第六話 黒い悪魔
「うぇ、結構グロいな」
ヒカルは自分が分断したオークの残骸を認め、思わず顔を顰めた。
気持ちが悪いといった感情が、眉間に刻まれた縦皺にありありとあらわれている。
勿論これは黒スーツの内側での話だが。
茶色い土にドス黒い血の泉を湛え、ふたつに分かれた太めの体躯がゴロリと転がっている。
胴体の分かれ目からは肉で言うところのホルモンがどっさりと飛び出し、嫌な匂いを辺りにまき散らしていた。
『くそっ! やっぱオーク如きじゃ俺を使いこなせるわけなかったか!』
そんな最中、オークが死んでもなお元気に喋りを続ける物がいた。
魔剣ナルムンクである。
「こいつなんか元気そうだな……」
『それはそうだろう。魔剣にとってそのオークはただの傀儡にすぎないのだしな』
先生の話によると、どうやらこの魔剣にとってはオークは只の宿主でしかなかったらしい。
そして宿主が死んだからと、この魔剣が機能を停止する事もないようで、それどころか――
『それにしてもあんたつえぇなぁ! 珍妙ななりではあるけど俺はすっかり惚れ込んだぜ!』
珍妙とは失礼な奴だ、とヒカルは不機嫌を露わにする。だからといって今の気持ちが現在の表情にあらわれる事はないが――何せこの昆虫顔は一切表情を変えることがない。
『なぁあんた! よかったら俺を使ってみねぇか? あんたなら俺の力を十分に使いこなすことが出来る! そんなよくわかんねぇ武器より俺の方が遥かに役に立つぜ!』
魔剣は随分と調子のいいことをべらべらと捲し立てるようにいってくる。
今さっきまで寄生していたオークの死体が、目の前に転がってる事などお構いなしだ。
『ヒカルの創った武器より役立つなんて随分な言い方だな』
先生が吐き捨てるようにいった。その口ぶりから考察するに、この魔剣ナルムンクの事は好ましく思っていないのだろう。
そしてそれはヒカルにとっても同じであり。
「なぁあんた。ひとつ訊いていいか?」
『あぁ勿論だ。何でも訊いてくれや!』
「お前一体これまで何人斬った?」
ヒカルが不機嫌な理由は実はもうひとつあった、ゴキブリの触覚は周囲のあらゆる物を嗅ぎ分ける。
そしてヒカルがこの魔剣から感じ取ったものは、明らかな血の匂い。
ヒカルは人の血の匂いに詳しいというわけではないが、その匂いは自然と嫌な感情を湧き起こす。
『あぁん? なんだ俺の力が信じられないのかよ! まぁこんな雑魚が宿主だったから本来の力は発揮できなかったが、それでもやってきた男や女を何匹も膾切りに――』
「もういい十分だ」
ヒカルから落とされた声はひどく冷たかった。異世界の知り合いなど皆無であり、どんな人間が住んでるのかなど殆ど知りはしないが、自分と同じ種の人間が匹と呼ばれ、ゴミクズのような言い方をされるのに堪えられなかった。
『わかってくれたかい? だったらそんなわけのわかんない武器をおさ、ゲッ!?』
魔剣の言の葉が全てを紡ぐ前に、ヒカルのナルムンクがいうところのわけのわからない武器が、その刃を粉々に砕いていた。
『テ、テメェ――よく、も』
振り下ろした太刀の衝撃で、禍々しい光を宿した魔剣が空中に浮かび上がる。
ヒカルはそれを一睨みし、更に目にも留まらぬ速さで、剣閃を交差させた。
魔剣の欠片がきらきらと輝きながら、地面へと舞い落ちる。
醜悪な魔剣であっても、散り際ぐらいは綺麗なものだとその光景をひとしきり眺めたあと、ハッとしたように口を開いた。
「あ、先生勝手な事をして申し訳ないです」
『別に謝る必要なんてないさ。寧ろ上出来だよ。安易に魔剣に頼るなんて選択肢を選ばないだけな。こんなものなくたって今のヒカルは十分強いわけだからな』
取り敢えず不機嫌な様子も感じられない先生に安心しつつ、ヒカルは魔剣であったそれに背を向けて、例の少女の傍まで歩み寄った――
◇◆◇
「さてこの娘起こしてあげないとな」
そういってヒカルは黒光りした腕を伸ばそうとする。が、そこへ先生の待ったがかかった。
『ヒカル、まさかそのままの姿で起こす気か? 正直失礼な娘だなとも思うが、今の状態で目を覚まさせても、また気絶するか騒ぎ出すのが落ちだろ』
