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限定天使物語  作者: 憂い帯
底辺天使 転落編
10/20

010:異なる世界の命の価値 ―― 異世界常識非常識

 クルズの町を出発したのは、まだ陽も高い内だった。 初めてウェロウ襲撃を目の当たりにした南門を出て、向かうは廃村アルクス村。

 町から町へと移動する。 この行動フェイズだけでも冒険心が青天井に沸き立って、俺のテンションは晴れ渡る空より高く舞い上がっていた。

 友人とパーティーを組んでの旅路となれば、そのハッピーレベルは推して知るべし。 我知らず鼻息が荒くなる。

 港町の姿が後方へと遠のいていくのを認めるたびに、冒険活劇に接近していくような実感があった。


「悪いね、荷物持たせちゃって」

「構いませんよ、体力はある方です」


 自分の荷物とは別に、テントの入ったリュックを軽く背負い直して笑顔で返す。 やはりと言うか、アイテムボックスみたいな便利アイテムは存在せず、数歩前を行くスズルさんもそれなりに大きい荷物を肩にかけている。


「あとディーナ」

「はい」

「はい、じゃないでしょ? いい加減堅苦しいから敬語はやめな」


 場違いを指摘するような目線でもって指差しながらの注意を受けると、俺は背筋が伸びあがる思いがした。 いわゆる「タメ語」、「タメ口」に切り替えろというお達しだ。

 三年ぶりというブランクもあろうが、このプロセスは尋常ではないレベルで緊張する。 人との関係性が変化する偉大なる第一歩。 正直丁寧語で通した方が気が楽なのだが、あけっぴろげに砕けた態度がデフォルトの彼女を相手に、硬い口調は確か不自然極まりない。

 よしっ、やるぞっ、と俺は心中で気合を入れて意を決した。


「オッケー、わかったよ。 スズル……うーん、スズル(ねえ)?」

「何その呼び方!」


 スズル姐の傍ら、激烈なリアクションで振り返ったのは、言うまでもなく彼女の妹。 巫女少女イマリ嬢は三つ編みを逆立てる勢いで憤った。


「まだ会ったばっかりのくせに、気安すぎ! 失礼! 失礼美人!」


 相当に嫌われてしまったようで、ずっとこの調子だ。 できれば関係性を改善したいが、中二女子と仲良くなる方法論に心当たりなんてあるはずもなく、悲しくも無抵抗を貫いている。

 正直、この子は近くにいるだけで精神的になかなかしんどい。 せっかく地上で初めてできた友人の妹なので、無碍にはしたくないが……いや、やっぱりしんどい。


「イマリうるさい。 宿で休んでていいって、言ったでしょ」

「スズル姉はあたしがいなきゃダメなの!」

「ったく……付いてくるんならディーナに突っかかるんじゃないの。 “依頼主”だよ、この子」

「そっ……」


 「そんなの関係ない」とでも言い返したかったのだろうが、つい先刻探索者の仕事について弁舌をふるった手前、容易には否定できなかったようだ。 憤怒の巫女は悔しげに唸って押し黙った。


 ただ今話題に上った通り、俺はスズル姐に依頼を出していた。 内訳は、村までの護衛にお墓の保護に関する交渉を含めたパッケージ。 とにかく急ぎたい気持ちはあるが、冷静になってみればこのようにデリケートな問題を俺一人で対処できるとは思えない。 委託の判断は妥当だろう。 銀貨五枚を前払いの多寡(たか)についても良心価格と信じておく。 ……窓口を介していないので信じるしかないわけだが。

