赤い色
それは七百年前のことで、まだ僕が六歳だった頃。
その頃から皆を従えていた僕は、いつも大人たちに囲まれていて、まるで笑うことを知らなかった。
僕の周りを囲んでいた大人たちはまず笑うことをしなかったし、同い年くらいの子たちとのふれあいがなかったのに加えて、周りがそんなだと笑わないことが当たり前すぎて。
笑い方が判らなかった。
それに、誰も教えてくれなかったし、多分彼等も僕と同じで相手が笑うなんてこと、そんなことは万一にもありはしないくらいに思っていたからなのだろう。
だからそこに、互いに何の疑問も抱かなかった。
ただ、僕と違って大人たちは笑わない僕にむけて、気味の悪い子供だと冷ややかな視線を浴びせていたくらいで。
今でこそ普通に笑えるけれど、あの頃はかなり荒んだ状況にいたんだと思う。
皮肉の笑みはあったけれど、それ以外で笑うことなんてなかった。
消したくとも消せない罪。
忘れちゃいけない過ちを、それでも忘れたいと願う僕。
僕がちゃんと己の意思を持って選ぶことをしなかったがために死んでいった者たち。
今もあの時みた女の人の、僕への憎悪で歪んだ顔と必死で我が子を護っていた姿が目に焼きついてはなれない。
ひとりになると、すぐ思い出す。
あの時起こった断末魔が鼓膜に甦って、吐き気がする。
罪の証が、僕を憎んで放たれた呪いの声が取れない。
一生背負っていかなければならない。
それが僕の責任だから――。
けれど、僕はそのおかげで皮肉以外の笑い方を知った。
「もう、やめてください…どうかお止めになってください!!正気にございますか!?このようなまだ幼き子を殺すなんて…貴方方には人の血が流れてないのですかっ!?」
「うるさい!光様のためだ。素直にその子供ひとりを差し出せば貴様の命くらいは助けてやる」
「そのような取引で助かる命など欲しくはございません!!どうかお引き上げください…玖珂家の者をこんなに殺したのです……もう十分でございましょう…?『鬼』だからと言って、古くからのしきたりだからと言って、親として人間として…この可愛い我が子をみすみす死なせるわけには行かないのです。『鬼』として生まれてきたからこそ、この子にはもっと自由を…せめて人並みの幸せを与えてやりたいのです…。この想いが解らぬほど貴方様方は非情な人間なのですか…!」
空気を裂くような、悲鳴に近い甲高い悲痛な叫びが血溜まりに沈む一人の女から発される。
この女の家族や親戚はもはや生きてはいなかった。
女自身には何の外傷もなく、その身が浴びている血は全て女とその腕に抱かれた子供を護るために命を落としていった者たちのものだった。
我が子を覆い隠すように…外敵から護る盾のように可愛い我が子を強く抱きしめて。
鋭い非難の視線を、一人の幼い子供に浴びせる。
その子供は険しい面持ちの男たちに囲まれ、その中央におもむろに立ち尽くしている。
――あれが子供ながらにして桃宮の頂点についている、この玖珂一族が仕える主でもある子供だろう。
大人たちの隙間から僅かに覗くその容貌はまだ幼くて、涙目の女が抱きかかえている子供と同じくらいの年齢と見受けられる。
ただその表情には小さき子供になら必ずあっていいはずの明るさはなく、空虚な瞳は金という輝かしい色をしているくせに、まるで光は宿っていなかった。
その子供は異様に暗く、重苦しい雰囲気を漂わせており、それ相応…年相応のものがない。
冷めた眼差しは姿を現したときからずっと地面へ注がれており、何を考えているのか読み取らせない。
それは子供ながらに整いすぎた風貌と相まって、感情の欠落した生きた人形という表現がぴったりな不気味さがあった。
六歳に達するか達しないかの子供はその金糸の地毛に月光を受けながら、女の叫びにピクリと反応してのろのろとだが、そこで初めて顔を上げた。
