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独白monologue

作者: tetsuzo

第一章 絵里

私の家は北上川を盛岡より二十五キロほど下り、和賀川という支流と合流する地点から西に五キロ支流に沿って上ったところで、上江釣子と申す至って静かな農村にございます。江釣子の伊藤と言えば、知らぬ人のおらぬ位、あの辺りでは名の通った旧家です。大庄屋であった曽祖父が一帯の灌漑用水を苦労して引き、新田五千町歩を開発、新たに小作人となった住民は三千世帯にも及んで、並ぶもののない素封家でございました。大きな古い家でして、使用人、郎党、女中衆など五十人以上が共に暮らしております。伊藤家の長男として生まれた私は、幼児より何一つ苦労することもなく大事に育てられ、家業である農業に携わることもありませんでした。自分で申すのも気が引けますが、生まれつき頭がよく学問が好きでしたので、百姓ながら、親掛かりで遠く大坂の大学に学び、東京の大企業に少しの期間働いて世間を一通り学びますと、親の言いつけを守って、この江釣子に戻ってまいりました。戻ってはまいりましたが、家業を継ぐにはまだ早いと勝手に決めて、ブラブラと遊んで暮らしております。友人達は早く身を固めろとか、熱い恋愛をしろとか頻りに薦めるものもおりましたが、一向にその気もなく漫然と日々を過ごしてきたのでございます。家には江戸時代曽祖父が灌漑用水の取り入れ口に自然石の巨岩で築いた堰の近くに、自生していたぶなの苗木を記念にと庭木として数本植えたものがあって、今では三十mを超える巨木に育っております。庭の西側にその木々があって、広げる枝葉が心地よい緑陰を作ります。夏になりますと、家族のものや手伝いに来る近隣の方々は、その木陰に筵を引きその上に座って、農機具の手入れ、野菜や穀物を広げ乾燥させたりしながらお喋りに興じます。食事もそこで取ることも屡ありまして、楽しみの一つなのでございます。昨年の秋のことでした。十月も半ばを過ぎましても、暑気が強く、採り入れが終わって大量に出る稲柄で藁を綯い、草鞋などを皆で編んでおりました。私も無聊を慰めんと、仲間に加わって打ち興じていたのでございます。小作人の一人の主婦が多量の藁束を背負い、見目麗しい少女を連れてやってまいりました。

「あらぁ、若旦那様。お珍しいこって。こげな筵にすわらっしゃって、草鞋造りだすか?この子、絵里っちゅうます。おらの娘でがんす。お見知りおきくだっしゃい。仲間サ入れてくだせえ」

娘は恥ずかしそうに顔を赤く染めて、もじもじしている。

「絵里さん。私はこの家の後継ぎ、一弥と申します。さ、さ、どうぞ隣にいらっしゃい。おふくろ。そろそろ三時になる。オヤツの時間です。皆様に茶菓を振舞って下さいな」

「はい、はい。一弥さん。今日はもらい物の賢治最中が一杯ありますよ。それに取れたての胡瓜やトマトを井戸で冷やしてあります。うめ、かめ。お前達運んできなさい。お客様もおいでじゃ。綺麗に盛り付けてナ」

大笊に最中や野菜を山と積んで、女中のうめ、かめが運んでくる。一弥はその中から美味そうな胡瓜とトマトを選んで小皿にとり、早速絵里に薦める。

「絵里さん。農場で今朝採ったばかりの野菜です。召し上がってください」

「は、はい。でも、ぼっちゃまがお採り下さるなんて、困ってしまいます」

「なに、遠慮はいらないよ。お食べなさい」

「わっ、美味しいわ。ひんやりして新鮮。歯ごたえもあるのね」

私ははにかみながらも、笑って食べる絵里に見とれました。横に投げ出された真っ白な美しい足や、手入れの行き届いたツヤツヤの腕や手、うつむいた首から覗く細いうなじ、きりっと開いた強く美しい眼、仄かに開いた愛らしい唇を見、長い艶やかな黒髪を撫でてみたくなりました。絵里の母親は用事があると言って、先に帰ってしまい、他の皆も畑仕事に出てしまいました。私と絵里はそのまま夕暮れまで和気藹々に楽しいお喋りをして、すっかり絵里と仲良くなっていました。はきはきした物言い。明るくて楽しい話題。普段無口な私も都会での仕事の様子やら、都会の女性には最後まで馴染めなかったことを話しました。夕日が庭の芝生を赤く染め、空高く雁が飛んでいくのが見えました。

「絵里ちゃん。送って行こう。家は遠いの?」

「宇南の方です。小一時間ぐらいかかります。でも田圃の間を抜けて行きますから、気分がとってもいいんです。私この地で生まれ育ったし、江釣子が好きです。勿論貴方の曽祖父様が水を引いてくれたお陰で、こうして楽しい暮らしが出来るんです」

私は少し遅くなると家のものに告げて、絵里と一緒に道に出ました。

「きみ。幾つなの?」

「女性に年を訊くなんて失礼ですよ。でも絵里、かずさんのこと好きになったから、こっそり教えちゃおうかな。十八です。短大一年。服飾学専攻で、ファッションデザイナーになるのが夢です。私ダナキャランみたいな、華やかな洋服、デザインする女性、素敵だと思う。貴方の洋服のコーディネイトしてあげましょうか」

「それは嬉しい。絵里ちゃん。手繋いでいい?」

「あら、私達今日始めて逢ったのよ。もう手をつないで歩くの。村中の噂になるわ」「そうだね。初めてじゃまずいか」

私は横に立って歩きました。絵里の肩まである長い髪が風に靡き、時たま顔にかかります。その都度ノースリーブのブラウスでその髪を両手で掻き揚げます。真っ白な窪んだ腋や、ボタンを外したブラウスの隙間から、胸の膨らみが覗いてしまいます。手を繋ぎたかったのですが、身体が硬直したようにコチコチになって、触ることが出来ません。道は山の端を緩やかに上って、曲がりくねりながら、何処までも続いています。夕日が赤く二人を照らし、影が長く伸びました。厚く積もった落ち葉は、かさこそ音をたてますが、歩くには優しく、気持ちいい。私は歌をハミングして歩きました。すると急に絵里が腕を絡めてきました。

「かずさん。格好いいね。又逢いたいな」

「本当?嬉しいな。ねえ、絵里ちゃん、今度のクリスマス何か予定ある?良かったらうちに来ない?二人だけのクリスマスしたいな」

「嬉しいィ。私今年は誰も誘ってくれる人いないから、一人で旅行にでも出ようかなんて、思っていたのよ。ねえ。何か楽しいプラン立てましょう?来週、北上でお逢いできません?ピザの美味しい店で」

「ピッコロじゃない?僕も知っているよ。そこで夕方五時。待ってる」

絵里の家に続く曲がり角まで来ました。お別れです。私は抱きしめてキスをしたかったのですが、勇気が湧いてきません。

「じゃ」

「さよなら。又ねー」

そうして別れました。ああ言えば良かった、こうしてあげたかったという後悔が直ぐに押し寄せました。耐えられぬほど絵里が好きになってしまいました。次の日から思うは絵里のことばかり。一週間がこれほど長く感じられたのは、初めてです。やっとその日が巡ってきました。私は白いセーターの上に黒のブレザーを着こんで目一杯のお洒落をして、リストランテ ピッコロに急ぎました。途中花屋で赤いバラ数本を買い、店の扉を押しました。馴染みの店なので奥まった静かな席を用意してもらっています。まだ四時半です。待ちました。約束の五時を過ぎても、中々絵里は姿を表しません。時計を何度もみたり、携帯をかけようかと迷っていました。でも、たった五分しかたっていないのです。カランとドアに付けたベルが鳴りました。直ぐ入り口を見ました。白い厚手のダウンジャケット、黒革のパンツを着た絵のように美しい少女が現れました。絵里です。

「ごめんね。お待たせしました?」

「ううん。今来たところ。丁度良かった」

絵里は斜め横の席に案内されました。そしてゆっくりジャケットを脱ぎます。目の覚めるような淡いブルーの柔らかいニットのタンクトップ。ピンクのルージュが濡れて光っています。私はドギマギしてしまいました。この前あったのは、野良仕事の帰りで、全くの普段着でしたが、今日は初めてのデート。お洒落しています。