 ちなみにこの選択にはリスクがあり、ある程度覚悟は完了済みである。


「でもスズル姉」

「今度はなに?」


 食い下がる妹に、さすがに不機嫌になってきた様子の姉は顔を傾けすらしない。


「ギルド挟まないで依頼受けるの、実は禁止されてるよね?」

「出払ってる連中が悪いんでしょ」

「……勝手に離れたらハゲの人が困るんじゃないの?」

「すぐに援軍が到着するんだから、あのハゲなら巧く帳尻合わせるよ」

「だって、契約が……」

「期間契約ならとっくに切れてる。 頼み込まれて残ってたってだけ」

「…………」


 ぐぅの音も出ない妹は意気消沈。

 そのまますぐに俺の方を振り返り、またも憎らしげに睨まれた。 俺は悪くねぇ。


「あ、契約で思い出した。 ディーナ、アンタの術式適性教えといてよ。 ルールなんだよね」

「術式?」

「そ。 風術だと少し助かるかな」

「使えないけど?」

「「……はぁあ?」」


 息ぴったり、姉妹揃って足を止めた。 振り返った両者は「あの作画崩壊アニメが映画化決定」とでも聞いたくらいに露骨な不審顔である。 またこのパターンかとげんなりするが、嘘ついたって確実にバレる。

 これが覚悟しておいたリスクだ。 常識も非常識も判断つかない現状で回避は不可能に近い。


「もう世間知らずは自覚してるから、煮るなり焼くなり好きにしてよ」


 俺は早々に開き直って肩を竦めた。

 どうせ誤魔化しきれないのなら、さっさと降参しておく方が気が楽というもの。


「スズル姉、この人って……」

「だね。 貴族様って風には見えないし、身体に変わった特徴もなし。 加えて常識もないならもう決定でしょ、この子は()から来たんだよ」


 出てくる単語の理由づけが片っ端から分からない。 仲間外れにされたみたい気分が悪かった。

 やや憮然とする俺にスズル姐が「ごめんごめん」とヒラヒラ手を振り、ネタバレよろしく語り出す。


「ここで言う『外』って言うのは、人類の生息圏の外のこと」

「生息圏て、また大げさな」

「実際大げさな問題なの。 この東の大陸、そこの森から南に人間がいないって言えば信じる?」

「……はぁあ?」


 今度は俺の方が間抜けな声を返す番だった。

 右手に広がる森林地帯へと目を向け……思う所があって背筋が急に寒くなる。

 まさかと思い、自分の荷物から『東の大陸地図』を取り出し広げた。


 港町マデイドを中心に、四つしか町の名前の記載されていない『東の大陸地図』。

 ……いや、でも、マジで? こんな縮尺で、『大陸地図』?


「つかぬことおうかがいしますけれども……今の世界人口って、いかほど?」


 回答をよこしてくれたのは妹の方だった。


「本当に知らないんですか? 二年前の調べで、約百万人ですよ」

「ひゃっ!?」


 間抜けな声が擦れて消えた。


 百万人?

 世界人口(・・・・)が、たったの百万人(・・・)

 そこらの大都市未満じゃねぇか!


 呆然とする俺に対し、スズル姐が説明を引き継ぐ。


「この大陸なら港町マデイドが基幹都市。 大陸中央へ向かって一番突出してるのが最前線都市レンザルク。 ここからでも五日で着くね。 防衛が安定しない、例えばクルズなんかは分かり易い実験都市。 あ、それと去年に西の大陸で最前線都市が落ちたから、今の人口はもっと減ってるかも」


 当たり前のように語られる終末さながらの世界情勢に、俺は眩暈すら覚えた。

 予想だにしない現実だ。 天使サイドはこの窮状を認識しているのか? そんな空気じゃなかったぞ。

 惑星丸ごとエイリアンから護っても、地上じゃ人類滅亡してましたとか、シャレにならん!


 動揺しっぱなしな天使の様子に、姉妹は珍獣でも発見したような複雑な表情。 その視線はかなり痛いが、こんな情報ぶつけられたらそうそう心穏やかではいられない。


「ディーナ、ショック受けてるトコ悪いけどさ、もしホントに『外』に人類の生息域があるなら教えてくれない? ギルドや教会に報告しなきゃいけないんだよね」


 気遣いを含んだスズル姐の問い掛けに、鈍化した頭を苦労して再回転させる。


 ……そうだよな。 もし人類生息圏が分断されている状態なら、協力関係を築く必要がある。

 でもこれ、どう答えればいい?