そういわれてみれば、とヒカルはピタリと腕を止めた。
「先生、この姿ってもう戻らないのですか?」
ヒカルが尋ねる。ちなみに先生がいうように心のなかで十分会話が可能なのだが、ついつい言葉を口にだしてしまっていた。
『そんなことはないさ。さっきとは逆のイメージで元に戻るよう念じれば皆勝手に離れていく』
先生の言葉に密かにヒカルは安堵した。確かにこの状態であれば強い力を発揮できるが、一生このままでは、他の人間とうまくコミュニケーションを取れる自信がない。
そしてヒカルは先生のいうとおり、己の身体からゴキブリが離れるイメージをもつ。
すると再びゴキブリたちがガサゴソとヒカルの身体を蠢き、そして引き潮の如く勢いで四方八方に散っていった。
この万を超えるゴキブリがいったいどこに向かったのか? 等と気になることはあったが考えるのは止めておこう、とヒカルは一人心に決める。
「これでよしっと」
ヒカルはひとりごちると、両手を開く閉じるを数度繰り返し元に戻った事を確認した上で、改めて横たわる少女に顔を向けた。
少女は右手に少し短めの剣を握りしめていた。小剣というものだろう。
手から僅かにはみ出た柄は筒状で握りの先に見えるは羽を広げたような鍔。
その鍔と刀身の間に嵌めこまれた空のように蒼い水晶が妙に栄える。
どうやら剣を持ち歩いているという事と、身体に革製の胸当てを装着しているあたり、ただ森を彷徨っていただけの少女というわけではなさそうなのだが正直――
可愛い……と素直に思った。気を失ったまま寝顔のようなものを無防備にさらけ出しているその身姿は、まるで物語の中からヒロインがそのまま飛び出してきたような様相で、耳こそ狐耳という人と違うものを備えているが、それを除けば見た目にはやはり普通の……いやかなり上質な美少女である。
狐耳と同化するような同じく狐色の髪は首筋まで掛かる程度のセミショート、癖っ毛気味なのか踊るように外側に跳ねまわっているが、そこがまた可愛らしい。
鼻筋は整っていて、小さな顔に接合された首は触れたら折れてしまうんじゃないか? と思えるぐらい細い。
全体的に見ると小柄な少女だ。尤もヒカルが日本では一八〇センチと長身の部類に入るためそう感じてしまうのかもしれないが、それでも少女は見た目一五〇センチあるかないかといったところだろう。
こんな剣を持って何かをするようにはとても思えない。
しかし小柄ではあるが、呼吸と共に上下する果実は、革製の胸当ての上からでも中々にボリュームがあるのが見て取れる。
革の胸当ての下には肌にしっかりと密着するような亜麻色の内服。
そして腰から下には丈の短いスカート。
脚には爪先の尖った革のロングブーツが履かれている。膝下までの長さのあるブーツだ。そしてブーツから伸びるストッキングは太ももの下ぐらいまでを覆っている。
その為生足の見える範囲こそ狭いが、逆にその事によってわがままな柔らかそうな太腿が強調されてしまっていた。
汚れひとつ感じさせないその肉感的な太腿は、思わずかぶりつきたくなるぐらい魅力的ですらある。
おまけにスカートは本当に短い。括りつけられている狐の尻尾のアクセサリーは狐耳をもっていながらどうなんだろうという気もしないでもないが、しかし、ちょっとこう裾に脚を引っ掛ければ簡単に捲れ上がりそうな気はする。
『そんなに気になるなら捲ってみればいいだろう』
うわっ! と思わずヒカルは素っ頓狂な声を上げた。
声は先生のものだ。しかしどうしてわかったのか? そんなに判りやすい顔だったのか? とひとつ咳払いし、煩悩を消し去ろうと大きく深呼吸をする。
「べ、別にそんなつもりないですからね! と、とにかく起こしてあげるとしましょう」
ヒカルは言い訳のようにそう述べると、少し緊張しながらそっと右腕を少女の肩へと伸ばしていった。
――パチン。
その瞬間少女の瞼が開かれた。透明感のある蒼を讃える大きな眼がヒカルに向けられ、柔らかそうな睫毛が何度も上下する。
ヒカルは上半身を前に乗り出し、肩に触れる直前の右手をピタリと止め、表情を固めた。
