったみたいですけど、今度から我慢しないで言って下さい」

「善処します」

「お願いしますね。 ……って、手ぶらで来ちゃったんですか?」

「え、まずかった?」

「もう、仕方ないですね。 私のを貸してあげます」


 イマリは得意げに言って、懐から謎の小袋を取り出し、俺に持たせた。

 それは夏祭りで浴衣姿の美少女が片手にぶら下げているくらいの小さな袋だった。 普通に生きていれば謎に包まれたまま生涯を終えるはずのオブジェクトを手にして、冷や汗が倍増する。


「あ、ここ良さそうですよ」


 何がどう良いのかまるで理解不能である。

 心の底から申し訳ないが、この時だけは可愛いドヤ顔がムカついて仕方がなかった。


「時に、イマリ嬢」

「どうしました?」

「できればその、『音』が聞こえないくらいの距離を下さい」



 ……しぶしぶ距離を取ってもらった。

 「思春期かよ」なんて心の声が聞こえてきそうだが、もうその辺は諦める。


 まずは、あくまで形だけ、アニメのそれっぽいシーンで見たポーズを取った。 ちなみに何も出やしないので、ズボンまでは降ろさない。 このアクションだけでも自害に相当する羞恥だったが、地獄の課題はまだ続く。

 俺は謎の小袋を手に、ゴクリと喉を鳴らした。

 この袋をつまびらかにする行為には、どれほどの勇気が要求されたことか……。 後ろめたさに魂までが震えたが、未使用のまま返却したらそれこそ変態扱いは避けられまい。 爆弾処理班さながらの気分で開封の儀に取り掛かる。


 ――それを感じ取った瞬間、俺は小袋なんぞほっぽり出して即座に駆け出していた。

 気付くことが出来たのは、さすが天使素体の学習能力だった。


 察知したのは空気の微弱な震動。

 二匹のウェロウがイマリを挟撃する位置で、前足を踏ん張っている。


 イマリは突っ立ったまま、大あくびをかました所だ。 気付いていない!


 ウェロウの咆哮が同時に放たれた。

 突如左右から響いた咆哮に、イマリの身体が震え上がる。


 その時、こちらはとっくにトップスピードにまで達していたが、このままではあと一歩だけ間に合わない。

 だから、間に合わせることにした。


 俺は脳内で特別な『ボタン』を意識し即座に押下――天使素体のギアを自発的に引き上げる。

 時間感覚が遅延し、世界が水の底に沈む錯覚。

 同時に視野が広がり、素体の全能力が向上する。

 焦っていた精神が平静を取り戻し、『間に合う』という計算結果に安堵した。


 この機能を、俺は『シフト』と名付けていた。


 恐らくはダメージを受けることが予測されるレベルの危険を検出した際、その状況を脱するため自動的に発動する天使素体の自己防衛機構であると思われる。 既に何度か発動し、今や自力で発動が可能になった。

 本来、天使素体は無休無補給で戦闘駆動し続ける宇宙戦争兵器だ。 俺の素体だって――まあポンコツながら、同じフォーマットであるということだ。 食糧も睡眠も必要とせず、あらゆる環境に適応し、状況を冷静に判断する。 ずいぶんと地味な部類のチートだが、お陰様で友人の妹を助けられるのだから文句はない。


 間に合った。


 二つの衝撃波にプレスされる直前、巫女少女の小さな体躯を掠め取るようにして倒れ込む。

 その直後、背後で重低音が爆発した。


 この時点で、俺は周囲のウェロウの数を正確に捉えている。 音響兵器をかましてくれた二体だけだ。 この二体はいずれも狡猾で、示し合わせたかのように既に距離を取り始めていた。 もちろん追いかけて始末したいが、イマリを一人にはできない。


「ディーナ良くやった!」


 スズル姐だ。 彼女は森の奥、木の上から矢のように現れて、逃れようとしていた一匹のウェロウを踏襲。 脊髄が粉砕される音がここまで聞こえた。


「任せるっ」


 声と同時に、俺に向かって肉厚のナイフが飛来。

 余裕でキャッチし、即座に投擲。

 二匹目も、その臓腑をぶちまけて森の中に転がった。


「イマリ、大丈夫?」


 脅威が消えたことを確認してから、俺は『シフト』を解除しイマリの様子を確かめた。


 音響兵器の被害は逃れられたが、さすがに間近であの轟音に晒されたせいか、軽いショック状態のようだ。

 そしてこのド底辺天使素体め、やや計算が甘かった。 イマリの小柄な身を包む巫女服、その左腕の袖部分が破れていたのだ。 大丈夫だとは思うが、一応外傷がないか確認した。


