第三章 CAIルームの恐怖
今日の補習はどうなるのだろう?
坪倉先生の腐乱死体が、未だ生徒たちの鼻腔で生々しい何かを主張していた。それは失望感? 汚辱感? あるいはどこかに偶像破壊の快感を秘めた、不思議な罪悪感? 認めたくない! あのきれいでやさしかった坪倉先生が、あんな臭いを撒き散らすなんて! だが誰もがその臭いを追い払えず、無意識のうちに反芻している。
そしてそんな中、第二の悲劇が起こった。更に今回は事件性確実! 胸にナイフが突き立っていたと言う。
犯人だとされた結城が相変わらずの姿勢で、つまり長い脚を机に投げ出し、喚き散らしている。硬派は案外饒舌だった。とはいえ、それは確かに言い訳ではないようだった。
「疑いたきゃ疑やいいさ! むしろこっちにゃ好都合だ! こんなんでぶるって折角の補習をサボろうなんて奴あ、とうぜんの覚悟を迫られることになる訳だからな! いちいち締める手間が省けらあっ!」
愚かな女生徒が言わずもがなのひと言を漏らす。
「そっ、それじゃやっぱり、結城君がっ⋯⋯?」
結城はそれには一瞥をくれただけで、お鉢は無情にもミュウのほうに回ってくる。
「おい蒲生! 今日の小テストも赤点だったら、これで三回、連続で赤点だ! 予備校があるなんて言い訳はすんなよ? その予備校が月謝ドロだから、お前は三回、連続で赤点なんだ!」
「いやその⋯⋯。僕は、あの⋯⋯」
蛇に睨まれた蛙の状態。視線で緋色に助けを求めたが、サラサラ髪のキューティクルと、ブラウスの白に弾き返される。前を向いたままなのだ。
女子に助けてもらおうなんて、やっぱ僕、情けないや⋯⋯。
だがやはり、畳みかけくる結城を見返すことはできない。
「エッ? 蒲生? どうなんだよう? 加勢とかって奴のようにゃあ、なりたかねえよなあ?」
ミュウが進退極まって数秒、パンパンパンッと手を叩く音がした。見ると、教卓の横で猪口先生が微笑んでいる。
「ハイッ、みんなっ! さっさとこっち向いてっ! 補習は決して強制じゃないから! 坪倉先生もそうしてたでしょっ? それに結城君っ? まずはその脚、下ろしてくれない?」
「ハッ、ハイッ⋯⋯!」
結城が大慌てで居ずまいを正した。
昼休み──。
席の横を通りながら、緋色が顎で、小さく合図してくる。『Xクラブ』部室へ⋯⋯。
「いいじゃないの、ミュウ。今日は補習に出席しなさい」
めずらしく亜希が、緋色のその言葉に難色を示した。
「それ危険だよ、緋色⋯⋯。二度あることはとは言わないけど⋯⋯」
「大丈夫! 私がついてる! CAIルームって確か後ろに、資料室みたいなのあったよね? CDとかDVDとかの──。あそこに潜んで奴らの様子、観察すんの! ミュウには潜入捜査担当してもらうっ!」
女子二人の瞳がミュウに集中する。もっとも亜希のは眼鏡越しだが⋯⋯。
「うん⋯⋯。分かった⋯⋯」
決然ととは行かなかったが、ミュウはなけなしの何かを搾った。が⋯⋯。
その日の放課後の空模様は、深く重く垂れ込めていて⋯⋯。今にもザッとひと雨きそうな、そんな鉛色の予兆を湛え⋯⋯。
CAIルームには早くもLEDが灯されている。更にアダルト・コンテンポラリーのシルキーヴォイスが流れ⋯⋯。猪口先生の補習への誘いは、結城の恫喝まがいのものだけではなかった。女子からの誘いもあった。
「補習なんだけど意外とくだけた感じでね。休憩時間にはノラ・ジョーンズなんかきいたりしてんの。それは坪倉先生のときと同じ⋯⋯。猪口先生になったからって、なんもぜんぜん、変わってないよ」
ミュウは完全なキモヲタである。『Xクラブ』の二人は別とし、これまで女子に話しかけられることなどなかった。それなのにまさにクラス総出で⋯⋯。
これじゃ第三勢力どころか、気がつきゃ孤立状態だよ!