「え、絵里ちゃん。吃驚した。可愛いよ」

「そうですか?私ファッションの勉強してるでしょう。だから自分が着るものも悩んで買ってるの。似合いますか?」

「凄く似合ってる。キミ小顔だから、そういうダイタンな服着ると、引き立って素晴らしい。素敵だ。赤いバラ好きですか?そこで買ってきました。受け取ってください」

「バラですか。勿論好きです。嬉しい」

初々しく微笑む絵里を見、私はおもわず口の中でスキと言っていました。ワインを飲み、ピッザやアンティパストの鴨や野菜のテリーヌを摘まんで、楽しく話しました。学校のこと、仕事のこと、家族や友達のこと。どれも楽しく癒されました。

「絵里さん。僕クリスマス迄に部屋を飾り付ける。僕の部屋は昔養蚕をしていた屋根裏なのですが、囲炉裏の煙で柱や梁、天井板は煤で燻され木目も解らない位黒光りして暗い部屋なのです。そんな部屋に、綺麗な絵里さんをお招きできません。この際、思い切って改装しようと思います。どんなインテリアが好きですか?」

「そうね。私北欧のロマンチックな内装なんか好きよ。ほら、白木を生かしながら赤や緑のアクセントカラーを使う、メルヘンティックなお部屋。そういうの理想だなぁ」

「そうですか。私はオランダの建築家リートフェルトが好きで、ジグザグチェアやRed&Blueチェア、シュレイダー邸等、明確なフォルムと清潔なベースの色彩に鮮やかな原色を巧みにアクセントとして挿入する手法に惹かれています。偶然貴女の好みと一致しました。絵里さん。私が建築を学び、故郷に戻った本当の理由は、江釣子の優れて豊かな自然を生かしながら、何処となく暗くて陰鬱な集落の光景を少しずつ変えて行こうと心に誓ったからです」

「そうだったの。素敵な夢ね。私も頑張らなくっちゃ」

その日以来二人はすっかり仲良しになりました。絵里の家は伊藤の小作でしたから、毎日農作の報告を上げねばなりません。今までは母親が毎朝報告に来ていましたが、どう言いくるめたのか絵里が来るようになりました。学校へ行く前、必ず寄るのです。私がスケッチブックに描いた故郷の光景に手を入れ、彩色したりしていますと、後ろから覗き込んで、これはあそこねとか、これはあの家ねとかはしゃぎ、じゃれるように背中に抱きついたりするのです。私の母親が気になるのか、嫁入り前の娘はそんなことをしてはいけないとか、服装が派手だとか言って、たしなめます。大事な跡取息子の嫁は自分で選びたいのでしょうか。

「絵里さんはいつも一弥のところに入り浸る。私の目に余ります。絵里ももう子供でないのだから、若い男に抱きついたりしてはいけません。ふしだらなことですよ。私はなにもお付き合いしてはいけないとは申しません。只、小作の身でありながら、若主人にそう馴れ馴れしく纏わりつくのはどうかと思います。お前は私に農作物の出来具合の報告をすればよいのです。他のことはしなくて宜しい」

絵里は真っ赤になって俯いて、恥じ入る仕草をします。しかし、其の後も一向に私を訪ねることを辞めようとしない。それどころか、クリスマスに向けての部屋の改造計画を手伝いたいと言い始めました。私を愛する気持ちが世の習いやモラルを超えて、行動を押し止めることが出来ぬようなのです。

「ねえ、かずさん。私こんなスケッチしてきたよ。見てくださらない?」

「どれ、どれ。わ、素敵じゃないか。これいいね。取り入れようか」

「嬉しい。私これから学校行くよ。帰り又寄っていい?」

「うん。ねえ、絵里ちゃん。今度の休み、二人で材料や工具買いに行こうか」

私の方は絵里に会うことが嬉しくてたまらず、更に一緒に協力する仕事が出来て有頂天になりました。

「おかあさん。絵里さんを遠ざけるのはどうかと思います。私達はなんにも疚しいことはしていませんし、世間体ばかり気にしていては、伊藤の名を寧ろ汚すと思います。自由闊達が我が家の伝統と思います」

「でも一弥。小作人と地主が出来てしまったら、全く示しがつきません。伊藤の家と小作の関係は、伊藤が指示し、小作に良い作物を沢山作ってもらう持ちつ持たれつの間柄。それが一緒になってしまえば、この関係は崩れてしまうのですよ。しかも彼女の父親は早く亡くなって母親と二人きりの暮らし。農作物も小作の中で尤も少ない家です。生活も貧窮しています。だから村人の誰もが後ろ指を指すのです」

「おかあさんは絵里が我が家の財産目当てに私と親しくしているとでも仰りたいのですか。許せません」

「そうは言っていませんよ。庄屋はその立場を忘れてはいけないし、少しでも村人から悪く言われぬよう身辺を綺麗にしておかねばならぬのです」

話し合っても結論の出る話題ではない。理不尽な悔しさから一弥は自室に篭った。だが、母親の忠告を守ることは到底出来ず、次の日曜日連れ立って材料を買いに出かけました。壁材は板を寸法通り切断し鉋をかけ、釘で止め、ペイントを塗る。鋸を使う私の横で板をしたを懸命に押える絵里を見て、心底美しいと思いました。絵里は控え目です。純粋で少女そのものです。化粧は薄く、長い黒髪は透き通ってサラサラです。色白の長いスラっとした脚、華奢ですべすべの腕と手、茹でた卵のような透き通った白いツヤツヤな顔です。少しでも気になることがあると気の毒なくらい顔を真っ赤に染めて恥ずかしがります。愛らしいのです。こんな子と笑いながら一緒に作業しました。楽しいに決まっています。一月以上かかって部屋の内部の黒ずんだ田舎屋の表情は姿を消し、生まれ変わりました。おとぎの国のような、メルヘンティックな、北欧風のインテリアです。二人が座れる小さな椅子も作りました。豪壮で古めかしい家の中に異境のような愛らしい空間が二人の協力で出来ました。クリスマスイヴは願ってもない小雪のちらつくホワイトクリスマス。前日より降り積もった雪は二十センチ、田畑も木々も白く染まってロマンティックなムード満点。絵里ちゃんとは夕方、江釣子の隣駅、藤根で午後六時に待ち合わせです。私は家のベンツにスノータイアを履かせ、自分で運転して行くことにしました。ブロ〜ン。ドイツ製の車は一発でエンジンが罹り、駅まで一走り。広い北上平野は一面の雪原です。無人駅の小さな駅舎に彼女は寒そうにして待っていました。

「ごめんね。待った?」

「ううん。今来たところよ」

「さ、乗って。暖房強くするね」

私は絵里の可愛らしい姿を見て、思わず涙ぐみそうになりました。フワフワの真っ白なうさぎ革のハーフコート、ブルーのモヘアのマフラー、ルージュは真紅で燃えるようです。キラっと光る眼は何かを訴えているように見えます。萌黄色の巻きスカートにショートブーツ。雑誌に出ているどのモデルより美しく、気高く、清らかなのです。私はこのような美しい少女と二人きりで逢う気恥ずかしさから、彼女の服装や表情を誉めることも出来ません。ただじっと見つめただけです。彼女も車の中に入って暖められ、頬を染め、私を見ています。家にはすぐ着きました。母親に余計なことを言われないように、裏玄関に案内しました。もじもじ遠慮して直ぐには家の中に上がろうと致しません。私が何度かせかしてやっとブーツを脱いで上がってくれました。その場でコートを脱ぎますと、白い絹のブラウスです。襟元に細かなレースの飾りが付いています。口紅に合わせた真紅のマニキュア。細くて長い指に少し伸ばして先端をカットした爪です。仄かに唇を開いて「お邪魔します」と小さな声で言いました。急な狭い階段を上がり、頑丈な板戸を開けると僕の部屋です。

「さあ、遠慮しないで中に入ってください」

二人で考えて作り上げた、インテリア。私は前の晩遅くまで掛かって飾り付けをしました。色とりどりの豆電球をめぐらし、山で掘り出した樅の木のツリー。

「絵里ちゃん、ちょっと待ってね。キミの為料理を拵えたんだ。取ってくるから」「私一人になると淋しいから、すぐ戻ってね」

大きなテーブルを白い麻のクロスで覆い、床に赤と緑のクッションをおいておきました。私は駆け足で階段を下り、用意した料理を運び上げました。蝋燭の火を点すと、窓の外に音も無く降りつづける雪が見えます。隣り合ってテーブルの前に座りました。