ふと柔らかな風がふたりの間を横切り、狐色の髪の毛がサラサラと靡く。
それは瞬刻の沈黙、だが――その直後。
「き、きゃぁああ! ちょ! 誰よあんた~~~~!」
狐耳の少女の絶叫が森の中を駆け抜けた、と同時に――
「うわっ! 危な!」
少女は即座に上半身を起こし、右の手に握られていた剣を振り回した。
ヒカルが驚き後ろに飛び跳ねると、それを見届けた少女が両足を振り上げその反動を利用して跳ね上がり、軽やかに両足を地面に付け立ち上がった。
おお~、と小さな拍手に感心したような声を重ねる。が、少女が腕を伸ばすと同時に切っ先がヒカルの鼻先に突き付けられる。
眼力強く、ウゥ~、と唸りだしそうな勢いでヒカルを見上げ睨みつけてくる少女。先ほどまでの可愛らしいという印象はすっかりどこかへ吹き飛んでいってしまい、ヒカルの頬を冷たい汗が伝う。
とにかく今はこの娘にちゃんとわけを話してその剣を下げてもらわねば。
そう思案したあと、ヒカルは両手を上げて降参のポーズをとって見せた。危害を加えるつもりはないことをまず知ってもらいたかったからだ。
『なさけないな。それにしてもこいつも随分と恩知らずな娘だ』
ゴッキー先生の声が脳裏に響く。しかし情けないと言われても変身を解いたヒカルは抵抗するような武器を持っていない、丸腰の状態なのである。
それに目を覚ましたら、見たこともないような男がその肢体に触れようと手を伸ばしていたのだ。
叫び声を上げて、手持ちの剣で斬りつけてきてもおかしく――いや剣で斬りつけてくるのは少しおかしい気もするがここは異世界。
ヒカルの常識が通じるような世界ではないだろ。
「その、警戒したくなるのは判るけど、ちょっと話を聞いてもらえるかな?」
「話ですって?」
勝気な声で怪訝そうに反問してくる美少女。手入れの行き届いてそうな銀色の刃はいまだ突き付けられたままだが、即斬り捨てられるような事はなさそうだ。
「そ、そうだよ。俺はさっきここをたまたま通りかかった時に、倒れてる君を見つけて心配になっただけなんだ。別に良からぬことを考えていたとか――」
ヒカルは自分の正体は隠したまま、適当に思いついた内容を彼女に伝えた。
彼女が気絶した原因は自分です、と告げて話がややこしくなるのは得策ではないと思ったからだ。
「倒れて――あ!?」
すると少女が何かを思い出したように口と目を大きく開き、そしてきょろきょろと辺りを見回した。
少女の瞳が忙しなく動き――そしてヒカルを挟んだ向こう側に視線を固定させた。
その顔には驚きの感情が張り付いている。
「ちょっと! あのオークってあんたがやったの!?」
捲し立てるように問いかけられ、ヒカルは首を横に振った。
「俺が来た時にはもうあの状態だったんだ」
勿論これも真っ赤なウソだが、正体を隠す以上そういって置かなければ仕方がない。
「本当に? て――」
彼女はそこで言葉を切り、ジロジロと値踏みするような目でヒカルをみた。
少女は綺麗な碧眼で上から下まで一頻りヒカルをみやると、はぁ~、と一つ嘆息をつき、そして漸く小剣を腰に吊るしてある鞘に収めた。
「私もどうかしてるわね。あんたなんかにあのオークが倒せるわけないし、私をどうこう出来るようにもみえないもの」
そういって口もとに僅かな笑みを浮かべる。言葉は悪いが表情は穏やかなものにかわっていた。
「ところで貴方、オークは倒していないとして、変な化け物みなかった?」
あんたから貴方に変わったのは多少は警戒心を解いてくれた現れかもしれないな、等と思いつつも、いや特に何もみてないけど、と平静を装いつつ返す。
「そう……」
眉間に皺を寄せ、少女が短い声を発した。
「それってどんな化け物?」
ヒカルは白々しい質問を行う。すると少女は自分の細い肩を抱きかかえるようにして、ブルリと左右に震えた。
「なんか虫をそのまま人型にしたような気持ち悪い化け物よ。そうなんかゴキブリみたいにテカテカしてて、あれはそうよ――悪魔! 虫型の黒い悪魔よ!」
その言葉に随分な言われようだなとヒカルは引きつるような笑みを浮かべてしまっていた――