 かなりシビアな問題だ、適当な回答は出来ない。 絶対にしちゃいけない。

 まさか「昨日空から降ってきた天使なので分かりません」なんてアホみたいな事実を告白するわけにもいくまい。 ソルとの約束も破ってしまうことになる。


「ひょっとしてさ……口止めされてる?」


 次いだ問い掛けに、俺はまともに狼狽した。 一部は完全に図星だったのだ。

 もちろん彼女が心配しているような『口止め』とは意味が異なる。 異なるが……確かに、この場を凌ぎ切るには悪くない回答かもしれない。

 俺は、乾いた唾を一度呑み込み、一度だけ小さく首肯した。

 スズル姐がこちらの真意を測るように視線を細める……ちょっと怖い。


「そう……なら、仕方ないね」

「スズル姉っ!」

「嘘吐いてるようには思えない。 事情があるんだよ、この場は許してやりな」


 無論、この妹が許容するはずもなかったが、スズル姐がげん骨一つで抑え込んだ。

 怨念を燃やして歯ぎしりする巫女の視線に耐えながら、俺は次にリオからの通信があった時、この件を議題にしようとしっかり心に書き留めた。



---



 その後一時間もしない内に足場の悪い旧道に入り、小さい休憩を挟みながら夕方まで歩き通した。

 道中においてスズル姐には地上の様々な情報を教えてもらい、情報格差がかなり埋まった感がある。 これには本当に助かったので、感謝してもしきれない。


 この世界『レア』の現状だが、人類は東西南北の各大陸に生存領域をどうにか確保している状態だ。 天使の拠点があるのは西の大陸、神の膝元たる神都リスタナリア。 この地上で俺が唯一近づいちゃいけない場所だな。

 人類の生存領域拡張を掲げた事業を、総じて『失地回復計画』と呼称する。 実験都市がその最たるものであるのは名称からも明らかだが、驚いたのはあの港町クルズ。 なんと着工からたった一ヵ月で完成に漕ぎ着けたらしい。 スズル姐曰く「優秀な地術師が数人寄れば、半日で砦が一つ出来上がる」そうだ。 地術パねぇ! 全属中最高に地味で不遇だと思っていたが、撤回させて頂きます。


 地術もそうだが、術式についての話も興味深かった。

 土水火風の四属性が存在し、普通人は誰でも何かしらの術式を扱える。 子供時分は教会で、望む者は引き続き修練校でその力を伸ばすのが一般的と言う。 国語や算数の隣に術式という科目が並ぶのか……ちょっと想像がつかない。

 術式は、大気中に存在する『神素』――俺のアニメ・マンガ知識で言う「マナ」とか「エーテル」の類だと思う――を具現化して行使するタイプと、肉体的な力として行使するタイプがある。 イマリは前者である『術師』、スズル姐は後者で『加護者』と呼ばれ、分別される。


 この『神素』だが、俺の考えでは天使サイドで『融素』と呼ばれる大気と同じものだろうと思う。 あちらでは人の生命維持に必要となる大気と聞いたが、話を聞く限り地上ではそのように認識されていない。 この部分の齟齬も気になったので、これまた次の機会にリオに確認してみようと追加で記憶に留め置いた。


 この半日でかなりの疑問は解消されたが、いつまでも友人を辞書みたいに使うのも気が引けたので、質問責めは切り上げることにした。 教会が本の貸し出しをしていると聞いたので、他の知識はそちらで学ぶことを予定に組み込む。 結構タスクが増えてきたが、天使素体は記憶力も優秀なので心配無用。