部屋の後ろの壁の右手に、資料室へのドアはある。それを振り返り確認したい衝動を、ミュウは必死でこらえている。
猪口先生が入ってきた。手を軽く振り、教卓に向かう。そこのコンソールで何かのアプリを操作している。生徒たちの挨拶も「ちわーッす」などといった感じ⋯⋯。くだけているというよりはだらけているといった感じで⋯⋯。
だが突然部屋が凍った──。いつの間にやら全生徒が着席し、キチッと正面を注視している。
窓際でヴィーンとモーターが唸った。エッ? なんでっ? 遮光カーテンが閉まり始める。そしてそれが閉まり切ると同時に、LEDがふっと落ちた。
元々空は夕立でもきそうなほど暗く、カーテンは閉まり、照明は落ち、CAIルームは真っ暗になった。
ゴトッ、ゴトッ、ゴトトッ⋯⋯。
猪口先生のヒールの音? それにしてはどこか湿った感じがしたし、最後の一歩には破調があった。ミュウの脳裏に、先生のカチッとしたスーツ姿が浮かぶ。
暗闇に目が慣れる数分が、永遠に続くかと思われる。なんでもいい! 何か見たい! 資料室のドアを振り返って見たい! だがしかし、例えば、先生のアンデッドの目には全てが丸見えになっているかもしれない!
アンデッド? 今度は自分の妄想にハマった。坪倉先生のあとを受け、『eラーニング推進主任』として着任した猪口先生。大家さんに迷惑がかかると、坪倉先生の死体があった部屋で暮らす猪口先生。香水で誤魔化しているが、絶対に坪倉先生の死体の臭いをさせている猪口先生。坪倉先生の死体の腐敗は異常に進んでいたと言う。坪倉先生は生前すでに亡くなっていて⋯⋯。アンデッド化していて⋯⋯。ではそのアンデッド化の張本人は? キモヲタならではの連想ゲーム⋯⋯。が、当の本人には恐怖のスパイラルだ。
前方でふっと光が射した。だがそれは彼が待ち望んだ光ではなかった。人魂っ? そう。人魂のような青白い光。猪口先生が教卓から数歩歩いたとして、ちょうどホワイトボード手前中央。高さもだいたい、先生の頭くらい。モヤモヤと形を変え、次第に明るく、大きくなって行く。
やがて先生の彫りの深い顔が、その靄の中に浮かび上がった。いや靄が先生の下顎の辺りに浮かび、頬骨や額をてらてら光らせている。そして先生はガバッと大口を開けた。美貌が豹変した。入れ歯のような歯列を突き出し、ブワッと鼻腔を広げ──。カッと見開いた目の奥でグリッと眼球が裏返る。左目がやや遅れたのがご愛嬌? などと言っている余裕は、むろんミュウにはない。
その大口がアルトで歌い出す。
「ああああああああっ──」
青白い靄がどんどん大きくなって行く。上昇し、拡散し、生徒たちの頭上で雲状になる。長く延ばされるアルトはグルグル、ゴロゴロ、粘っこいノイズを混じえている。
エクトプラズム? 霊媒が霊魂の物質化などの際使うもので、形状的にはガス状なのだが、成分的にはひとの唾液に似ているのだという。するとこれは、先生の?
今度はミュウの周囲で異変だ。グギッ! ゴギッ! 散発的に何かが鳴った。見ると左右の生徒たちが、先生同様大口を開け⋯⋯。顎でも外れたのか? 彼らの大口は一様に間延びしていて、うちなん人かは、涎の糸を垂らしている。そして彼らも!
「ああああああっ──」
「ああああああっ──」
ソプラノで、メゾソプラノで、あるいはテノールで歌い出す。もちろん先生と同じアルトもいたが、十五歳という年齢のためか? バリトンやバスはきこえなてこない。結城の声は、ときにバリトンにきこえることもあったのだが⋯⋯。
そして今や、教室全体を覆った雲から、竜巻のような、いやもっと生物的な、蔓とか触手とか表現したほうがいいようなものが伸び、それらが生徒たちの大口にハマった。
「ああああああああっ──」
合唱は続いている。
ミュウの前にも触手が伸びてきて、その口を探るように、先端を左右に振る。間近に迫ったそれはシューシュー音を立て、やはり元は唾液なのか、すぐに液化し、ぼたっ、ぼたっと粘っこい雨になった。だがそれは続々と補填され⋯⋯。
ミュウは思わずウッと呻いた。視覚的不気味さのせいだけではない。くっ、くさいっ! いつか登校途中に嗅いだ、坪倉先生の死体の臭いだ。
何やってんだ、緋色! 助けに飛び込んできてくれとは言わない! でも今すぐそのドアを開けて、証拠写真のフラッシュでも焚いて、僕が逃げるきっかけくらい作ってくれよ!
ミュウはもはや無意識のうちに、資料室のドアをガン見していた。だがそのドアに動きはない。
彼の恐怖が爆発したのは、ふと視線を落としたときだ。触手は下からも這い上がってきていて、両大腿部をほぼ覆い、侵入路を探してか? ズボンのジッパーをチロチロなめている。
「うわああああっ!」