「静かね。宇宙の中で二人きりっていう感じがする」

蝋燭の炎が絵里の目に映っています。部屋は広くないから、自然と肌が触れ合うほど接近してしまいます。

「冷めないうちに食べよう」

香ばしく焼いたパン。鳥腿肉と香り焼き、ポタージュスープ、色とりどりの野菜スティック。グラスにシャンパンを注ぎます。用意したCDを低い音で流しました。とても小さな声で絵里が口を開きました。

「美味しいわぁ。これ皆、貴方が作ったの?」

「うん。絵里の口に合うかとっても心配だった」

「絵里、こんな素敵なクリスマス、生まれて初めてよ」

絵里は夢見るように遠くを見つめていました。

「手握っていい?」

私は食べるのを途中で止め、腕を下から差し入れるようにして真っ白な手を握りました。膝や腰が触れ合って体温が伝わり、芳しい香りに包まれました。

「キミってどうしてそんなに可愛いの?」

絵里は答えません。赤くなって此方を向き、眼を伏せています。仄かに開いた唇。ブラウス越しに胸の動悸が伝わってくるように、僅かに上下しています。私は夢中で握った手を引き寄せ、唇を重ねました。例えようもなく柔らかな唇。彼女の匂いが伝わってきます。何度も唇を合わせました。絵里が小さな小さな声を上げたように思えました。ずっと抱きしめていました。

「だいすき。絵里」

「かずや・・さん。好き」

暫くして、ケーキを食べ、プレゼントを交換しました。私は幸せ感で一杯になり、又すぐ逢おうと約束しました。駅まで送りました。短い別れがこれほど辛いとは想像できませんでした。

「好きだよ。絵里。大好きだ」

二人は別れの口付けをしました。急に切なさがこみ上げてきました。絵里も薄っすら涙を浮かべているようでした。

「一弥さん。大好きよ」

列車が入ってきて別れねばなりません。ベルが鳴り終わるまで口付けを繰り返しました。私は彼女と出合った幸せを噛み締めておりました。その日以来、自分の頭の中はすべて絵里に占められてしまいました。絵里。絵里・・キミは今どうしているの?何をしているの?熱病に浮かされたように絵里のことばかり考えていました。そんな私の呆然とした様子を見て、母親は心配して注意を促すのでした。

「一弥。お前仕事に心が入っていないようだ。もし絵里さんのことを考えているなら、そんな考えすっぱり諦めなくてはなりません。何度も言うようだが、お前は絵里さんとお付き合いしてはならぬ立場なのです。好きになってはいけない間柄なのですよ」

私に答えられるわけも無い。思慕する気持ちは日増しに高まるだけでした。母親の目を盗んでちょくちょく逢っておりました。雪の降る正月明けに、二人で町に出、カラオケに行ったこともございました。その時大失敗してしまったのです。絵里が可愛らしく歌を歌っていたとき、魔が指したのでしょうか、可愛さ余って、ちょっとからかってしまったのです。純粋で、可憐さ故、今まで他人からからかわれることなど無かったに違いありません。私の一言がひどく傷つけてしまいました。怒って泣いてしまったのです。動転した私は謝ることもそこそこに別れてしまい、あとでとても後悔しました。以前学んだ先生に相談すると、ひたすら謝り続けるようにと注意されました。電話をしてもメールをしても返事はありませんでした。私は無視されつづけても何度も繰り返し謝りのメールを書きました。心底自分が悪かったことを詫び、仲直りできるようお願いし続けました。謝ることで彼女が類稀な純な心を持ち、私のことだけを好いていることを知りました。やがて彼女はわかってくれ、私の不快な言葉を許してくれました。仲直りができました。その時彼女はバレンタインデーに私に贈るプレゼントをどうしようか悩んでいると伝えてきました。バレンタインデーにも私の家に来てもらうつもりです。この辺りは田舎の全くの田園地帯ですから、デートするのに相応しいお洒落な店もホテルも無い、恋人同士には不便な土地なのです。母親はますます私と絵里の行く末に不安がり、身体の関係には絶対なってはならぬと言っています。私が彼女と逢っているのを知り、咎める。禁止されればされるほど、燃え上がるのが恋の慣い。

「おかあさん。僕はもう二十五です。あんなに可愛らしい絵里さんを好きになって求め合うのは、自然のなりゆきです」

「一弥。お前は伊藤二十六代の当主となる運命なのですよ。江釣子三千世帯、一万三千人の命を預かる大事な役割りを果たさなければならないのです」

「絵里さんと一緒にその役割りを果たす決心です。彼女との結婚を許してください」

「そんなことが出来る位なら、とうに許しています。お前は当主に相応しいそれなりの家から嫁を採らねばならない。顔や身体は二の次。家柄が伊藤家に吊り合わなければならぬ」

「言い方が旧すぎる。明治時代ではあるまいし。第一、伊藤のどこが凄いのですか?バカバカしい。私は自分で選んだ人を伴侶と致します」

私は母の言葉に激しく反発しました。暫く口を訊くこともありませんでした。バレンタインデーの日、江釣子村は厳しい寒気に見舞われました。絵里ちゃんには家まで来てもらうことにしています。随分後悔しました。この寒空の雪の中、歩いてやってくるのですから。その代わり昨晩から万全の準備をしました。朝四時田老の漁港に行って三陸の荒海でとれる鮑、牡蠣、蟹、蝦、帆立、蛤、鮭、あんこう、鱈、河豚、白子、烏賊鰯等取れたての魚介を大量に仕入れてきました。これで寄せ鍋を作るのです。野菜は我が農場の最上等のものを使用します。茸、白菜、ほうれん草、牛蒡、葱、大根、人参、蒟蒻、豆腐その他です。私は一人暮らしの経験もあり料理は得意ですから、捻り鉢巻で早速下準備に掛かりました。江戸時代より伝わる巨大な絵皿五枚に魚介や野菜を小奇麗に切って盛り付けます。炭火を起こし、南部鉄器の口径一mもある豪快な鍋に利尻昆布を引いて水を加え、沸騰させます。大忙しのうちに約束の時間十二時が迫ってまいります。私は手早く準備を終えると、取って置きのアルマーニのブレザーを着込み、ざっと髪を梳かし、シャツはわざとボタンを外して、絵里の来るのを待ちました。十一時五十分、携帯が鳴り、絵里が裏口に来た事を知らせます。母は親類の家に行って留守なのですが、安全のため表玄関を使用しないのです。私は転げ落ちるように階段を駆け下り、絵里を出迎えました。

「ごめんね。寒かったでしょう。早く中に入って」

絵里はこの前来ているので、直ぐに靴を脱いで上がって来ました。マリンブルーのリーファージャケットを脱ぐと、ショッキングピンクの身体にピッタリとついた薄手のニットのセーターにシルバーグレイのミニスカート。金のネックレス、腰にも同じデザインのチェーン、ピアスもゴールドです。部屋は大鍋の湯気で春のように暖かい。忽ち絵里の頬は薔薇色に染まり、ピンクのルージュ、マニュキュアにぴったり。

「少し暑いくらいね。セーター脱いでいいかしら」

「どうぞ。僕も上着脱いじゃう」

絵里のインナーは白い薄絹のチューブトップ。どぎまぎしてしまいました。あまりの可愛さからです。

「これ、バレンタインのプ・レ・ゼ・ン・ト」

紙袋に入った大きな箱を取り出しました。ピンクのリボンが掛かっています。

「開けて見ていい?」

「うん」

中身は手作りのガトウショコラでした。以前僕がそれが大好物だと言ったことがあるのです。嬉しくて少し涙ぐみました。

「ありがとう。先に僕の作る寄せ鍋食べようね。美味しいよ」

煮立った鍋に純米酒と塩少々を加え、白身魚、野菜、赤身の順にいれ、ポンズで食べるのです。鍋の前に肩を寄せ合って座り、私が煮えたものを次々よそってあげました。

「お、おいしィ〜。とっても美味しいわ。一弥さんって何でもお上手ね」

完全に満腹にならぬ内に火を止め、料理を片付けて紅茶を淹れました。丸いケーキをナイフで切り分け食べることにしました。生クリームをたっぷりかけた、ガトーショコラの素晴らしい甘い匂いが漂ってまいります。スプーンで一口食べようとしますと、頬を寄せていた絵里がいたずらっぽく微笑んで、「食べさせてあ・げ・る」と言ったので、すぐ頷きました。絵里の右手は私の腰に回されています。左手でケーキを掬って口に入れてくれました。絵里の唇が直ぐ傍に迫っています。

