第二話 ゴッキー先生
ヒカルはうんしょ、うんしょと穴を抜けた。
入り口の狭さに比べると中は先太りになっていて多少はマシである。
まぁそれでもヒカルが中腰でいられる程度ではあるのだが。
当然だが辺りは一面岩場で湿気もある。あまり長居はしたくないが――
「ぶひゅ~ぶひゅ~……」
穴に潜り暫く進んだ所で、あの化け物の鳴き声が耳に届く。
思わずヒカルは息を潜め、それの通りすぎるのをまった。
暫くオークはその辺りを右往左往していたようだが、ヒカルの姿がないことで一旦諦めたのか、そのまま穴の前から遠ざかっていく。
ヒカルは思わずホッと深く息を吐き出した。とりあえずは上手く撒けたなと安堵する。
しかしだからといってすぐに穴を抜けようとは思えない。出た瞬間に鉢合わせなどになったら目も当てられないからだ。
仕方ないな、とヒカルは少し考察したのち、なんとなく先に続く洞窟の中を進んでみることにした。
このまま黙ってるよりは時間も潰せそうであるし、ちょっとした冒険気分でもある。
小さな頃田舎で探検と称して山を歩き回ったのを思い出す。
あの頃はちょっとした穴でも何かとんでもない宝物を見つけたような気分になっていた。
その時の思い出がふと蘇り、妙に楽しくもなってきたりしている。
穴は見たところ真っ直ぐと続いているようだ。高さは今の状態を維持してるようで、その隧道のような場所を四つん這いで進んでいく。
だが折角の冒険はそこまで長くは持たなかった。数十メートル程進んだ先が穴の出口で、ちょっとした空間に繋がったのである。
ヒカルは穴の出口で向きを変え、尻を穴側に向けた状態で脚を片方づつ落としていく。
下の地面に爪先が届いた感覚を確認し、もう片方の脚も下ろし、そして最後に全身を下ろした。
そして中を確認する。
天井の高さは大体ヒカルの頭一つ分上。広さは間取りで言うなら四畳半ってところか。
特に何か変わったものがあるわけでもないので、ただの自然に出来た空間って雰囲気ではあるが。
しかし立ち上がれるのは素直にありがたいと思った。少なくとも圧迫感は先程よりは和らいでいる。
この広さなら生前住んでいたボロアパートとも何も変わらない。畳がないぐらいである。
とはいえ、何もない空間だ。当然鼻をつく湿った土の匂いはそこまで気持ちのいいものではない。
ある程度時間を潰すにしてもやっぱり長居はしたくないな、と思い更に周囲を見回すと――ガサッと目端に蠢く小さな影。
反射的にそちらへと身体を向ける。己の視界に飛び込んできたのは細長い黒い塊。
それは彼もよく知る生き物であり、生前腹を壊したきっかけとなったもの――
――カサカサカサカサ……
そうゴキブリであった。
「異世界にもゴキブリはいるんだなぁ……」
感慨に耽るようになんとなく呟く。だが手を出そうとは思わない。恨みだってない。
あの時は今思えばどうかしてたと自分でも思うが、ゴキブリからしてもとんだ災難だったのは事実だろ。
それに例えゴキブリ一匹でもこの異世界では微笑ましく思える。突然狂ったように追いかけてきたオークよりは遥かにマシなのだ。
『まさかこんなところに人間が来るとはな。珍しいこともあるもんだ』
(え!?)
ヒカルは思わず辺りを見回し、人の姿を探した。今耳に届いた言葉はほぼ間違いなく人のものであったからだ。
だが――いない。当然だ、ヒカルが通ってきたのは人が一人やっとくぐり抜けられる程度の穴だ。
他に誰かやってきたなら気づいているし、抜け出たこの空間も誰か人が他にいたらすぐに判るほどの広さしかないのである。
そしてヒカルが入ってきた穴にも誰かがいる様子はない。穴を除くが何もみえない。
じゃあ、一体誰が口を聞いたのか?
