第6話 牙と爪の襲撃
森の奥。空気が凍りついたように静まり返る中で、何かがじりじりと近づいていた。
タツキの背中を、冷たい汗が伝う。リゼッタは前を向いたまま、手斧を強く握りしめていた。
「……どこから来る?」
耳を澄ませば、木々の間をすり抜ける気配。土を掻く音。低い唸り声。鳥も鳴かず、風さえも止まっている。
そのとき——
ガサッ、と茂みが大きく揺れた。次の瞬間、黒い影が森の奥から飛び出してくる。
「来たっ!」
タツキが叫ぶと同時に、リゼッタが斧を振り上げる。
飛びかかってきたそれは、狼のような形をしていたが、異様に大きい。毛並みは瘴気のように黒く、眼だけが赤く光っている。
「大狼じゃない……けど、あれも化け物だ!」
咆哮とともに、獣の爪がリゼッタに迫る。 咄嗟に斧を振り上げ、防御の構えで受け止める。金属と骨がぶつかり合う甲高い音が響いた。
ゴギンッ!
衝撃で斧が弾かれ、リゼッタの身体が一歩、後ろに滑る。その瞬間、鋭い爪が彼女の胸元をかすめた。
「きゃっ……!」
鋭い音とともに、赤いケープの留め具が弾け飛び、白いブラウスの前が深く裂けた。
斧を構え直すリゼッタ。
その動きに合わせて、裂け目から下着がはっきりと露わになる。
レースや縁どりどころではない、肌にぴったりと張りついた布地が、その形をあらわにしていた。
(うわっ、見えた……って、モロじゃねえか!)
タツキは一瞬、目を奪われたが、必死で顔を背ける。
だがリゼッタはまったく気づいていないようで、ただ真剣な目で敵の動きを追っていた。
戦闘の衝撃で弾むように揺れ、肌に張りついた汗が光を反射する。
「こいつ……硬いっ!」
タツキは咄嗟に拾った枝で応戦しようとするが、相手の一振りで簡単に弾き飛ばされる。
「くそっ……!」
逃げるしかない——そう思ったその瞬間、タツキの右手がじわりと熱を帯びた。
「……あれ?」
思わず掌を見る。皮膚の表面に、淡い光が浮かび上がる。まるで文字のような模様が、一行ずつ、皮膚の下から浮かび上がってくるようだった。
すると——空中に、黒く染まった一冊の本が出現した。
「なっ……!」
本は宙に浮いたまま、パラパラとページを捲りながら、まるで“物語を選ぶ”かのように文字列が走り出す。
『エクリプス・ギア……起動』 『展開』 『変形』
低く響く電子音のような声が、静寂の中に淡く鳴り響いた。
ギィィィン……ギリリ……。
機械の駆動音のような重厚な音が空間を満たし、ページの中心から黒い刃がせり出すように形を成していく。
それは漆黒の金属で鍛えられた、重厚な剣だった。禍々しさと美しい曲線が混じり合った、異世界的な造形をしている。
刀身には渦巻き状の魔術的な彫刻が施され、淡く青白く輝いていた。柄は銀と黒を基調とし、魔術回路のような未来的な装飾が浮かび上がる。
タツキの手に、自然とその剣が収まった。
「……エクリプス・ギア……?」
考えるよりも先に、身体が動いた。
タツキはリゼッタと獣の間に割って入り、黒い剣を構える。
牙が迫る。タツキは咄嗟に剣を横に構え、咆哮と共に飛びかかってきた獣を受け止めた。
「うおおおおっ!」
腕に重い衝撃が走る。だが、足を踏みしめて押し返す。剣の刃が獣の爪と擦れ合い、火花が散った。
反撃の隙を逃さず、タツキは全力で剣を横に薙ぐ。漆黒の刃が、獣の肩をかすめて赤い軌跡を描いた。
「リゼッタ、今だッ!」
「はああっ!」
リゼッタの斧が獣の脇腹を貫く。斬撃と斧撃が交差し、獣は悲鳴を上げながら地を蹴って跳ね退った。
が、それだけでは終わらなかった。
獣はすぐさま地を蹴り返し、後脚のばねで跳ねるように跳躍すると、リゼッタ目掛けて再び飛びかかる。
「来る……っ!」
タツキが前に出る。剣を正面に構え、迫る牙を真正面から受け止めた。
ゴギンッという重たい音。牙が刃に食い込み、火花が弾ける。
至近距離。獣の口臭が鼻腔を突き、赤い眼がギラつく。
「う……おおおおおっ!!」
踏み込む。剣を振り抜く。だが、獣は跳び退いて回避し、円を描くようにふたりの周囲を走り出す。
「囲もうとしてる……!」
「なら——こっちから仕掛けるまで!」
リゼッタが横に跳び、獣の進路に割って入る。斧を振り下ろすが、獣は俊敏に身を翻す。
そこに、タツキの剣が追撃として走った。切っ先が肩口をかすめ、獣の動きが一瞬鈍る。
「リゼッタ、いけっ!」
「任せなさいっ!」
渾身の回転斬り。斧が斜めに振り抜かれ、獣の背に深く食い込む。高く悲鳴を上げ、獣はようやく飛び退いて逃げ出した。
呻き声を上げたそれは、地を蹴って森の奥へと逃げていった。
ふたりはその場に立ち尽くす。
呼吸が乱れ、全身から汗が噴き出している。
「……やった、のか……?」
「逃げた……でも、倒しきれてない。たぶん、まだ森にいる」
リゼッタの言葉に、タツキは右手の剣を見る。
漆黒の刃は、ゆっくりと光を失いながら霧の中に溶けるようにして消えていった。
「今の……何だったんだ? まるで物語の一節みたいに、力が……」
「タツキ……あんた、普通の人間じゃないの?」
リゼッタが真っ直ぐこちらを見つめる。
タツキは言葉に詰まりながら、視線をそらした——彼女の胸元から、下着が見えていたことに気づいたからだ。
「……っ、え?」
リゼッタも自分の胸元を見下ろして、そして——顔を真っ赤に染めた。
「ちょ、ちょっと!? 見てた!? あんた今、絶対……ッ!」
「い、いや、俺は! その、見ようと思ったわけじゃ!」
「バ、バカタツキ!! 変態! 死ねぇえええっ!!」
ゴンッ!!
乾いた音とともに、タツキの頭が森に響いた。
問いに返す言葉がなかった。自分でも何が起きたのか分からない。
ふたりはしばらく黙ったまま、森の奥を睨み続けた。
やがて、背後から声がした。
「——お前たち、そこで何をしている」
振り向けば、フードを被った人影が立っていた。長身で、顔は陰に隠れて見えない。
タツキとリゼッタは同時に構える。
「誰……!?」
フードの人物は、ゆっくりと近づいてくる。
「この森に、よそ者が入るなど久しい。お前たちには、少々聞きたいことがある」
その声音は低く、しかしどこか知的な響きを持っていた。
警戒を強めるふたり。
森の霧は、またひとつ、物語の核心を隠しながら、濃くなっていく——。