「どう、美味しい?」

甘い香りが絵里の匂いと混じり、髪の毛が私の頬を弄るようにします。

「今度はお茶飲ませてあげる」

紅茶に砂糖をたっぷり加え、口に含むと、そっと私に紅茶を口移ししてくれました。私は興奮し、呆然となり、強く引き寄せ口付けし、舌を入れました。絵里の舌は思いのほか、滑らかで、厚く弾力にとみ興奮してしまいました。

「素敵よ。かずさん」

私は絵里の背中で両手を交差させて手を握っていましたから、唇以外の身体に触れることは適いません。

「絵里。したいよ」

「いけないわ。私達、してはいけない」

「どうして?こんなに愛し合っているのに」

傍らにベッドもあり、このまま結ばれてしまいたかったのですが、可憐な絵里の姿を見て辛うじて思いとどまりました。長い時間、抱きしめて口付けを繰り返していると、行為をしたと同じような満足感が得られました。絵里が帰ったあと私は足が地に付かぬほど興奮し、余韻に浸り、呆けたようになって、寝転んでいました。素敵すぎる。もっと、もっと親しく、仲良くなる、そう決めていました。夜遅くなってから両親が帰ってきました。暫くして女中が私の部屋にやってまいりました。

「お父様がお呼びでございます。仏間までお出ましくださいませ」

「はて、こんな夜更けに。父上が?一体なんの話だろう」

「存じません。でもなんだかとても怖いお顔で私に命じました。一弥さん。きちんとお答えするのですよ」

「うん。大丈夫だ。父は厳しいが、あれで中々ユーモアもある人です。心配いらないよ」

私はそういうと急いで階段を降り、両親のいる仏間に向かいました。

「一弥です。お呼びと聞き参上しました」

「入れ」

私が座敷に入ると、先祖代々の位牌を祀ってある巨大な仏壇の前に、両親が厳しい顔つきで座っておりました。

「そこへ座れ」

「は、はい」

「和江より逐一報告を受けておる。言うまでもない。お前、小作人の娘と付き合っているそうだな」

「は、はい。絵里さんというとても可愛らしい娘さんです」

「そんなこと聞いてるんじゃない。お前、伊藤家二十六代の跡取でありながら、汚らわしい小作の女と懇ろになったと聞く。絶対許さぬ」

「け、汚らわしいとは何事ですか。如何に父上の申されることとは言え、申して良いことと悪いことがございます。撤回してください」

「貴様、息子の分際でこのわしに口答えする気か。いいか。一弥。この伊藤の家はな、曽祖父の弥ェ門殿が苦心惨憺し遠く和賀川よりこの江釣子まで水路を切り開き、かくも豊かな水田が開かれたのである。畏くも明治大帝よりお褒めの言葉を賜り、名誉ある男爵位が授けられた。そこいらの百姓共とは全く異なる名誉ある家系である。爵位を持つ家は華族と言い、子孫代々受け継いで参る。お前も当然男爵を名乗ることになる。華族は国民の師表となるべく華族令に定めてある。それをこともあろうに、自分の奉公人と付き合うなど言語道断。即刻離別せよ。金がいるなら出してやる」

父親の威厳はすざまじく、知らず知らずのうちに一弥は平伏していた。

「ここに五百万用意した。手切れ金だ。これをあの娘の母親の口座に振り込む。本日以降あの娘に逢うことはおろか、手紙、メール、話し掛けたり、目を合わすことも相成らん。これは命令である」

自室に戻った私は一晩中泣きました。次の日も、そのまた次の日も。雨戸を締め切り、家人とも顔を合わさず、ずっと引き篭もって、泣き暮らしていたのでございます。

其の後絵里の消息は一切耳にすることが適わなくなりました。誰も教えてくれません。悶々と日を過ごすうちに、彼女とその母親は村に居たたまれなくなって、どこかへ越して言ったという噂話を聞きました。なにも其処まで追いやらなくてもと、親を恨みました。秋も深まったころ、東京で勉強している友人が江釣子に戻りました。その子と逢って話しを聞くと、彼女も噂話と断って絵里の近況を伝えてくれました。なんでも絵里は母親と別れ東京の下町、深川は門前仲町に一人で下宿しており、最近その下宿を若い男性がしばしば訪れているらしいとのことでした。私は呆然としてしまいました。あれほど好き合っていたのに、もう他の男性とお付き合いしているなんて。然し、良く考えれば、私達は親のあのような熾烈な妨害にあい、結婚どころか付き合うことも話をすることさえ拒まれて、別れざるを得なかった。手切れ金も支払われ、もう再び心を交わすことは絶対不可能になっておりました。そして全ての村人から迫害や冷視を受け追い出されるように村を去ったのです。あれだけの美貌と可愛らしさです。誰も放っておくわけもない。私以上の男性が彼女に近づいてなんの不思議でもありません。断崖から突き落とされたような、絶望に襲われました。私は益々引き篭もりとなって誰とも会わず、口も訊かぬ全くの孤独状態。昔世話になった恩師からの手紙も無視し、一人呆けたように漫然と日を送ることが続きました。ご承知のように年末は例年になく厳しい寒気が押し寄せ、この江釣子も、まるで私の境遇のように深い雪に被われ、孤立して行きました。北上線は豪雪のため運休し、新幹線も高速道路も途絶しました。辛うじて開通したのは押し迫った十二月三十日のことでした。幸い一月一日は朝から晴天で、久しぶりの日差しで暖かく感じました。思い切って私は初詣に出かけることにしました。居間に顔を見せた私に両親は喜んでいました。あまりにも長期間塞ぎこんでいる私を心配していたようです。父親も今ではあのように冷酷に私から絵里を引き離してしまったことを後悔しているようでした。我が子の憔悴しやつれ切った姿を見るのは忍びなかったのでしょう。まるで腫れ物に触るようにバカ親切に優しく接してくれます。面映い気持ちです。何故もっと早くこのように慈しんでくれなかったのかと恨んでしまいます。男爵家とは申せ、所詮田舎者なわけで、元々格式や身分差など都会から見れば大した違いもなく、井の中の蛙だったと考え直したようですが、覆水盆に帰らずです。もう遅いのです。両親から優しくされればされるほど私は心が閉ざされました。しかし私はまだ充分に若いし、食欲もあり極僅かながら徐々に生きる力が身体の底に芽生えてまいりました。そんな正月でした。屠蘇とお節料理、雑煮を親子で食べますと、不思議に力が湧いてきた感じが致しました。母親に紋付と羽織り、襟巻き、足袋などを出してもらいそれを着て、一人で江釣子神社に向かいました。無論村中の人々は我が家の小作でもあり、皆顔見知りです。久方振りの晴天で村人も多数家を出て、初詣に向かうようです。

「若様。おめでとうごぜえまっす」

「伊藤様。本年もどぞお願ェくだっせえ」

「若殿。エエお天気で何よりでげす」

「庄屋様。おめでとさんでごわす」

「伊藤の若君。お世話になり申す」

村人が次々声を掛けてくる。私は少々煩そうに、しかし鷹揚に頷き、挨拶を返す。道は年末、多量に降った雪も掻き分けられ、歩くことが出来る。暫く家に篭っていた私も何となく気分が高揚し、神社が望めるところへ達すると、大層な人ごみで、掻き分けて進むような有様。道の両側には烏賊焼き、豚汁、団子などを売る露店が立ち並び、威勢の良い掛け声や買い物をする村人達の嬌声で溢れています。