「失礼を重々承知の上でお言葉します。――光様は本当に人間でございますか?貴方様こそ真の鬼……人を喰らう鬼ではないのですか?お答え申されよっ!」
あんな形をしているがその本性はやはりその身に眠っている人喰い鬼と同じだ。
苛虐でむごいことを平気でする小さき人の姿をした鬼に違いない。
女は本気でそう思った。
現に今自分の子供を殺そうとしているのと、家族・親戚がむごたらしく殺されたのがその証拠だ。
そして、それを全く関係がないとでも言うかのように見て聞いていたのもいい証拠だろう。
こんなことをしているのに、自分たちがこんなめにあっているのに平気な顔でいた。
その子供の、桃宮の頂点に立つ者の言葉でなら、たった一声で止められたというのに。
それだけの権力を持っていたというのに。
ただ黙ってそこにいた。
あの子供は残虐な鬼だ。
「鬼か…僕は……そうかもしれんな」
光の小さな呟きは、しかし、女の言葉にすぐさま反応した男の怒号によって掻き消された。
「貴様何を言うかっ!無礼な…!今の言葉は死罪に値する暴言だぞ!そこになおれ!今この場で貴様の首も叩き落してくれるわっ」
だが、女は身に纏っていた衣を家族の血で汚しながらもその場を動かず、気丈にも睨みかえし、手にしていた刀剣を振り上げる男の激昂にも動じたふうもない。
「――それ以上手荒な真似はするな」
制止の声がかかったのは、女の柔らかい皮膚に刃が深く食い込みかけ、その身を裂かんとする一歩手前のときだった。
その命令の声に男が器用にも思いっきり力をこめて振り下ろした刀剣を首の皮膚を裂く前にぴたりと止め、後ろを振り返る。
「その女は玖珂の『鬼』ごと死ぬ気だ。お前はその女を斬って、女の望みどおり、その腕に抱かれている『鬼』ごと斬ってやるつもりか?光様が必要となさっている『鬼』が消えればその身は一生きつい痛苦にみまわれる。…命拾いしたな。もし、その女を斬っていたならば私がお前の首を斬るところだったよ」
柔和な顔を人の良い笑みでかたどる年若い男――現香月家当主の香月恋は血走った眼をしている男に冷たい一瞥を投げかけただけで刀剣を納めさせると、隣にたたずむ光に視線を向け、
「いつまでも現実から目を背けていてはいけませんよ、光様。この方法をお選びになられたのは貴方です。桃宮当主としてのご決断を貫き通すのであれば、どうぞこの私めにご命令を」
厳しい口調で先を促した。
自分のことは自分で選べ……と、見上げたその顔は告げていた。
「恋……。でも、それは僕が真実望んだ方法ではない。僕の選んだことに異を唱えた者達が勝手に下した決断だ」
子供は顔を俯かせて目を伏せた。
「――だから?ご自分には何の関係もない、と仰るのですか?今目の前に広がるこの悲劇の全ては貴方のせいで起きたというのに」
「……」
そうではないのだと…――判ってるけれど、恋の冷たい言葉に返す言葉が、返せる言葉がなかった。
ぎゅっと固く握り締めてつくった拳が痛い。
いや、痛いのはもしかしたら『心』というものなのかもしれなかった。
恋がはぁ…と、小さなため息をついた。
たった六年という生まれて短いこの歳でその責任を取れと、示せというのはかなり難しいことだ。
だが、恋は辛辣な言葉を吐くことをやめなかった。
この大人が発するこの台詞は、本来自分のことを親に任せて生きている年頃の幼き子供に向けるものではない。
それは恋にもよく判っていた。
この子供がいかなる強力な力をその身に宿していようと、まだ護られるべきか弱い子供なのだということは。
それを許さないのはひとえにこの子供が、生まれながらの金髪金眼を有する桃宮の長だったから。
だが、絶対を定められた子供には古に封印された人喰い鬼が身を潜めていた。
金の瞳と髪を宿す当主には長く生きて己の一族とその支配化にある家を護ってもらわねばならない。
そのためには災厄全てを引き受ける『鬼』を吸収――その生き血を飲み、自身の手にかけなくてはならなかった。