 空が夕暮れに差しかかる頃合いになると、先頭を行くスズル姐が足を止めた。


「今日はこの辺で野営にしよっか」

「賛成」


 待っていましたとばかりに同意の声を返す。

 もちろん疲労が溜まったわけではない。 この天使素体は、三日三晩全力疾走しようとも疲労を感じることはないだろう。 休みが必要なのはこんなプチチート天使ではない。

 振り返る。

 十歩ほど遅れながらついてくるのは、ヨロヨロと左右にふらつく巫女服姿。 術師イマリは銀杖をそのまま杖にして、腰を痛めたご老体のように息を切らして今にも倒れ込みそうだ。


「……あ、あたし、まだ平気だもん……」


 杖を頼る小さな両手をプルプルと震わせながら、よくもまあ強がれるものである。 そのまま二歩でも進んだら、巫女服の重みに潰されそうだ。

 予感が的中したわけでもないが、イマリは次の一歩でペタンと女の子座りになった。 既に限界だったらしい。


「イマリさぁ、やっぱ宿で休んでた方が良かったんじゃない?」

「すぐそうやってすぐ置いてこうとする。 絶対嫌だからね! 置いて行ったら本気で怒るからねっ!」


 よほどお姉さんにご執心なのか、イマリは疲弊を押して必死に声を張り上げた。 これで周囲の雑草が煙を上げていなければ可愛いシスコン娘なのだが……。

 対するスズル姐は、深く溜息を洩らして呆れ顔。


「イマリ、ギルドじゃいつも言われてるけど、ホントにどっかの最前線に腰据えたら? そもそも単独行動が売りのアタシとじゃ、相性悪いって」

「……そんなの知らない。 あたしは、スズル姉と一緒にいるの!」

「聞き分け悪いんだから。 アンタそれでも今年の英雄候補?」

「何それカッケー!」


 邪魔したくない家族の会話ではあったが、聞き逃せない燃えワードに思わず反応してしまった。


 だから多分、俺が悪い。


「ははっ、すごいでしょ? アタシの自慢の妹だからね。 『イマリの命は町一つ分の命より重い』って、教会の老人連中まで認めてる」

「うわぁ……でもそれはちょっと、表現としてどうかと」

「そう? 人の命が平等じゃない世の中だよ」

「ん? 人の命は平等だよね?」


 別に他意があったわけではない。

 ごく普通の疑問だったと思うが、予想に反してスズル姐の表情が静止した。


「何、言ってんの? 人の命は平等じゃないでしょ」

「へ……? いやいや、さすがに平等でしょ」


 思いがけない平行線。 いくらなんでも容認できず、俺は彼女に対して初めて自分の意見を固持する。

 スズル姐の黒目勝ちな双眸が、こちらを見据えて訝しむ。


「ディーナさ、アンタは人を助けられるくらいには強いよね?」

「まあ……普通の人よりは、強いと思う」

「それってさ、アンタが死ぬと、助けられる人が減るってことでしょ?」


 返答に詰まった。

 ひどく乱暴な理屈だったが、その理由は割とすぐに思い当たる。

 狂った獣が蔓延る世界に弱者のみが残った所で、そこにまともな未来はない。


 スズル姐の言い分は恐らく正しい。 この世界では常識なのかもしれない。

 だが、そんな理屈は泣いている女の子を助けるのに百歩足りない。

 沸き上がる対抗心を燃料に、俺は頭を捻って反論を捻り出す。


「……でも、助けた人がまた他の人を助けてくれるかもしれない」

「それは言い訳の常套句。 助けた奴が未来永劫善人強者だって言う勝手な決めつけ。 あともうひとつ、未来に役立つことが判ってる人間は、そもそも助けなきゃならない状況に陥らせない。 これは大人の大事な仕事」