「若様。如何でごぜえますか。この烏賊うめえんでがす。一丁お求めにならんかいノ」

「うむ。ワシは今、腹が一杯だ。帰りに買おう」

「お待ち申しあげておりやす」

空堀を巡って広大な神域に入ると、そこも夥しい人々。赤い袴と白衣の巫女さんたちがおみくじや破魔矢、お札などを売っている。神殿までは長い行列が続き、帰ろうとする人とこれから詣でようとする人でごった返し、揉みあいになるほどでありました。漸う神殿の階を登り、賽銭を納め、拍手を打って新年の豊穣や家族の安寧、新しき恋人の出現などを祈りました。戻ろうと階を降り二、三歩進んだ時であります。人ごみの中に、逢いたくてたまらぬ、しかし逢ってはならぬ人を見出してしまいました。心臓が割れ鐘のごとく激しく轟き、息することも忘れ、見つめました。逢わなくなってから、半年以上たちますが、忘れようもない、そう、アノ人、絵里でした。日本髪に華やかな簪、花飾りを差し、少し憂いを潜めた大きな黒目勝ちの眼差し、ほんのり染まったばら色の頬、甘く引いた紅いルージュ、淡いピンク色の振袖には大きな牡丹が染め抜かれ、金赤の帯をキリっと締めてゆっくりと歩を進めています。傍らに絵里と手を繋いだ逞しい男がおりました。擦れ違うとき黙って会釈しました。白檀の香を焚き込めたような甘い香りが、進んで行く絵里の美しくのびたうなじから漂ってまいりました。私は立ち尽くすのみでございました。生肝を抜き取られたかのような、尋常でない喪失感に囚われ、膝をついてしまいたい程でありました。一陣の風が神域を吹き抜け、細かな雪煙があがりました。私の目には巨大な石の鳥居や掛け渡された注連縄、釣り下がっている御幣も、何も見えなくなりました。それどころか、夥しい群集や、そのざわざわとした騒音さえもが消えてしまいました。私は少しだけ振り返って彼女を見る誘惑に耐えたのですが、直ぐに耐え切れず振り向いて彼女の姿を探しました。群集の中に紛れたのか、どう目を凝らしても再び見出すことは適いません。その場に立ち尽くし、戻ってくる姿をもう一度だけ、見たかったのですが、二人は掻き消すように姿を消し、私の前には戻りませんでした。その時初めて涙が頬を伝いました。するとあとから、あとから涙が流れ落ち、辺り構わず嗚咽を漏らしておりました。絶望とはこういうことを言うのでしょう。本当に、永久に絵里を失ってしまったのです。涙の向こうに栗駒の真っ白な頂きが望まれました。神社の周りの疎水は厚い氷で閉ざされ、神域の杉の古木も雪に被われ、時折耐え切れぬように雪を落としておりました。村人は相変わらず次々と参拝に訪れております。皆が皆カップルに見えます。中には私の目の前で抱き合い、唇を合わせる二人もいるのです。大声で叫び出したくなりました。身を悶えて雪の中を転げまわりたくなりました。元はといえば世の規範が二人を引き裂いてしまったのです。全くもって自分の責任ではありません。家やその歴史の違いが、あれほど好き合った二人を結びつけられなかったのです。私と別れなければ、あのような男と恋人同士になるわけは無かろう、そう思いますと、はらわたが千切れるような苦痛に襲われるのでございます。神殿の周囲に巡らされた木柵に凭れ掛かって、やっと立っておりました。其の後どこをどう通って、我が家の自分の部屋に辿り付いたのか全く解りません。呆然自失でありました。気がつくと布団を引き被って縮みこんでおりました。眼が真っ赤になるまで泣きました。何度も絵里の名を叫び、泣きました。正直に申します。父親が絵里との離別を申し渡した時、やがてはその固陋な考えを改め、許してくれるのではないかと密かに考えておりました。半年にも及ぶ引き篭もりは、半ば拗ねてそうしていたのです。二十一世紀の現在、家柄などが原因で別離しなければならぬ人々がどれくらいいるのでしょうか。父親は自分の名誉を維持せんがため、敢えてそういわざるを得なかったのだと今は思います。瓦解していく農村の風景や人間関係。そうしたものを立場上、守らなければならなかったのだとも言えます。しかし、その結果、私と絵里は別れ、そして絵里には新しい恋人が出来た。それだけの事です。しかし、今までの引き篭もりとは比べ物にならぬ悲痛な日々が始まったのです。無感覚。そうです。何も感じることが出来なくなっておりました。只黙って食事をし、寝るだけの生活です。何も面白くありません。友人も次々去って行き、完全な孤独の毎日。時のたつことさえ無自覚になり、生きている感覚が失われて行きました。故郷の美しい光景も疎ましく、邪悪なものとさえ感じておりました・・・・・・・・彼女との思い出になる写真やプレゼントなどは皆焼いてしまいました。でも全く思い切れず、忘れることは出来ません。それどころか日を重ねる度に、益々彼女に対する想いが深まって耐えられません。布団に入ると泣いてしまうのです。そういう日々が何日も何ヶ月も続いておりました。ろくに食事もとれず、やせ衰え、亡者のようになっていきました。

第二章 美咲

或る晴れた春の日のことで御座いました。誰も訪れなくなった我が家の門を叩いた人がありました。驚いたことにこの私を訪ねて遥遥東京からやってきたらしいのでございます。私は誰にも会いたくはないと断りました。その人は執拗に私との面会を強く望みました。何度も断りました。しまいには取り次ぐ女中を怒鳴りつけてしまいました。その時私の部屋の板戸がこじ開けられ、訪ねてきた男が顔を見せたのです。な、な、なんと一年以上音信不通であったB川先生でした。

「あ、あ、B川先生!ど、どうして此処が解ったのですか」

「窓を開けなさい。この部屋は臭気に満ちている」

女中が嫌がる私に構わず窓を一杯に開き、布団を私から引っ剥がしてたたみ、乱雑な部屋を片付け、掃除を開始しました。小一時間たつと狼藉を極めていた部屋が片付き、あの可愛いロマンティックな部屋が再現しました。B川先生と私は話をするでもなく、部屋の外で立ち尽くしておったのでございます。綺麗になった部屋で改めて対面しました。先生は血色も良く元気そうでした。

「一弥君。心配していたよ。私はキミが絵里ちゃんと別れ、塞ぎこんでいるに違いないとずっと考えていた。今日はいい話があるんだ」

「へっ、へい。スカスおらはもう、ムカシのおらではねえ。変っちまった・・」

いきなり先生は私の両手をご自分の手で包みました。とても暖かな手でした。見ると先生の両眼には今にも零れ落ちそうな大粒の涙が浮かんでおりました。

「そんなことは、絶対無い。キミは元のままだ。純真で素朴な表情は昔と全く変っていない」

「だども、心はズタズタだ」

「これから話すことを聞いてくれるなら、キミの心は融け出すよ。これは東京土産の濡れ甘納豆だ。つまみながら話そうか」

「今、おらは人の話を聞く余裕はねえ。こげな甘納豆など食いだかねえ」

「そう言うな。一口食べてご覧。普通のものとは違う」

先生の前では拗ねてばかりはいられず、豆を一粒取って口に入れました。すると思いもしなかったふくよかで豊潤な甘味が口の中に広がり、思わず唸ってしまいました。

「う、うめェ。今まで食った甘納豆とはまるで違う」

「そうだろう。これはお多福豆と言ってな、幸せになる豆だ。S恵ちゃんから教わった」

私はS恵という懐かしい名前を聞いて、忽ち先生の話題に引き込まれて行きました。先生の話術は天才的な閃きがあるのです。先生はご自分のS恵さんとのお洒落デートのことや、クリスマスや年初の初デートの有様を、まるで眼前で見ているかのように詳しく、リアリティ溢れる口調で、身振り手振りを交えながら話してくれました。何時か笑っている自分を発見しました。何ヶ月も笑いなど存在しなかった私が笑ってしまったのです。

「さあ、これからが本題だ。良ォく聞きなさい。キミも知っての通り私には二人の娘がいる。上の娘は昨年結婚したが、下の娘は未だだ。それがナ、去年付き合っていた男からフられ、まるでキミのように塞ぎこんでいる。正月帰った時、丁度キミの話をした。そしたらナ、キミと付き合いたいと言うのだ」

「ま、まさかぁ。しぇんしぇいの娘っこ、東京大学バ首席で出て何でも裁判所に勤めていると聞ぐ。一種公務員試験を通り、司法試験にも合格。そげな娘がなんでおらと付き合いたいと言うんじゃ」

「ほれ、これが娘の写真だ。どうだ、沢尻エリカにそっくり。俺が言うのもナンだが、中々可愛いじゃろ」

「あ、あの一リットルの涙に出てたエリカちゃん・・お、おらの好みじゃ」

「お前の好みの黒髪ではないが、背丈は167cm、色白で胸も大きく、脚は長くまっすぐ。笑い顔が特に素晴らしい」

「すかす、おらと付き合うンであれば、江釣子に来て農業をやってもらわねばならん。ムリじゃ。しぇんしぇい。有り得ねえ」

「それがナ、江釣子で農業やってみたいと言うんだ」

「ヘンでげす。こげなド田舎で都会ェの女が暮らせる訳がねえ。それにおらン家にはおっかねえおとうとおかあが居る。不可能じゃ。我侭一杯に育った娘っ子がで務まるわけあんめえ」

