第7話 霧の導きと仮面の来訪者
霧の中から、仮面の男は現れた。
それは突然だった。獣を退け、ようやく安堵の息をつこうとしたそのとき——濃い霧の向こうに、人の形をした影が立っていた。
「……誰だ?」
タツキが構えかけると、その影はゆっくりと歩み寄ってきた。黒いローブに身を包み、仮面で顔を覆った男。
「私はヴィスナー。この世界の“境界”を見張る者だ」
低く静かな声。だがその言葉は霧を突き抜け、はっきりと二人に届く。
「さっきの化け物……お前が放ったのか?」
リゼッタが鋭く問い詰めるように一歩前に出た、その時だった。
「赤ずきんはもう、少女ではない。かつては無垢な象徴だったが、今は……成長した肉体と、本能を隠しきれぬ感情のゆらぎが滲み出ている」
ヴィスナーの静かな声に、リゼッタの表情が引きつる。
「……なっ……! ど、どこ見てんのよっ!」
怒鳴りながら胸元を抑えつつ、リゼッタがタツキの方へと後ずさる。ぶつかった瞬間——
「わっ……!」
二人はそのままバランスを崩して、倒れ込んだ。
リゼッタの身体がタツキの胸元に乗るように重なり、タツキの右手が——偶然、彼女の胸元に触れてしまった。
(うわっ……やわ……っ!)
下着越しに感じた感触は、柔らかく、温かく、弾力に満ちていた。
「ちょ、ちょっと! どこ触ってんのよっ!?」
ばしんっ!
タツキの頬に、見事な手形が刻まれた。
「ち、違う! わざとじゃなくて……っ!」
「言い訳禁止っ!」
怒りと羞恥に真っ赤な顔のまま叫ぶリゼッタに、タツキは頭を抱えた。
仮面の男——ヴィスナーは、そんな二人の様子を静かに見つめていた。
「……私はこの世界の“境界”を見ている。お前たちが、どう進むかも、な」
タツキは身を起こしながら、慎重に尋ねる。
「“境界”? 選ばれし者って……どういう意味だよ」
「お前は“境界”を越え、この地に現れた異界の来訪者。そしてその証が、お前の手に現れた“物語の力”だ」
ヴィスナーは仮面越しにじっとタツキを見据える。
「この世界は、かつて語られた“物語”の墓場。お前が踏み入れた地は、赤ずきんと呼ばれた童話の成れの果て」
「それって……リゼッタのことを?」
「そうとも。だが、語られなくなった物語は、やがて歪み、狂い、そして破滅へと向かう」
リゼッタがわずかに眉をひそめる。だが口を閉じたまま、タツキとヴィスナーのやり取りを見守っている。
タツキの胸がざわめいた。
「じゃあ、俺がここに来たのも……その物語のため?」
「あるいは、物語の“結末”を書き換えるためかもしれない」
風が揺れ、霧の中の木々がざわめく。
「選ぶのはお前だ。何を守り、何を変え、何を否定するのか。そのすべてが、“語られぬ物語”の行く末を決める」
ヴィスナーの声は、不思議と心の奥に響いた。
タツキは問いかける。
「どうして、俺なんだよ……。ただの高校生で、なんの力もなかった俺が、なんで……」
「“なかった”だろう?」
仮面の奥から返ってきた言葉に、タツキははっと息を呑む。
「力は、ただ眠っていただけだ。お前の中の“物語”が目覚めた。……それだけのことだ」
沈黙。霧の奥から、ひときわ冷たい風が吹いた。
リゼッタが小さく一歩前に出る。
「あなたは……この世界のことをどれくらい知ってるの?」
「知っているとも。いや、むしろ、私は“この世界の成れの果て”そのものと言ってもいい」
その曖昧で不気味な言葉に、タツキは背筋を強張らせた。
「物語は、終わりを忘れられたときに腐り始める。だが、お前たちがここで動いた——それはひとつの始まりだ」
ヴィスナーは歩みを止め、ふたりを見渡す。
「選択はすでに始まっている。次に訪れる歪みは、もっと深い傷を伴うだろう。……だが、乗り越えられるかは、お前たち次第だ」
タツキとリゼッタは顔を見合わせた。重たい言葉の意味が、すぐには理解できない。
だが——この出会いが、確かにただの偶然ではないことだけは、ふたりとも感じていた。
「私はただ、告げに来ただけだ。——“選択”は始まっている、と」
そう言い残し、男は再び霧の中へと歩き出した。
姿が完全に霧に溶ける直前、仮面の男は振り返り、最後にこう言った。
「次に物語を紡ぐのは、お前だ。異界の来訪者——周防辰樹」
タツキは、言葉を失って立ち尽くした。
リゼッタもまた、霧の奥を睨みながら、小さく呟く。
「……信じるかは、まだわかんないけど」
「でも、きっと……ここで立ち止まっちゃダメな気がする」
その言葉が、妙にタツキの胸に残った。