 瞬く間に圧倒された。

 まるで準備しておいたような綺麗な言葉の羅列――その中に、感じ取ってしまう。 恐らく彼女は、これまでも繰り返し、同じ説得を誰かに向けて聞かせてきたのだ。

 それを思ったが最後、胸が冷たい軋みを上げた。

 更に追い打ちをかけるように、スズル姐は深い森を横目に見やって、学生時代の思い出を語るような軽口で語り始める。


「しばらく前、この森に威力偵察に出たことがあったんだよ。 アタシを含めて八人のパーティーだった。 もうすぐ二つ名持ちになるって言うベテランも一緒だったんだけど、経験積ませるはずだったド新人がイキってさ。 陣形崩して突っ込んで、案の定囲まれたの。 で、そのベテランが無理にフォローに入って、足をやられて、あっという間に八つくらいの肉片になったよ。 『俺は仲間を殺してでも生き残る』とか、口癖みたいに吹いてたクセに、バカだよね。 あとそのド新人もその場で腰抜かして死んだ。 そっくりな死にざまでさ、コイツもバカ。 一人の探索者が死ぬと普通人の死者が百人増えるって言われてるのに、どうして人類の足引っ張るんだろうね?」


 全身が震え上がった。

 堪らず荷物を取り落して、自身の身体を抱きしめる。


「こんな話で脅えてどうすんのよ……。 説教なんてガラじゃないけど、人の命の重さくらいはしっかり量れって話。 自分の命の面倒見られないバカは助けなくていいの、簡単でしょ?」


 言葉だけは、子供に理屈を言い聞かせるように優しい響きを帯びていた。

 こちらを見据える彼女の瞳は「早く折れろ」と苛立たしく責め立てる。


 事実、俺は自分がいかに浅はかで、甘い考えをしていたのかを思い知っていた。


 だから折れるべきだった。


 折れるべきなのに、この天使は底抜けのバカだった。


「……それでも、助けたい」


 胸倉を掴まれた。

 イマリが「やめて」と涙声を上げるが、スズル姐は俺から視線を動かすことなく「黙ってろ」と切って捨てる。


 剣呑とした空気が場を満たす。

 彼女が凄んだ表情は、比喩なしに竦み上がるほどに恐ろしかった。 それこそ、首筋を狙って噛み千切ろうとする獣のよう。 事実唸るような声が、バカな天使を追い詰める。


「イラつかせんじゃないよ。 アンタがどんな平和ボケした世の中で育ったのかは知らないけど、そんな甘い考えはここじゃゴミクズ以下だ。 死にたくないなら、今すぐこの場で改めな」

「…………できない」


 ――脳が揺れた。

 強烈なビンタを喰らったのだと理解したのは数秒も後だ。


 脅すように揺さぶられる。

 鼻がぶつかるほど間近で睨みつけられる。


 俺はその時になって初めて、自分が泣いていないことに気付いた。


 だって……見えるのだ。


 怒りに震える瞳の奥で、スズル姐の優しい気持ちが揺れている。

 「お願いだから死なないで」って、涙をぼろぼろ流して懇願している。


 この瞳こそ助けてあげたい。

 ……けれど、その答えが見つからない。



 どれくらいの間その視線と向き合っていただろう、ふとした時にスズル姐が諦めに似た息を吐いた。


「案外強情なんだね……自分でおかしいこと言ってるのは、分かる?」

「……だと思う」

「意地張ってる?」

「違う」

「誰かへの義理立て?」

「違う」

「アンタの生き方?」


 そこでまた返答に詰まった。

 そんな風に考えたことは一度としてなかったが、心の奥底、的確な部分を撃ち抜かれたような感覚があったのは確かだ。


「そんな大層なものじゃないけど……一番、近いかもしれない」


 あやふやな感情をどうにか言葉の形にすると、スズル姐は視線を外し、俺を解放してくれた。

 そうして、それまでの剣呑さが嘘だったように明るく笑ってみせる。


「あーもう、負けた負けた。 まったく大したタマだ、せいぜい選択を間違えないよう気を付けなよ? 気が向いたら応援くらいはしてあげる」


 両手を上げて捲し立てたと思ったら、今度は頬を優しく撫でて「ごめん、痛かったでしょ」と微笑みかけるスズル姐。

 いつもの笑顔に戻る前、彼女の表情が一瞬だけひどく歪んだのをよく覚えている。


 痛ましいような……悔しがるような。



 ――見たくなかったものを見てしまったような。


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