「そう否定ばかりしていては話も進まん。どうだ。一回逢ってみないか」

「だ、だどもオラ話題ェも無ェ。こげなおらん姿サ見たら逃げ出すに決まっとる」

「そうは決まった訳でも無かろう。俺が段取る。来月東京に出て来い」

「す、すかす」

「しかしもかかしも無い。いいか。あとで連絡する。それを待ってろ」

「な、な、なしてしぇんしぇいはおらのごと、そげに気バ掛けて呉れるんじゃ」

「それはナ、私はキミを息子のように愛している。だからだ」

「しェんしェい〜」

私は感激して泣いていました。先生はずっと私のことを気に掛けておられ、塞ぎこみ自閉症に陥ってしまった私を助けるため、遠路わざわざ出向いてくれたのであります。そして眼にいれても痛くない我が愛する娘をこの私にくださろうとしているのです。熱い感動が襲ってまいりました。すぐに両親に今度先生が娘さんを紹介してくれると報告しました。父親は以前絵里と別れろと申したことを、今は深く恥じ、それが理由で跡取の私をノイローゼにさせてしまったのを悔やんでいました。だからこの話を喜び、先生に何度もお礼を言っておりました。母親の喜びはそれにも増して、これで我が子が元気になってくれると涙を零しました。春の日差しは暖かく、残っている雪も間も無く解けるでしょう。そうすれば叉あの素晴らしい江釣子の春がやってくるのです。今まで邪悪に見えた自然が今は以前のように美しく優しく見えてまいりました。そうです。こころの底から活力が湧き出てまいりました。今度こそ必ず上手くやる。そう誓っておりました。先生は引きとめたのにも関わらず、仕事が忙しいと言ってその日のうちに帰京されました。二三日すると先生から分厚い封書が速達で送られてまいりました。そこには至極丁寧にお嬢さんの略歴や性格、人となりが書いてあり、数葉のスナップ写真と国家公務員一種、司法試験合格書複写等が添えてありました。最後にお嬢さんの自筆があり、私と一緒になって農業を志したいという希望が切々と綴られておりました。半信半疑であった両親もこれを見て狂喜したことは言うまでもありません。私は苦労し返書をしたためたのでございます。写真は正に顔は愛らしいが、身体がエロティックという期待どおりでして、逢うのがますます楽しみになったのでございます。漸く絵里への思慕の気持ちが薄れ、新たな恋の予感がしてまいりました。お嬢さんの手紙には自分は今勤め先の名古屋に一人で住んでいるが、五月の連休には実家に戻る予定なのでそこでお目にかかりたいとありました。もう一月を切っております。身辺が俄かに慌しくなって参りました。先生の手紙にもわかりにくい岩手弁は避け、身辺を小奇麗に保ち、できるだけ紳士的に振舞うこと、そして都内一流のお洒落なお店やレストランに連れて行って欲しいと書かれております。私は一時東京で暮らしましたが、殆ど自宅と会社の往復で、たまの休みも近くの公園などに行ったに過ぎず、新しい店などまるで解らないのでございます。猛勉強を開始しました。勿論東京のことです。

「父上。ISDN回線を引いてください。インターネットでの検索が必要です。叉事前に実地見学をしておく必要もございます。私の理容やエステティック、服装など多額な費用が必要です。ご用立てください」

「ふむ。それは必要経費だ。和江に出してもらいなさい。出費は惜しまぬ。準備怠り無く存分にいたせ」

今回は絵里の時と打って変わって両親は大乗り気でした。何しろ碩学と謳われ高名なB川先生のお嬢様が、この私と所帯を持ち、江釣子で新しい農業を始めてみたいというのです。男爵家の威厳もどこへやら、自らパソコンを購入、操作し息子の嫁取りの算段を開始しました。叉小作人の中で東京で飲食店や洋装店勤務経験の或る者達を探し出し、当地での昨今の状況の聞き込みをして、逐一私に報告してくださいます。母親は毎日のように盛岡や仙台まで出向き、私の服装の下見や、流行の髪形、所持すべき小物、持っていく土産を調べています。私は早朝から夜更けまで標準語の発音練習。その間を縫って全ての女性誌に眼を通し、NET検索も怠り有りません。行儀作法は小笠原流師範から実地指導を受け、かなり上達しました。お茶やお花にも精通しました。教養高いお嬢様との会話を成り立たせる学問もやりますので殆ど寝るヒマも御座いません。バタバタと大慌てで知識、教養を詰め込んでおりますと瞬く間に一月たってしまいました。愈々明日一番の新幹線で東京に向かう前の日になりました。明け方に叩き起こされ、屋敷に呼ばれた理髪師、美容師、着付け係りら大勢から一斉に挨拶を受け、身の引き締まる思いが致しました。花巻温泉から呼ばれた美形三助により念入りに身体の隅々まで洗ってもらい、次はヘアカット、髭剃り、ネイル、耳掃除、無駄毛処理。ついでエステシャンからマッサージ、全身に香水を擦り込んでやっとボディが完了。ついで着ていく衣装を選ぶ段になり両親の意見が二つに割れてしまいました。父親は伝統的な紋付、羽織り、袴が断じて正装であり、今回最も相応しいと主張。母は自ら購入してきたプラダの靴、ランバンのスーツ、アルマーニのシャツとネクタイが良いと言って譲りません。

「おい。先方は由緒正しき建築家B川先生のご息女である。そのような洋風の服装はシツレイに当たる」

「貴方。なにを仰られます。お嬢様は非常に現代的なお洒落な美人。それを時代錯誤の和服。笑われてしまいます」

「なにをバカなことを申す。当方は田舎暮らしの百姓とは申せ、男爵を拝命し苗字帯刀を許された大庄屋である。その嫡男がそのような服を着るなど言語道断である。しかも何だ!その蓬髪は。毛が逆立ち、まるで仁王のようではないか。直ぐに月代を剃り、髷を結え。先祖伝来の紋章入りの印籠を下げて参れ」

「な、な、なにを慮外な、弥ェ門殿。かくも痴れ者とは今の今まで知らなんだ。昨今はチンドン屋でさえ、斯様な服装は致しませぬ。笑止千万」

「しょ、笑止とな。言わせておけば。許せん。そこへ直れ」

「まあ、まあ。お二人とも大人げない。B川先生は碩学とは申せ、形式、仕来りには全く頓着せぬ捌けたお方。叉母者が言うが如く、お嬢さんは活発で明朗な若い女性。やはり洋装が相応しいと思います」

「良く言った、一弥。貴方。一弥の言う通りです。最早和服などに拘泥していては、叉フられてしまいます」

「そ、そうか。止むを得ぬ。ここはワシが譲ろう」

やっとのことで服装に決着がつきました。今度はお土産は何にするかで一悶着。父は父祖伝来の南部鉄瓶が良かろうと言い、母親は自家製の漬物が良いと主張します。お土産は父親の言い分が通り、鉄瓶に決しました。そこで日本橋に新たに開業したマンダリンホテルオリエンタル東京の仏蘭西料理店、シグネチュアの個室を予約しました。明日の夜そこでお嬢様と二人で夕食を共にするからでございます。その晩は緊張と興奮で殆ど眠ることは適いません。夜明けと共に起き、朝湯で身体を清め、念入りに歯磨き、イソジン液で嗽し、ヘアムースで髪を調え、髭をあたり、新品の下着にアルマーニのYシャツ、ネクタイを締めますと、次第に気持ちも高揚し意気が上がってまいります。背広を着、靴を履いて、庭に勧請してある江釣子神社に本日の成功を祈願し、勇躍江釣子駅に向かいました。両親の他弥次郎、弥三郎の二頭の愛犬も見送りに来てくれました。

「父上。母上。では出立致します。後顧の憂いなきよう全身全霊をもってコトに当たります。名誉ある本日の出征にあたり此処に誓うものでございます」

「決して軽はずみな言動を為してはならぬ。先様のことが気に入ったとしても、その場で押し倒し貞操を奪うようなことがあった場合、ワシは直ちに爵位を返上、腹を切る」

「そうよ。一弥。貴方は頭に血が上ると、手のつけられぬ野獣と化す場合があります。そんな場合勿論弥ェ門殿と行動を共にする覚悟はとうに出来ております。左様なことを行わず、必ずや目的を成就するよう、お前の留守中一切の食事、水を断ちましょう」

「うむ。ワシも同断である。頑張れよ。一弥」

「あ、あ、有難う存じます。良き父、良き母を持ち、私は幸せでございます。きっと良い知らせを持ち帰ります。暫時ご不便をお掛け致しますが、必ずやこの江釣子に凱旋する積りでございます。心を強く持ってお待ちくださいませ。さらばでございます」