 途端にギョッとする。

 病的なほど白く細い左腕が、深い裂傷にまみれて


 ……いや、違う。

 傷ではない。 よく見ればタトゥーのような規則的な紋様だ。

 それはまるで腕に絡み付く蛇か、鎖であるかのように、手首から二の腕、その先まで――


「見ないでっ!」


 金切り声に近い叫びに、俺は畏れ慄いて手を引いた。




---




 夕餉の場所まで戻ってくると、スズル姐はイマリと一緒に、同じ倒木へと腰を下ろした。

 イマリはずっと身を縮み込ませたまま、嗚咽を漏らし続けている。 左腕を抱えるようにひた隠しにして。


「大丈夫だよ、イマリ。 相手はあのディーナなんだから、何も分かっちゃいないって」


 妹を優しく抱き寄せて、頭を撫で続けるスズル姐。

 そのすぐ傍で、このダメ堕天使はオロオロしたまま掛ける声すら見当たらない。


 あの紋様が何なのかは分からない。 それでもとにかくイマリを傷付けた。

 せっかく和解できたのに、仲良くなれる所だったのに……。


 不意に、スズル姐が俺に厳しい目線を向けて、ある一点を指差した。

 空いているイマリの片隣。


 正直、足が竦んだが……目が本気だ。

 逆らうこと(あた)わず、俺は小声で「ごめんね」をループ再生しながら姉妹の隣にそっと腰を降ろす。

 案の定、イマリが拒絶反応を示すが、スズル姐がなだめて丸め込んだ。


 そして何を思ったか、続けて彼女が顎でしゃくるのは――なんと三つ編み髪の頭頂部。

 それは無茶だと、無言のままポニーテールをぶんぶん振るが、向けられる視線が加速度的に険しさを増していく。

 結局、俺は激しくぐずられるのも覚悟して、妹の三つ編み髪を、心の限り優しく撫でた。 そこにスズル姐の手の平がそっと重ね合わされる。


 想像以上に柔らかな触感に、ドキリとさせられたのもつかの間のこと。

 トントントン、とタイミングを取って三度上下した指先の動きが、きっと彼女にとっての"きっかけ"だったのだろう。


「……久しぶりだからさ、母さんと違ったらごめんね」


 優しい囁きの後に流れ響いてきたのは、心安らぐそよ風のような歌声だった。





『 天使が守護する 四元(しげん)の世界

  四元が交わる 想いの世界


  叶わぬ 願いもあるでしょう

  実らぬ 想いもあるでしょう

  大切な人と 道を違える日も来るでしょう


  けれど忘れないで 傷ついた心を

  決して恐れないで その道の先を


  痛みを知った涙の数が 心を繋ぐ道になる 』





「なかなかのもんでしょ? アタシたちの母さん、歌手だったんだ……」


 声をかけられて、俺はようやく意識を取り戻した。

 美しい調べにすっかり聴き入ってしまっていたのだ。


 全身がザワザワとして、心臓が耳元にあるみたいにうるさかった。

 歌で心が震える感覚を、初めて知った。


「すごい……すごいよ、スズル姐」


 我ながらボキャブラリーのない感想だったが、それでいっぱいっぱいだった。

 もっと真面目に音楽を聴いて来るべきだったとガチで後悔が募る。


「そう、良かった……じゃあ、歌詞も覚えたよね?」

「………………はい?」

「上手く歌えたら、許してあげるってさ」

「聞いてねえよっ!?」


 数える程度の(ヒト)カラ経験しかない俺に、その振りは無茶が過ぎる。

 そうこうする内、どこから取り出したのか、スズル姐が伴奏っぽく葉笛を奏で始める。


 心の準備すらさせてくれない!?

 ああっ、くっそ! やればいいんだろうが! もう知らん、どうにでもなれだっ!!


 新作アニメのEDと今決めて、俺は震える歌声を伴奏に乗せたのだった。

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