第四話 助けに! え?
今の声は!? とゴキブリを身にまとったヒカルがきょろきょろと首を巡らせる。
『落ち着きな。とにかくその触覚の力を活かすんだ。今の力ならかなり広範囲まで感じ取れる筈だよ』
そ、そうか! とヒカルは触覚を小刻みに揺らすようにしながら、悲鳴の位置を探る。
「判った! ここから一キロ先! そこでこの雰囲気! あのオークと後は襲われてるのがもう一人いる!」
『うむ、流石だな。それで、どうするのだ?』
「え? どうするって?」
『助けるのか逃げるのかって事だ。そのオークの意識が今は完全にその襲われてる方にいってるなら、放っておけば逃げられるぞ』
ゴッキーの言葉にヒカルは少なからず動搖した。だが確かにここで見捨てれば自分だけでも逃げられるが。
しかし瞬時にヒカルは頭を切り替える。
「ダメだ! やっぱ助ける! それにこの姿ならオークなんて目じゃないんだろ?」
『そう、まぁ私としてもそっちのほうが有難いけどな。勿論今のヒカルならオーク如き何体いようが楽勝だ』
その言葉にヒカルが頷くと、悲鳴の聞こえた方に身体を向ける。
「!? やばい! かなり近づかれてる――これじゃあ間に合うか――」
『それなら心配無用だ。今のヒカルはゴキブリの能力をフル活用できる。走ってみれば判るであろう』
え? と疑問が頭を擡げるが、とにかく今は急がねばならない。
ヒカルは意を決して声の方へと走りだす――その瞬間だった。触覚に感じる空気が一気に加速した。
森の木々が物凄い速さで後ろへ流れていく。
最初の一歩目からその速度はマックスであった。これがゴキブリの力? とヒカルも驚きを隠せない。
だが脚が自然と動く。舗装された道なんて当然ない深い森の中だ。
普通に考えてこれだけの速度で走れば途中地面から飛び出た木の根や、聳え立つ樹木にぶつかり大事故に繋がりそうなものなのだが、今のヒカルはその障害も、まるで昔からよく知る地の如く、スイスイと潜り抜けていき、速度も全く落ちることがない。
ゴキブリは一秒の間に体長の五〇倍の距離を移動するという。
そしてそれは異世界のゴキブリもかわらず、更にそれは今のヒカルの状態にも反映される。
ヒカルの身長は一八〇センチ――メートルで表すと一.八メートル。つまりその五〇倍で一秒の間に九〇メートル。時速にして三二四キロ、しかもゴキブリは初速からマックス速度で駆ける事が可能だ。
障害物を避けながらとはいえ、このスムーズな動きであれば恐らく十数秒あれば悲鳴の主に追いつける。
ヒカルは己の身に適度な爽快感を覚えながらも、間に合ってくれ! と願いつつ先を急いだ――
◇◆◇
迂闊だった――と、少女は一歩ずつその距離を詰めてくる巨体を見つめながら後悔の念に囚われていた。
鬱蒼とした森の中。木々の開けた空間は雑草の生える緑が点在した茶色い地面が広がっている。
少女はその一部に腰を付け、そして上半身を起こしながら苦悶の表情を浮かべた。
握りしめた左手に湿った土の感触。今は差し込む陽の光も少なく、森全体はとても薄暗い。
そんな状態だからこそ、迫り来る化け物の姿はより悍ましく感じられた。
オーク――この化け物の事を彼女たちはそう呼んでいる。
豚の顔を持つこの人型のマガモノは、通常であればある程度の腕をもった者なら、それほど問題もない相手だ。
それは彼女にとっても一緒で、これまでも単体のオーク程度であれば何度も片付けていた。
だからこそ今回だってそこまで問題にすることはないだろうと高を括っていた。
確かに只の薬草採集の依頼にしては報酬も高めであったし、耳に入る情報からもある程度は予感もあった。
だが、それでもまさかここまでとは――目の前のオークは明らかに正気を失っている。
眼はどこか怯えたような、そう恐怖の念に駆られたような双眸であるのに、その癖発せられている殺気は馬鹿みたいに禍々しい。
ブヒッ、ブヒッ、と本来の豚なら可愛げもありそうな鳴き声も、口元から汚らしい唾液を零しながらでは不快なだけだ。
しかも涎から漂う匂いも半端でなく臭い。思わず顔をしかめてしまう。
だが、とにかく今は逃げなければいけない。
そう思い土を掴んだ左手と、愛用の小剣を握ったままの右手に力を込める。
が、まるでその身が縛められているかのように身体が上手く動かない。
そう、先程から全く自由が効かないのだ。彼女は森の中でこのオークと遭遇したとき、有無をいわさず飛びかかりその剣を振るった、が、オークは彼女の知るより遥かに俊敏な動きで、その一撃を躱した。