「か、一弥。頑張れよお」

「一弥さん。貴方は強い星の下の生まれです。上手く行くに決まっています。頑張りなさい」

「一弥。その服装、髪型等素晴らしく似合っている。見違える程だ。見事である。絶対B川先生のお嬢様を射止めて帰って来い」

「わん。わん」

かくして私は故郷を立ち、遠路東京は国立のB川宅に旅立ったのであります。道中、最初に申しあげる口上を繰り返し読んで、暗記に努めました。江釣子6:37発、722Dで北上へ。北上発7:08、やまびこ44号で東京10:24着。中央線特別快速で国立着11:15、タクシーでB川宅。到着は予定通り11:30でございました。先生のお宅はご自身にて設計されたもので、近隣の住宅とは明らかに異なる、格調高い見事な作品でございます。総本瓦一文字葺き、木造一部二階建。漆喰白壁に檜の太い柱梁。地廻りの差し石は花崗岩で青森ヒバの大きな建具。軒は深く出て角垂木、化粧母屋も美しく壮麗で、小屋裏は漆喰塗り。門扉は檜の横羽目、扉奥は多摩川白玉石による石畳が緩やかにうねって続き、同じ玉石製の石段が七段ほどございます。両脇には手入れの行き届いた見事な植え込みがあり、更に石畳がありその奥を曲がったところにヒバ格子に硝子入りの大きな扉がございます。玄関前は玄昌石の四半敷きで打ち水されております。あまりの格調の高さに私はすっかり臆してしまいました。隅に蹲があり手を清めると、訪いを入れ、腰掛けに座り待っておりました。暫くして奥より上品この上ない老婦人が、美しい紬を着て扉を開けてくださいました。どうやらB川先生の奥様らしい。

「わ、わ、わたくしは、い、い、岩手江釣子のい、い、伊藤と、も、も申します」

「一弥様でいらっしゃいますね。主人よりお噂良く聞いております。叉毎年ご苦労して育て上げた新米を送って頂いております。会社では主人が大層お世話になりました。御礼申しあげます。さあ、どうぞお入りになってくださいませ。遠路大変でございましたでしょう。今お茶をお淹れ致します。こちらへどうぞ」

三畳ほどの玄関には黒御影の沓脱石があり、皮付き紅葉の銘木でつくった框を上がると広い檜板張りの廊下。右手に水屋。左手の塗りまわしの丸鴨居の引き戸を開ければ八畳の茶室。奥に次の間が見えます。

「私は裏千家でございます。作法は表とは違い左回りでございます。さしておもてなしも出来ませんがどうぞ御席に御着きあそばせ」

座敷の一角に炉が切られ、風炉が掛けてあります。東側には無造作に生けられた生花が見事な青磁の花瓶に投げ入れてあり、床の間です。掛け軸が三幅、中央には恐らく古今和歌集の手跡らしい、素人の私でさえ感嘆する書がありました。床の隣は幅一間半、高一間の大きな一枚硝子。内側は明かり障子が嵌り、腰は格子桟の腰掛けになっております。私はこのような席に招かれた経験は皆無で、ご丁寧なもてなしは予想だにしておらず、第一一向に茶の湯の作法を心得て居らぬ為動転し我を失い、ブルブルと震えておりました。奥様は私の座る座を示し、滾る湯釜をかき回し竹杓子で湯を掬い、抹茶を入れた茶碗に注いで茶筅で静かにかき混ぜました。ふくよかな茶の香りが漂ってまいります。

「さ、どうぞ」

奥様が淹れてくれた織部茶碗の玉露茶を思わず両手で押し抱いて一気に飲み干してしまいました。

「まぁ、元気の宜しいことで」

竹楊枝が添えられた和菓子が出ました。無我夢中でそれも食べました。その時裏の襖が開いて、和服姿のB川先生と同じ艶やかな赤い振袖を纏ったお嬢様が現れました。地獄に仏とはこのことでしょう。だが瞬時に私は悔いておりました。お三方とも和装です。父親の言う通り和服を着ていれば、この気まずさから逃れられたでしょう。案の定先生に笑われてしまいました。

「キミ。その服装はなんだね。高価なブランド品らしいが、まるでチグハグ。色合いの調和が出鱈目で都会では失笑を買う。ここは茶室で娘との対面にはちと格式ばっている。こちらの居間に入りなさい」

襖の先は磨き檜板張りの三十畳ほどの居間。天井は屋根勾配なりの漆喰塗り。中央は一尺ほどの太さの二本の磨き丸太の独立柱がそそり立ち、柱で囲まれた八畳ほどの空間の天井は焼き杉張り。白と黒の天井が清冽な対比を見せます。三方に床から天井まで大きく開いた硝子の引き込み窓があり、夫々広桟の明かり障子がはまり、外は大刈り込みの見事な庭園が広がって、手前は花盛りの野草が咲き乱れております。その広い居間中央に巨大な座卓が設えてありその一角に案内されました。そこかしこに花が生けられ、おいてある調度はどれも美しく気品のある品ばかりで、主人の美に対する造詣の深さを物語っているようでした。故郷江釣子では大庄屋の跡取ということで村人から若様などと言われ、家も付近にはない豪壮なものだったので威張っておりましたが、やはり田舎は田舎。先生のお宅とは丸で違う粗野で下品なものでした。私の隣には先生のお嬢様が座られます。聞いた通り、沢尻エリカ似の頗る美形でセクシーな女性。

「娘の美咲だ。こちら江釣子の伊藤一弥さんだ。今日は正式のものではないが、所謂見合いとなります。双方とも異存はあるまいな。宜しければ是よりお見合いの儀、始めましょう」

赤面し縮こまっていた私は暗記したはずの口上を申し述べなければなりません。

「お、お、おらイヤもとい、わ、わ、わたくしは、い、い、岩手県、き、き、北上市、え、え、江釣、こ、子にきょ、居住して、お、おります、と、ところの、い、い、い、いどお、イヤ伊藤、くわ、かか、か、かず、かず、一弥とも、も、申します。お、お、お見知りおきを」

「あらイヤだわ。一弥さん。オモラシした狸みたいに震えているわ。あたしそんなに怖いの?ぜぇ〜んぜんコワクないわ。ほらしっかりして」

お嬢さんに笑いながらドォ〜ンと肩を叩かれ、更に真っ赤ッか。座卓の下に潜り込みたい心境で、話など全くできず、震えているばかりでした。

「一弥さん。ご趣味は何かしら?」

「しゅ、しゅ、趣味ですかいの、イヤごしゅ、ご趣味はの、の、のう、農業だす、イヤでご、ごぜえ、ご、ございます」

「それ仕事のことじゃないの?」

「ふぇ、ふぇ、ふぇん、フェンシングばちっと、イヤちょっとた、た、たしなんでお、おりまっす」

「まあ、素敵。フェンシングが趣味なんですか」

「おい、ワシ達はこれくらいにしよう。あとは若い二人だけで」

「ご、ご、ご勘弁を。しぇ、しぇ、しぇんせいが、いなぐなたら、お、おら、イヤ、ぼ、ぼ、ぼくはどうすたらええんだか、わがんね、イヤ、わ、わ、わかりまっせん」

先生と奥様は座を立って別室に行ってしまいました。自分から話をするなど到底適わず、只お嬢様のご質問を吃りながらお答えするのが精一杯。滝のように汗が流れ、折角のアルマーニもびしょぬれよれよれになってしまいました。しかしそんな私を嫌がる風はまるでなく熱心に話しを聞き、つまらぬ話題にも手を打って笑い転げてくださいました。とても気さくで活発なお嬢様でございます。お嬢様は私を大層気に入ったご様子で、二人揃って江釣子に行きたいと仰いました。それから手を繋いで広いお庭を散策しました。池の辺の大きな黒松の木の下で抱きつき、唇を合わせていただきました。都会の女性は積極的です。昼食はその居間の一角の食卓で頂きました。奥様手作りの料理です。美しい器に見事な盛り付け。和懐石の頂点にも達する上品且つ極限の美食でございました。次第に緊張が解け、楽しい会話になって行きます。お嬢様から極上の純米酒を薦められ、差しつ差されるうちに強か飲んで酔ってしまい、普段の悪いクセが出ました。