まさか! とヒカルはあの黒い生物に顔を向ける。
『なんだこの人間は? 先程から随分と落ち着きのな――』
「ご、ゴキブリが喋ったぁああぁあああ!」
ヒカルの叫びが空間内に木霊する。するとゴキブリの小さな身体から生える触覚がぴくりと揺れ動いた。
『まさか貴様。私の声が聴こえるのか?』
改めて聴くと随分と落ち着きのある声であった。ゴキブリでありながらも、どことなく知的に感じてしまい、最初は驚いたヒカルであったが妙に恐縮してしまう。
「あ、はい。なんか聞こえます」
『これは驚いた。全く長生きはしておくものだな。こんな珍しいものに出会える日がくるとは』
触覚をぐるぐると回しながら、そんな事をいうゴキブリ。
しかしヒカルはそもそも一体どこから声を出しているのかと気になってしまうが、それよりも――
「あの、その感じだと、貴方の声を聞けるものはそうはいないって事でしょうか?」
『当然であろう。まぁ声といっているが、これはそもそも思念のようなものだからな。ゴキブリの思念を感じ取れる人間など一万年を生きていた私でも初めてであるぞ』
思念というとテレパシーみたいなものか、とヒカルはひとり納得し頷いた。そもそもテレパシーで会話できる事自体驚きだが、豚の化け物が普通に歩いている異世界だ、その程度で驚いていても仕方がない。
『ふむ。私はお前に興味が出てきたぞ。ところで貴様は何故このような洞窟にまでわざわざやってきたのだ? 人間が来て楽しいところではないだろう』
ヒカルは、あ、それは、とこれまでの経緯を話した。異世界に来たなんて突拍子もない話かなとも思ったが、一万年も生きてきたなら何か知っている可能性もある。
『ふむ。つまりお前はこことは全く別の世界からやってきて、気づいたらこの近くの山で倒れており、更にどういうわけかオークに追い掛け回されているという事だな?』
「まぁそういう事ですね」
理解がはやくて助かるな、とヒカルは安堵した。
「そういう話とか聞いたことありますか?」
ヒカルは今度は自分からゴキブリに質問する。
『残念だがそのような話は私も初めて聞くな。面白い話ではあるが大分突拍子のないものだ』
「そうですか……やっぱり信じてもらえませんよね」
『いや信じるは信じるさ。私はこの触覚である程度相手の感情を知ることが出来る。お前からは嘘の感情は伝わってはこないしな』
「凄いっすねその触覚……」
ヒカルは素直に感動した。
『とはいえお前がこの私と思念をかわせているのは、もしかしたら最後に食べたという地球という星のゴキブリが要因なのかもしれないな』
「あ! いや、なんかすみません」
思わずヒカルはゴキブリに向かって頭を下げた。
『うん? なんで謝る?』
「いやだって、仲間を食べてしまったし……」
『ふむ変わったことを気にする男だ。いや人間とは時折そういうところがあるな。お前は腹が減ったからそれを食べたのだろう? 腹が減って生き物を食べるなど自然の摂理みたいなものだ。私はいちいちそんな事で腹を立てたりはせんぞ』
ヒカルは恐縮しながら頭を擦り、
「そういって頂けると……」
と愛想笑いを浮かべる。
『さて、ところでお前これからどうするつもりなのだ?』
一旦話に区切りがついたところで、ゴキブリがヒカルに訪ねてくる。
その言葉に、え? と顎を掻き。
「いや自分もどうしていいかって感じですが、とりあえずオークというのがいなくなったら外に出てみようかなと」
『ふむ、外にでるか。それは構わぬが貴様はそれでオークから無事逃げることが出来るのか? この森は広い。ここから出るにしてもかなりの距離を歩くことになるぞ。この当たりにはオーク以外にも猛獣の類もいるしな。もしそういったものに襲われて特にこれといった武器も持たず切り抜けられるのか?』
「そ、そういわれると……自身がないです――」
もしかして異世界にきた事で身体能力が上がってるのかもしれないとも思ったが、確信はもてないし、そもそもオークにも勝てないようなら生き残れる確率は絶望的かもしれない。
まぁそもそもあのオークも規格外の強さではあったが。
「そう考えると俺、もう詰んでるぽいですよねぇ」
『そうでもないぞ』
目の前のゴキブリが妙に自信ありげに応える。
『今いったように、このままではお前は外に出た所であっさりオークや魔物の餌にされる可能性が高いが、お前は正直運がよい。この私と出会えたのだからな』
ヒカルは大きく首を傾げた。何故ゴキブリと出会えたことがそこまでの話になるのか。
いや、会話が出来るゴキブリは確かに凄いとは思うが――
『さて、そこでひとつ提案だが、お前この私と契約せぬか?』
「え? 契約?」
ヒカルは思わず目を丸くさせ問い返した。ゴキブリと契約というのがいまいち理解できない。
『そうだ。私はこの一万年いきてきて、理論的には他の生物と契約し我が力を与える息にまで達している。ただこれまでは契約出来るような相手がいなくてな、少々寂しかったのだが、私と会話できる知識を有する貴様であれば私と契約するに相応しい』
「はぁ。力ですか? でも契約って一体何をどうすれば?」
正直いまだ思考は追い付いていないが、話を聞くぶんには契約することでこのゴキブリの力が手に入るらしい。
ただゴキブリの力といわれても正直ピンとこないのだが――
『契約の仕方は難しいものではない。お前が一度地球でやってる方法に近いぞ。この私を嚥下すればよい』
「嚥下って飲み下すって事ですか?」
このゴキブリ難しい言葉知ってるな、と、どうでもいいことを思う。
『その通りだ。一応いっておくが噛んだりはしないことだ。これは我が身可愛くていっているのではない。我らゴキブリの身体は鋼鉄以上に硬いからな。噛んだりすれば貴様の歯が折れるぞ』
「異世界のゴキブリすげぇえええぇえ!」
ヒカルは素直に感動した。正直喋れる以外は地球のゴキブリと変わらないと思ってたので、その頑強さには驚くばかりである。
さてどうする? というゴキブリの確認。正直ヒカルは悩んだ。普通であればゴキブリを飲むというのにも躊躇するものである。
だが彼は一度ゴキブリをその口で喰らい飲み込んでいる。今更それをためらう必要もないか、とまずその問題はクリアーし。
後はそれにともない――
「あの、何かリスクとかはあったりするのですか?」
そう、それを聞いておかねばいけない。こういった契約というものには大抵リスクはつきものだ。
『リスクか? まぁ私も行うのは初めてだから何が起きるかなんて知らないが、まぁ失敗したら死ぬとかその程度だろ』
「いや、その程度って……」
随分軽く言うなとヒカルは思った。が、よく考えたら多分自分は一度死んでいる。それなのに死のリスクを恐れても仕方がない。
第一ここで契約を結ばなければ、外に出てあのオークに殺されるかヘタしたら死んだほうがマシな事もされるかもしれない。
『そういえばオークというのは、男も女も関係なく突っ込むのが好きだったはずだな』
「是非とも契約させて頂きます! ゴッキー先生!」
思わず土下座してしまっていたヒカルなのであった。