そしてその直後にはこのオークはその右手に持った不気味な剣を振り返してきたのだ。
だが、それをなんとか彼女は剣で防ぎ、咄嗟に威力を殺そうと後ろに飛んだ。
しかし刹那に訪れた衝撃は、彼女の想定には収まらない強力な物であった。
思わずか弱い女の子のような悲鳴を上げてしまった程に。
そしてその結果、彼女は数十メートルほど飛ばされ、この開けた大地に背中を打ち付けゴロゴロと更に転がりようやく動きを止めた。
その時一応反射的に受け身はとったつもりだったが、それでもまだ背中は軋むように痛い。
迫り来るオークに対して動きがままならないのは、その痛みも多少は関係しているだろう。
だがそれだけではない事を彼女は知っていた。その要因の多くはあの剣にあることを。
「……呪いの魔剣を見くびりすぎてたわね――」
『ケケッ! へぇこの魔剣ナルムンク様の怖のオーラを受けてまだそんな口がきけるとは大したもんだ』
その声はオークの口から発せられたものではなかった。
そもそもオークは人語を解す事など出来はしない。
そう声の主はオークの握りしめた剣であった。呪いの魔剣が彼女に向かって語りかけてきたのである。
「喋れるタイプって事はやっぱりあの関係ね――でも――とは、違う……」
そう呟いた後、彼女は己の膝を必死に上げる。だが膝はガタガタと小刻みに震えて上手く力が伝わらない。
「くそ! 動け! 動けよ!」
『てめぇの精神だけは立派だが、身体は正直だな。俺のオーラは使用者は不安に支配され見境がなくなり、敵対する者にはただ恐れ戦くだけの恐怖を与える。その結果がそれさ。どう足掻いたってその恐怖から逃れるのは不可能だ諦めるんだな』
やけに饒舌な魔剣の語りが全て終わった時、オークの巨体は彼女のすぐ目の前にあった。
「くっ、ち、くしょう――こんな、こんなところで――」
彼女は剣を振り上げたオークを見上げるようにしながら、喉を詰まらせるように悔しさを吐露した。
その眼にはうっすらと涙の膜すら張られている。それは呪いの魔剣の影響によるものなのか――それとも純粋な悔しさからか。
そして今、彼女の心を断ち切るように、呪いの魔剣ナルムンクが容赦なく振り下ろされた。
◇◆◇
(間に合ってくれよ!)
そう願ったヒカルが緑の幕を抜けた時、あの悲鳴の主と思われるひとりの少女に向けて、見覚えのあるオークの剣が今まさに振り下ろされようとしていた。
「うぁあああぁああ!」
思わず周囲の木々を揺らさんばかりに声を張り上げ、その両腕を突き出す。
直後に両の腕に感じる柔らかい感触。それをしっかり掻き抱き、そのままの勢いで更に直進した。
背中に感じるはビュン! という風切音と直後に響く騒音。そしてなんとか間に合った事を安堵しつつ、開けた空間の端で脚を止め、思わず視線を落とす。
ただ、今の姿では別に眼を向けなくても触覚の感覚で状況は把握できるのだが、普段は目に頼っていたため、触覚でわかるとはいえ反射的にいつもの行動が出てしまう。
すると彼女の大きな瞳と目があった。そして頭の上でピンっと立った獣の耳の存在も同時に感じられた。
これはヒカルの知る限り、狐の耳である。三角に尖ったもふもふした耳は、なんとも愛らしく感じられた。
ただその耳以外は人と同じ容姿をしている。それでも髪の色が見事な狐色だったりという違いはあるが――
と、それはそうと取り敢えずは何か声を掛けるべきかもしれない、とヒカルは適当な文句を考える。
だが、ここはやはり無難にと、
「だ、大丈夫?」
とヒカルが口を開いた直後であった。
「ひ、ひ、ひゃ、い、いやあああぁあぁぁあ!」
突然の絶叫にヒカルの黒い身体がビクリと震えた。一体何が? もしかしてあいつが近づいてきたのか! と触覚を効かせるが、まだあのオークは何が起きたのか理解できてない様子で、きょろきょろと辺りを見回していた。
尤も今の彼女の声で確実に気づかれてしまったと思うが。
そして彼女は彼女で涙をボロボロと流しながら、絶叫につぐ絶叫と、更にその小さな身体をイヤイヤするようにジタバタさせ、半ば錯乱状態である。
「お、落ち着いて! 俺は別に――」
そういってヒカルがその顔をぐっと彼女の前に近づけた瞬間――アヒュッ! と喉を鳴らすような声を発し、そして白目を向いてぐったりとその腕の中にもたれ掛かってきた。
……どうやら気絶したようである。
「――マジですか?」