「み、美咲ちゃん。おら、おめのこと好きになっちまっただ。ちょっくらお尻触らしてケレ」

そう言うが早いかお嬢様のお尻を撫でまわしてしまいました。

「ちょ、ちょっとなにすんのよお。今、被疑者の冒した行為は労働法、最高裁判例860号86項に違反する重篤な犯罪行為です。禁固2年、罰金150万円に該当します」

「す、す、すまったぁ。美咲ちゃんが女判事だっちゅうこと忘れとったぁ」

「美咲。ここは自宅だ。何も判例まで持ち出し糾弾することもないだろう。一弥君はホンの出来心だ。ハズミだよ、ハズミ」

「お父様。ハズミで許されるなら、何でもそれで許されてしまいます。そもそも所謂セクハラは日本国憲法前文にはっきりと記載されている基本的人権を侵す重大な犯罪行為。更に今の行為は性的な強要、身体への不必要な接触に当たり、刑法第176条、強制猥褻罪に該当し、三年以上の懲役刑に処せられます。叉同訴訟法197条及び198号により司法警察職員による拘引が認められています」

「女の尻に触れただけで訴えられ処罰されたら刑務所がいくらあっても足りない。なぁ一弥。悪気は無かったンだろ?」

「も、も、勿論だす。美咲ちゃんがとっても可愛いケ、さわっちまったんだぁ」

「その考え方及び行為は錯誤しています。可愛いと触るとは何らの因果関係もありません」

「な、なしてぇ?おどこはヨ、ええおなごみるどヤりたくなるんじゃ。そう言う生き物だんべ」

「正常な性行為はこれを認めます。然しながら日中、人前でそれを為すのは、野獣と同じでございます。許せません。お母様。110番通報をしてください」

「美咲。それはちょっとやりすぎですよ。お前も付き合ってくれる男性がいないと泣いてばかりいたではありませんか。この一弥さんを逃がしたら永久に嫁にだど行けませんよ」

「そんだ、そんだ。おら、おめえとなら真昼間からエッチしてえ」

「おい、一弥。図に乗るな。下品な会話は中止しろ」

「しェんしェい!おらのブツ、ぶっとくて立派じゃぁ、ぶち込んだら、娘っこよがり声だすて喜ぶんじゃあ」

「無礼者!ここは神聖な食卓です。かかる下品な者の着席は許せません。ただちに退去されよ」

「そうだ。一弥。今のはチト拙い。撤回しろ」

「名古屋地方検察庁検事局主任判事のわたくしに対する罵詈暴言。ただちに現行犯逮捕する。両手を差し出しなさい」

「へ、へんだ。逮捕されるまえにヤっちまう」

わたしは興奮し下品で卑猥な言葉を連発。上着とシャツを脱ぎ、お嬢さんに迫ったり、ずぼんを下ろしてイチモツをひけらかそうとしたり大暴れ。気が着けば後手に手錠を嵌められ、拘束着を着せられ、猿轡を噛まされておりました。先生も奥様も怒りで顔面が朱に染まり、お嬢様は青ざめ、顔を覆って泣いておられました。前後不覚に酔っ払っていたとは申せ、犯した大罪は計り知れません。あれほど周到に準備し、この日の為に修練をつみ、先生や奥様、私の両親の心労を思うと、信じられぬ大失策でございます。一番傷ついたのは美咲様でございましょう。父親が太鼓判を押し、遠く岩手から呼び寄せた、白皙、気鋭な婿になる若者。それがなんという体たらく。我ながらあまりに愚劣、低劣な言動です。拘束着の中で泣き叫びました。しかし猿轡が固く締まって、まるで獅子が唸り声を上げているようにしか聞こえません。もがいても芋虫が這いずり回っているようにしか見えないのです。これほど美しいお嬢様が、最初は非常な好意を示してくれ、結婚を承諾され、共に江釣子へ行きたいと仰られた、僅か一時間後、かくも哀れな極悪人と化してしまったのです。刑に服するは異存がありませんが、なんとしても深甚な謝罪をし、皆様のお怒りを少しでも和らげなければ、私の両親は腹を切ってお詫びするに違い有りません。

「もがぁ、もがぁ」

「何言ってるんだかサッパリ解らん。どうやらこやつ泣いておるようじゃ。美咲。少し戒めを緩め、言い分を聞いてみても良いか」

「父上。そのような情けは無用です。酔った上なら何をしても許されてしまう、我が国の法治が疑われます。脱獄不可能なアノ悪名高い牢獄、硫黄島獄舎に送ります。絶対生きては帰れません。このような性犯罪者を並みの刑務所に入れたのでは、再発の可能性があり危険過ぎます」

「硫黄島獄舎か・・あの猛烈な湿気と暑熱、噴出する硫黄ガスにゴキブリでさえ三日持たないという。幾らなんでもそれは苛酷ではないか。この男確かに言葉はひど過ぎたが、実際の行為はお尻触りではないのか。酒の一気飲みで心神耗弱状態にあった」

「犯罪は実行だけでなくそれを思い、口にしただけで処罰の対象になります。専門外の父上は黙ってください」

「一弥は見かけによらず極々気の小さな男。以前フられたショックで数ヶ月も寝込み、窶れ果て、それで私が一弥を救おうとお前に引き合わせた。今日はお前に逢った嬉しさのあまり酒を飲みすぎたようだ。あちらのご両親も見合いをひどく期待しておられた。このような狼藉は爾後絶対にさせぬ。ココは私に免じ、寛容な処罰をお願い致す。ほれ、この通りだ」

先生はお嬢様の前で土下座し、何度も懇切に私の非を謝り続けました。私は再び号泣しておりました。やがて意を決したお嬢様が口を開きました。

「父上の仰られること、解らずではございません。では、ここは裁判にて決するのが良かろうと存じます」

庭の一角に竹矢来を組み、砂利を敷いて白州とし、広縁が申し渡し場となりました。

「被告人。立ちなさい。姓名、生国を述べなさい」

「へっ、へい。て、手前ェ生国と発しますは、陸奥和賀郷江釣子でござんす。幼ェ時より手のつかねえ暴れン坊でござんして、姓は伊藤、名は一弥と申すケチな三下でござんす」

「被告人は余計なことを喋らずとも良い。お前の容疑は婦女暴行未遂、強制猥褻罪である。起訴事実を申し述べる。平成十八年四月九日、東京都国立市西原二-十四、B川宅において、B川美咲、二十六才の臀部を触り、本人が嫌がるにも関わらず、執拗にこれを続け、更に上半身の裸体を晒し、下半身をも脱衣し己が逸物を晒さんと不逞な言動を弄した。これに間違いないか」

「へ、へい。おらぁ、元々美咲ちゃんのケツなんか触る意志はながった。おらが手ェ出したら、美咲がケツ着けて来たんダベさ」

「黙りなさい。お前が下劣なる意志を持っているいることは、裸体を晒そうとした行動で明らかである」

その時弁護を引き受けてくれた先生が発言を求めました。

「さ、裁判長。被告人は尋常ならざる小心者でございます。そのことは当家に来た時、震えが止まらず、オドオドし、言語も吃り吃って定かでなく、ヒドイ訛りで不明瞭。従いまして良家の子女である、原告美咲の臀部を触ることなど不可能であると考えます」

「何か証拠でもあるのですか」

「はい。証人として妻の花子を申請します。花子証人。被告人は起訴状にあるような極悪非道な性犯罪を犯す人間に見えましたか」

「いいえ。当家来訪の際、手前が被告人に茶を給じましたが、弁護人の言うように非常に落ち着かぬ態度で終始オドオドしておりました。乱暴な言語を発したおり、偶々傍におり見聞しましたが、酔った勢いの大言壮語で実際は何も出来ませんでした。当初は何も喋れぬほどビクついておりましたが、アルコールの作用により一転して饒舌となり、精神的興奮を伴って虚言を吐いたと考えられます。叉美咲の臀部に手を添えたのは愛情表現と思います」

「良く解りました。被告人。被害者のお尻に触ったのは、弁護側証人が言うように愛情表現であったのですか、答えなさい」

「は、はい。その通りでございます。原告があまりに美しく、可愛らしかったので、自然と手が動き結果お尻に触れました」

「そうでしたが。これにて審理を終わり判決を下します。被告人は無罪。ただし原告に接触を試みるなど被告の原告に対する思慕の念は明白である。かくなる上は両人は結婚し、幸せな家庭を築きなさい」

「さ、裁判長。誠に温情溢れる名判決。裁判長のお裁き通り、結婚しよう・・

あれ、裁判長は美咲ちゃん。本人が自分の行き先を決めたのかぁ・・・」


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