第四章 西日の病室
気がつくとミュウは、金色の光の中にいた。暖かい。
僕死んだのかな? でもあの連中の世界に引き込まれたんだとしたら、それはきっと、こんな明るい、暖かいところじゃなくて⋯⋯。
瞼を開けると更に強く、白い光──。最初に感じた金色の光は、この白い光が僕の瞼を透かして⋯⋯。それじゃ僕、生きてるのかな?
目をパチパチさせてみる。少なくとも肉体はある。眼球を動かすことができたので、光のほうへ──。
夕焼けだった。明るい橙色の──。
綿菓子のような雲が次々に形を変え、それらに斜めに光が射して⋯⋯。
そうだ! そうだよ! 雲はやっぱりこういう風じゃなきゃ! あんなくさい、青白い雲じゃなくて!
無意識のうちにヒッと声が出た。あの猪口先生が出した雲を、はっきり意識してしまったからだ。
するとその夕焼け空とは反対のほうで、カタッと軽く、小さい音がした。反射的にそちらへ振り向くと、今度は首があることが分かった。スジでも違えたのか、ちょっと痛い。これならたぶん頭もあって、胴体もあって⋯⋯。そして⋯⋯。
長井さん?
そこには亜希の面長な顔があった。更に夕焼けを映した白いブラウスがあって⋯⋯。
どうやら寝かされていたらしいミュウは、そんな彼女に見下ろされていたのだ。そのため彼女の切れ長な瞳は、なかば下げられた瞼に、わずかに覆われていて⋯⋯。
何か言おうとしてモゴモゴしているうちに、彼女が動いた。彼の頭の横で何かを操作する。すると頭の上のほうで、明らかに電気的に歪んだ声がした。
『ナースステーションです。どうしました?』
一瞬彼女がこちらにのしかかってくるように見えたが、どうやら頭上のインターホンに、顔を寄せたらしい。
「五〇一号室です。蒲生君、意識戻りました」
病院だったらしい。
ミュウはベッドに寝ていて、その横の椅子に亜希が座っていて⋯⋯。
ひどく喉が渇いていたが、今度は声が出た。
「⋯⋯なん曜日?」
「月曜日。あれからもうすぐ、まる三日間──。水飲む?」
「いやその⋯⋯。自分で⋯⋯」
唾が粘ついているのが分かる。こんなとき、あまり女子に近づいて欲しくない。だが体の節々が痛く、結局彼女に背中を支えてもらい、吸い飲みで水を飲ませてもらった。
ナースたちが入ってきた。
彼はいじめられっ子だった。肉体的に頑健な子どもが、そうそういじめられるものではない。という訳で彼は、こういうことには慣れっこになっていた。嫌だなこれじゃ、ペニスにも管が入ってるんじゃないかな? 案の定だ⋯⋯。全てを亜希に見られてしまった訳だ。それじゃ緋色にも? いや、緋色は⋯⋯。
彼はだんだん、あの日のことを思い出してきた。
下からも迫るエクトプラズムの触手に気づき、ミュウは思わず立ち上がった。そしてすぐにすべって転んだ。床がヌルヌルになっていたのだ。
どちらかと言えば仰向けに倒れたのだが、しかし、CAIルームの作りつけの座席が支えになった。とはいえ、背中をしたたか打った。体勢を立て直しているゆとりはなかった。そのまま四つん這いになった。
目指すはやはり、資料室のドアである。
ブチャッ! ベチャッ! 一歩這うごとにくさい粘液が音を立てる。四つん這いの姿勢なのになん度かズルっとすべってしまい、それで床に頬を打ちつけると、耳の中までブチャッ!
前を塞ごうとする奴らは脚をつかんで倒し、上からのしかかってくる奴らはあえて粘液塗れ、鰻か何かになったつもりで逃れ、更に手足をつかんでくる奴らには、情け容赦ない目潰し! 眼球に爪を立てた。
ようやく後ろのスペースに出ると、今度は女子のハイソックスに太腿! 一瞬のためらいのあと見上げると、緋色だ!
