第5話 朝の決意と、牙を隠す影
朝靄が森を包み込んでいた。薄く差し込む陽光すら、深い木々の間では頼りない。
タツキは、森の入り口に立つリゼッタの横顔を見つめていた。彼女は赤いフードをかぶり、斧を背負って黙って霧の奥を見つめている。
「……本当に、行くんだな?」
声をかけると、リゼッタは小さくうなずいた。
「うん。昨日、あんな目に遭ったのに……やっぱり逃げたままじゃ嫌だ。私、自分で確かめたいの。あの“大狼”の痕跡も、呪いのことも、全部」
その言葉には、揺るぎない意志があった。
ふたりはゆっくりと森の奥へと踏み込む。
足元にはまだ朝露が残り、ぬかるんだ地面に靴が沈み込む。小枝を踏む音だけが、沈黙を破る。
「この辺、夜はもっと霧が濃くなるの。昔は遊び場だったけど……今は、少し違って見える」
リゼッタの声は落ち着いていたが、どこか張り詰めていた。
彼女の胸には、昨夜の夢の残滓がまだ微かに残っていた。
夢の中、赤黒い森のなかで咆哮が響く。 振り返った先にいたのは、血に濡れた自分自身だった。
(また、あの夢……いつもあの“夜”に戻る)
あの夜、祖母の叫び声は霧の奥に消えていった。遠くから響くような、夢の中の音のように薄く。
家の扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、血に濡れた毛皮と鋭く光る眼。
“それ”は低く唸り、獣じみた動きでこちらへと跳ねかかってきた。
——その牙が、首元をかすめた感触は今でも忘れられない。
「……やめよ」
リゼッタは首を軽く振った。目の奥の闇を追い払うように。
「昨日は、よく眠れた?」
タツキの問いかけに、彼女は少しだけ笑った。
「……うん。なんとか、ね」
視線は正面を向いたまま。でもその笑みは、わずかに柔らかさを帯びていた。
少し歩いたところで、ふたりは立ち止まった。
リゼッタが、低く茂る草を見下ろして言う。
「……ここ。前に“大狼”と遭遇した場所」
彼女の手が、腰に携えた手斧に触れる。
「何もないように見えるけど、ここにいた。今でも思い出せる。……息遣いも、牙の光も」
あのとき、祖母は一言も叫ばなかった。すべてが静かに終わった。
(私がもっと早く戻っていれば——)
喉の奥がひりつく。悔しさと恐怖が、記憶の底から湧き上がってくる。
タツキは慎重に辺りを見渡しながら問いかけた。
「それでも、確かめたかったんだな」
「……うん。私、ずっと怖かった。自分が化け物になるんじゃないかって。でも、あの夜以来、姿は変わってない。だから、もしかしたら……」
言葉を濁したリゼッタは、ふっと視線を上げた。
「タツキ。……ありがとうね。あんたが言ってくれた“そばにいる”って言葉、あれ、本当に支えになった」
「……そりゃ、言ったからな」
照れ隠しのように肩をすくめると、リゼッタは微笑んだ。
だがその刹那——
ザッ。
木の影、風とは違う何かが草を揺らした。
ふたりは息を止める。音は一瞬、遠ざかり、また近づいてきた。
空気が、ひときわ冷たくなる。
タツキは咄嗟にリゼッタの腕を引いた。
「気をつけろ。何か来る」
緊張が走る。リゼッタは手斧を構え、背中越しに言う。
「姿は見えない……でも、いる」
森の空気が変わった。まるで呼吸すら許さないような重さ。
耳を澄ます。草を踏む音。枝をすべる爪の音。低い唸り声。
地面が微かに揺れ、木の幹が軋んだ。 何か巨大なものが、ゆっくりと忍び寄ってくる。
——それは“獣の気配”だった。
木々の奥。黒く滲むような気配が、じりじりと間合いを詰めてくる。
それは、タツキとリゼッタに、もうすぐ“牙”が届く距離まで——。