いわばそれは生贄だ。
人喰い鬼として暴れまわっていた鬼を鎮めるには、人喰い鬼がその昔していたように人の肉を口にしなくともいいが、普通の人より生命力みなぎる『鬼』の血を飲み、そして、それが終わると自身の手にかけなくてはならない――鬼が満足する人の身を引き裂く感触を感じなければならない、この手で。
恋にも光と同い年の男の子供が二人いる。
だから、光のことを実の子のように思う気持ちだってある。
自分の子たちはいずれこの子供に関わることになるだろう。
特に兄のほうは光を護る役につくかもしれない。
「私は意地悪を言ってるのではありません。全てを選べたのは貴方だけです。貴方が他の方法を選んだのであれば、強い意志を持って宣言なさることに誰も異を唱えたりはできないんです。だから、今回の事態は全て貴方がはっきりと意志表示をしない心の弱さが招いた結果です。こんなことを望まなかったと言う貴方よりも辛い状況に陥れられたのは玖珂家の者たちなのです。見てみなさい、あの女の絶望と憎しみの混じった顔を。あんな顔をさせてしまったのは貴方です。……まだ幼き貴方に難しく重いことを言っている自覚はあります。ですが、貴方は桃宮の大事な当主です。いくら抗っても桃宮の当主はその命が尽きるまで貴方なんです。難しいからと言って代わってやれることはできません。いやだからと言って自由が許されるわけじゃありません。されども、代わってやることはできませんが、支えになることはできましょう。この問題をどう責任とりますか?」
「僕は……」
光はぐるりと広がる惨劇周辺を見渡した。
血、血…人の血であたりは赤く、乾いた血で黒く染まっている。
玖珂が収める土地は今、玖珂の血を吸っている。
女と目があった。
びくりと肩を揺らす女はそこで初めて死への恐怖に怯えた顔を見せた。
刃を振り上げた男にも動じなかった女が…だ。
高が六年を生きただけの子供風情に怯えをあからさまにするなんて、なんとも滑稽な話じゃないか。
嘲笑が口の端からわずかにこぼれた。
そして、その腕に抱かれているひとりの子供とも目が合った。
あれが玖珂家全体が命をはってまで護ろうとした子供――玖珂の『鬼』だ。
今繰り広げられている惨劇を解ろうとしない顔で光を視線だけで追ってくる。
悲しみや恐怖の色さえも移っていない表情は、かといって明るいもので飾られてはおらず、今起こっている現実全てを否定したいような無表情で自分に近いものを感じた。
まだあどけない顔つきで自分を、真っ直ぐと見る子供の瞳さえも玖珂を主張していて、赤かった。
赤い血…赤い瞳。
この場に存在する色は赤しかなかった。
どこを見ても赤。
汚れた赤一色…――否、汚してしまった赤一色だった。
「僕がとめなかったせいでこの人たちを殺してしまった。もっといい方法はあった。誰も死ななくていい第三の方法があったのに、どうして…誰も聞いてくれなかったんだろう?なんで殺す方法しか選べなかったんだろう…」
空虚な瞳に映るのは赤い血を撒き散らしながら、それでもたった一人の子供を護ろうとして必死に戦い、絶命した人の屍ばかり…。
ゆっくりと前へ歩みを進めながら、自身へ問う。
後ろで答える声があった。
それにひどく安心した。
「――貴方が意志を示さなかったから。」
「第一のこの方法を選んだのは人は殺しあうのが好きだからか?」
「――人は他人の不幸が好きだから。」
「…この場合の不幸はどれを指すんだろうな…」
「貴方の不幸に玖珂の不幸が重なった…と言うところでしょう……」
瞳を閉じて、光の唇は我知らずのうちに弧を描いていた。
あぁ…自分さえしっかりしていれば自分は何も失わずに済むのか…――人の守る何かを奪うことしか出来やしないのに。
「僕が全ての不幸を引き起こす種ってこと…か」
――ホントウに滑稽な身の上だな…。
僕という存在は。