最後の夢
「今日からよろしく、八津」
「―――はい」
それがあの方と主従の契りを結んでから、初めて交わした言葉。
始まりの瞬間。
優しい声。
優しくて、甘い人。
僕たちは人であって人であってはならない存在。
だけど。
僕たちはあの方が大好きだった。
何百年ものときを越えた今でもそれは変わらない。
今でも変わらず、心の奥底にある大事な想い。
僕を優しくさせてくれる想い。
だから、僕たちはあなたを守ろう。
己の命に代えてもあの方をお護りしよう。
「…はぁ……やめ、ろ…」
やめてくれ。
逃げてくれ。
逃げて、生き延びて。
僕たちを忘れるくらいに、幸せになって。
そんなことしなくていいから。
僕がするから。
だから、やめてくれ。
早く、逃げてよ。
「おねがぃ、だから…逃げてくださ…い…」
ここにいちゃいけない。
ちゃんと現実を見て。
「き、み…やめて」
腕を前へ伸ばす。
感覚の鈍い腕は重たくて、思うように動いてはくれない。
それでも懸命に腕を伸ばす。
力の限りにのばすこの手が、届くと信じたいのに、あの方に届かなくて悔しい。
無意識に噛み締めていた唇に更に力が入り、ぱくりと裂けた。
口の中に血の味がひろがっていく。
「はぁ…やめて…ください。そんなことしなくていい、ですから…僕がかわりにするから」
だから、もう、泣かないで。
やめてくれよ。
傷が痛む。
だけど、それよりも、もっと心のほうが痛い。
辛いんでしょう?
大切なものを失って、今ある現実を否定したいのでしょう?
だから、貴方は我を忘れても、涙を流し続けているのでしょう?
どくどくと流れる腹の血は止まらい。
押さえた手の隙間をかいくぐって、いまだなお溢れてくる。
「っ…ぁ」
こんな傷、どうってことない。
今はこんな傷にかまっていられない。
早く、やめさせなくては。
早く、一刻も早く追いついて、あの方を止めなくては。
あの方の手は汚してはいけない。
汚させないように、頑張るって決めたのに。
なんでいまこんなことになってるんだろう。
あの方の手は暖かいままであって欲しいんだ。
きれいで、暖かいままで。
「あってよ…。だめだよ、汚しちゃだめだよ」
喋るたびに傷が痛む。
血がべとりと付いて、手がぬるぬるとする。
ごぼりと、のどにせりあがってくるものがあった。
「っ……は…はぁ」
まだ僅かに感覚の残る左手で口元を拭う。
「だめなんだ、よ。だめ……」
意識がぼんやりとしてくる。
視界に霞がかかってきている。
体は限界を超えている。
そんなことは分かっている。
動くたびに体のあちこちが軋む。
ぎしぎしと、なる音が耳障りだ。
伸ばす手は、宙をつかむばかりで、自分が何をしているのかも分からなくなってくる。
嫌だ。
駄目だ。
まだ、死ねないんだ。
まだ、あの方を止められていないから。
必死で伸ばし続ける手は諦めないで、届くことを懸命に願っている。
だんだんと意識が朦朧としてきている。
あと少しだけだから。
僕の命よ、まだ散らないで。
あともう少しだけ、頑張って。
「君…」
空気に溶けていく声。
自分の声が聞こえない。
早く、行かないと。
間に合わなくなる。
「早く、止めないと……」
どくん。
心臓の音がひときわ大きく聞こえた。
背中に何かが刺さった。
がくりとひざの力が抜けて、背の何かに体重がかかる。
そしてよりいっそう、深く僕に食い込んでいく。
内から外へと熱い液体が堰を切って流れでていく。
刺さったとしか分からない。
痛みも何も感じられない。
ぼろぼろになりすぎた体は、もうほとんど感覚をなくしていたらしかった。
ずっと、深く貫かれているような感覚だけはかろうじて感じられた。
誰だ。
邪魔をしないで。
急がないと、いけないのに。
早くしないと、あともう少しで。
緩慢な動作で後方を顧みた。
そのかすれた視界に映ったのは、自分と瓜二つの。
だけど、別々の存在の。
「なんで……」
かすれた声が血とともに空気として零れ落ちた。
背を貫通させた刃が、ひきぬかれ、僕の体はバランスを失って、くずおれると思った。
だが、倒れることはなく、自分を刺した得物を右手にそいつに抱きとめられた。
「もう…いいんだよ。もう…」
微かにその声だけが聞こえていた。
目の前は、真っ暗だった。
それでも、早く行かなくてはと。
腕を動かそうとした。
だけど、動かない。
指の一本も動かせそうになかった。
もう、これまでか。
「まだ、なのに…」
抱きとめる腕に力がこもっているのが分かった。
「もう、いいんだよ。こんなにぼろぼろになったんだから、ゆっくりと目を閉じていいから…」
僕は言われた通りゆっくりと目を閉じた。
行かなくてはと思うのに。
早く止めなくてはと思うのに。
抗いがたい眠りがもうすぐそこまで迫ってきている。
僕を貫いたのに、どうしてそんなに優しい声でつぶやくの?