「ウヘッ、ブヘッ、緋色おおおっ⋯⋯」
情けない声を出しその腰に縋りつく。やっとの思いで立ち上がる。ひっぱたかれても仕方がないなと思いながらも、むしろその罰を請い願うような気持ちになった。が⋯⋯。
白目を剥いた顔があった。そして、グギッ! 大口だけでなく、パンパンに肥大した舌が迫り出してきて、更にその舌が泡だらけの唾液、胃液、その他数多の粘液を押し出し⋯⋯。
「ウワッ⋯⋯!」
あの臭いが強くした。
彼が何もかも諦めてしまいそうになったとき、
「ミュウ君っ! 目瞑っててっ!」
何かが顔にかかった気がした。だがそれは、彼がその中を這い回ってきたあの粘液とは違い、真水のようにサラサラしていて⋯⋯。
「ブギャアアアアッ!」
「グギャアアアアッ!」
突然起こる阿鼻叫喚──。薄目を開けると、かつてE組の生徒たちだった何かが、顔を覆い、腰を折り、身を捩ってのた打ち回っている。だが彼は、その光景はチラッと見ただけ⋯⋯。気がつけば先刻の光の中にいて⋯⋯。
ナースたちの処置が終わった。リンゲルだろうか? まだ一本だけ、腕に管が残されている。
ベッドの上半分を立て、彼はそれに寄りかかっている。
夕焼けの赤みが増している。背後でカチャッと音がした。亜希だった。
「何か欲しいもの、ある?」
まだ椅子には座らずに、彼の言葉を待っているようだ。
「と、特にこれといって⋯⋯。それより⋯⋯」
「やっぱり色々、ききたいよね⋯⋯」
「うん⋯⋯」
彼女はようやく、ベッドの傍らの丸椅子にかけた。
「まず、何?」
「彼らのこと⋯⋯。いや、猪口先生のこと⋯⋯」
「それは私にも解らない」
「だよね⋯⋯。でもあれ、聖水かなんかでしょ? 長井さん何か、液体を撒いた⋯⋯」
「目瞑っててって言ったのに⋯⋯」
「ごめん⋯⋯。でも⋯⋯。顔にかかった感じで⋯⋯。でも⋯⋯。最後はやっぱり、目開けちゃったんだけど⋯⋯」
数十秒間の沈黙⋯⋯。
「あれはお酒よ。日本酒。私んち、造り酒屋だから⋯⋯」
「でも本当に⋯⋯。効果があったみたい⋯⋯」
そこでかすかに、彼女の唇が震えた。
「うん。効果があった。猪口先生は火傷がひどくて⋯⋯。失明だって⋯⋯」
「長井さん、大丈夫なの? その⋯⋯。過剰防衛とか⋯⋯。僕はもちろん、感謝してるんだけど⋯⋯」
「ただのお酒よ」
また沈黙⋯⋯。それでも次に言葉を継いだのは、彼女だった。
「焼け火箸を見せつけたあとで、別の焼いていない火箸を肌に押しつける。だけどそのひと、実際に火傷することがある⋯⋯。猪口先生の補習には催眠や暗示が多用されていたはずだから、何か問題が見つかるとすれば、彼女のその手法に関連づけられるはず⋯⋯。少なくとも合理的には、そういう風に説明するしかない」
「うん⋯⋯。あとなん人かは個別的に、アレルギーとか⋯⋯」
彼はやや中継ぎ的に、少々生臭いこともきいた。
「ここ、東生大学病院だよね? なんだか高そうな部屋だなああっ⋯⋯」
「そのことなら心配しないで⋯⋯。伯母がここの理事の一人だから⋯⋯。それに最終的には、学校側の負担になるはず。あれはあくまで、学校内での『事故』だったんだから⋯⋯」
そしてやはり、緋色のことをきかなければならない。
「大丈夫。私も彼女には配慮したから⋯⋯。顔は狙わないとか⋯⋯」
「でも資料室では、いったい何があったの? 織本さんも、最後は完全に取り込まれちゃってたみたいだけど⋯⋯」
突然フーッと、彼女がため息を吐いた。それは確かにため息だったが、猫が爪を立てるときのような攻撃的なニュアンスも、確かにあった。
「私、遊撃隊だったから⋯⋯」
短く言うと、彼女はキュッと下唇を噛んだ。どうしたんだ? だが彼には、彼女の次の言葉を待つ以外にない。やがて、彼女にしてはいつにない強い口調で──。
「甘いよ。ミュウ君は──」
更に、今日一番の長い沈黙⋯⋯。
「そもそも、緋色はなんで、補習の誘いを受けていなかったの?」
「そりゃもちろん、その必要がないくらいの成績を、常にキープしていたから⋯⋯」
「それじゃなんで、彼女はE組なの? A組じゃなくて⋯⋯。中学時代にはちょっとグレてて、それで『E組落ち』しちゃったんだなんて話もなくはないんだけど、でもそれってやっぱり、体育組の話だよね? 大会、出場停止にされちゃうとか⋯⋯」
「な、内申点のこととかさ⋯⋯」
「それならなおのこと、A組で受験テクニックを磨いて、一般入試に賭けたほうがいい」
以後は彼女が一方的に話した。目の前の原稿を読み上げるような、わずかばかりの澱みもない話し方で⋯⋯。
「最初に『ミュウ』っていう名前の由来きいてみたときのこと、憶えてる? 飼っていたミドリガメの死を受け、転生のことやそれに、反魂香のこと、調べ出したって──。今回の事件についてもネクロマンシーの関与を疑わせる点が、幾つかある。ミュウ君だってヴァンパイアやゾンビのこと、疑ってたでしょ? 加えて加勢君の胸に突き立っていたナイフのこと──。ナイフを好んで所持するのは何も、結城君みたいな不良たちばかりじゃない。オカルトに興味がある私たちだって、黒魔術かなんかの儀式のためとか、あるいはアミュレットとしてとか、それを必要とするときがある。加勢君の胸に刺さっていたナイフ、いったいどんなナイフだったの? バタフライナイフとは限らないのよ?」
そして彼女はサイドテーブルのところへ行き、眼鏡ケースをパチッと開け、なんと眼鏡をかけたのだった。あれっ? 長井さんっ? 今日は眼鏡、かけてなかったんだ! でもいつから? さっきナースさんたちに処置してもらったときから? それとも⋯⋯。
更に彼女はお手製のブックカバーの文庫本を手にすると、丸椅子に戻り、それに目を落とす直前、チラッと彼を見た。
「意識が戻ったこと、おうちの方にはもう連絡しておいたから⋯⋯。寝れないだろうけど目を瞑って、安静にしていたほうがいい⋯⋯」
彼女の眼鏡は夕日を受け、やはりグレイ型エイリアンの巨大な目のように、光っているのだった。