僕の動きを止めた腕で、僕を壊した腕で、どうして優しく壊れた体を抱きしめるの?
僕が僕の意思では動かなくなっていく。
「壊れていく…。全てが、崩れていく…。嫌だよ、まだ…君のところへ行けていないのに…」
悔しくて、涙が零れた。
「眠っていいよ、八津。疲れたよね、ごめんね…」
僕にはあの方を護りきることが出来なかった。
僕が無力だったから。
僕が無能だったから。
だから、こんな事態に陥って、あの方の手を汚させてしまう。
途切れかけた意識の中で、瞼の裏にはあの方の笑顔が浮かんでは消えていく。
命に代えても護ると誓ったあの時の、初めて交わした言葉が鼓膜に鮮明によみがえる。
『初めまして。今日からよろしくね、八津』
優しい声。
優しい人。
「…君、ごめん…な、さいっ……」
そこで、意識が完全に途切れた。
「八津、おやすみ……――」
もう意識が戻らない八津の体を愛おしそうに抱きしめる人は、ふと突然現れた影に目を細めた。
その影がにやりと、口角を吊り上げるのだけが暗闇の中でわかる。
それ以外は闇が姿を隠しこんでいて、輪郭もままならない。
だが、八津を壊した人はその人物を知っていた。
それほど親しくはないが今どんな顔をしているのかが容易に想像が付き、不快に眉を潜める。
すると、影の中の人物は血まみれの八津に視線を注ぎながら問うてきた。
「お前はそれでよかったのか?」
「なんだ。何が言いたい…?」
突き放すような冷たい声音で返すが、その人物は気にすることなく繰り返し同じことを尋ねてきた。
「お前はこれで本当によかったのか?…奈津」
奈津と呼ばれた少年は八津をかき抱きながら、「何だ、そんなことか」と皮肉気に目を伏せた。
「良いも何も…もう事に及んだ後だ。今更どうすることも出来ないよ」
穏やかに笑う声も、大切な人の血を浴びてなお慈しむ表情をするところや、その人をかたどる全てが狂気じみていて、影の中の人は面白くなさそうに息をついた。
「それでは答えになってない。おれはお前の覚悟を訊いてるんだ。実のあ――」
言いかけた言葉は全てを紡ぐ前に、静かな声によって遮られた。
「それ以上は言うな。これは俺が望んだ。これ以上の苦しみを見せないために…手を下したんだ」
「……つくづく人は恐いな。おれには到底理解できない。まぁ、それが人といえばそうなのだが」
目を眇めた影が何かに反応して、己の後ろを振り返った。
奈津も同様に目を凝らし、その先を見つめる。
「…闇千代か」
闇の中から現れたのは闇千代と呼ばれるまだ幼さの残る可憐な少女だった。
地に着くほど長い黒髪に、深い血の色を宿す瞳を持つ年の頃は十四・五歳ほどの少女は影の側まで歩みを進めると、クスリと微笑した。
奈津がその全貌を認めて、目を見開くのを横目に少女は言った。
「総悟様。そろそろ時が満ちますゆえ、お戯れもほどほどにしてお急ぎになられてはどうでしょうか?」
「ああ。それもそうだな」
「総悟、その子は…――」
自分がよく知っている者にそっくりの相貌と、何よりも驚いたのはその瞳の色。
それは一族から消えたあの家系の者だけが持って生まれるとされた色。
奈津が皆まで言うより先に総悟が声を出した。
「玖珂家の生き残りだよ。おれと一緒の。そういや、お前のとこにも居たっけか?おれや闇千代と同じ奴。まぁ、今更どうでもいいけどね。…じゃあ、これで失礼するよ。まだまだおれはこれからだからさ。さてさて、上手いこと光を始末できるかな〜」
そう言って、総悟と闇千代は一瞬にして砂塵の如く消え去った。