3話 村の門と、閉ざされた眼差し
霧がわずかに薄れた先、木製の柵と古びた門が見えた。
けれど――リゼッタの足は、そこで止まったままだった。
「……ここが、村の境界よ」
ぼそりとつぶやくその声は、霧に溶けるようにかすれていた。
「もう、ずいぶん長いこと……この先へは踏み込んでない」
リゼッタの声には、懐かしさと、そして恐怖が滲んでいた。
無理もない。彼女にとって、あの村は“育った場所”であると同時に、“追われた場所”でもあるのだから。
「行かなくてもいい。無理に戻る必要なんて――」
俺がそう言いかけた瞬間、リゼッタはゆっくりと首を横に振った。
「いいの。私は……この場所に、ケリをつけたいの」
ぎゅっと拳を握りしめるリゼッタの横顔は、どこか震えて見えた。
その姿に、胸の奥がざわつく。
目の前の少女は、いまにも霧の中に消えてしまいそうなほど、儚くて――
それでも、背筋を伸ばして一歩を踏み出そうとしていた。
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その時だった。
「うわっ……!」
足元の苔むした石に滑って、俺は体勢を崩す。
「きゃっ!?」
リゼッタの背にぶつかり、そのまま斜面へと二人で転がり落ちた。
気づけば、俺の右手が、彼女の胸元に――
「……っっ!?」
柔らかく、ふくらみを感じる感触が、手のひらに伝わった。
(う、うわあああああああ!?)
凍りついた時間。ほんの数秒だったはずなのに、永遠のように長く感じた。
バチンッ!
鋭い音と共に、頬に焼けつくような衝撃が走る。
「この、エロオオカミッッ!!」
怒号と共に跳ね起きたリゼッタは、真っ赤な顔で斧を引き抜こうとする構えすら見せていた。
「ち、ちがう! 今のは事故だって! 転んだだけで――!」
「なんで転んだ先が胸なわけ!? 変態! この、ムッツリ!!」
その言葉に、さすがに俺も反論できなかった。
なぜなら――触った事実は、どう言い訳しても変わらなかったからだ。
(でも……ほんとに、事故だったんだってば……!)
しばらくしてリゼッタが落ち着きを取り戻すと、再び門の前に立った。
そして、まるで呪文のように足元の土をなぞると、霧がすっと左右に割れていく。
「……行くわよ」
その声は、強がりと覚悟がまじったような、少しだけ不安定なものだった。
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門を越えた瞬間、空気が変わった。
森に満ちていた重苦しい霧の気配は消え、村の中には陽光が差し込み、小鳥のさえずりさえ聞こえる。
石畳が整い、白壁の家々が並ぶ様子は、どこか牧歌的ですらあった。
――だが。
俺たちの足音に、空気がぴたりと止まる。
開いていた窓が、音もなく閉ざされる。
畑にいた老婆が鍬を落とし、目を見開いたまま硬直する。
幼い子どもがリゼッタを指さしかけ、母親に手を引かれて引きずられるように家へ戻っていく。
「……まだ生きてたのかよ、あの呪われた娘」
「今度は男まで引き連れて……どこで拾ってきたんだ?」
「見ちゃだめだよ、呪いがうつるから……」
耳を刺すような声が、さざ波のように俺たちを包む。
リゼッタは顔を伏せもせず、まっすぐ前だけを見て歩いていた。
けれどその背中は、まるで刃物に突き刺されながら進んでいるように、張りつめていた。
(くそ……)
俺の拳が無意識に握られる。
今にも言い返したくなる。否、怒鳴り返したくなる。
だけど――ここで俺が声を荒げても、リゼッタの立場が悪くなるだけだ。
彼女がこの村で、どれだけのものを失ってきたのか。
今、その一端を目の当たりにしている。
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しばらく歩くと、村の外れにぽつんと建つ一軒の家が見えてきた。
木々に囲まれ、他の家々と距離を置いた場所。
「……ここが、私の家だったところよ」
リゼッタの声は、風の音にかき消されそうなほど小さかった。
扉は閉ざされたまま、だが壊されてもおらず、窓は割れていない。
庭には背丈の高い雑草が茂り、踏み入った形跡はない。
「誰も、ここには近づかないの。呪われてるって、言い伝えになったから」
「でも、それって……」
「ええ。私のせいよ。私が“化け物”になったから」
言葉を吐き出すたびに、リゼッタの声はかすれていく。
それでも彼女は、首を上げた。
「それでも……この家に、母さんの形見があるの。どうしても、取り戻したいのよ」
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彼女が扉に手をかけると、わずかにきしむ音が響いた。
埃が積もった玄関を踏みしめ、一歩、また一歩と中へ入る。
静かな空間の中で、俺たちの足音だけが響いた。
「……懐かしいな。あそこに、いつもスープの鍋がかかってて……。
冬は薪の火の音がずっとしてて……。うるさいけど、暖かかった」
リゼッタがぽつりぽつりと話すたびに、部屋の景色が少しずつ色づいていくような気がした。
「母さん、私が森で怪我して帰ると、何も聞かずに抱きしめてくれたの。
“強くなりたいなら、まず誰かを守れるようになりなさい”って……」
「……その言葉、今のリゼッタにぴったりじゃん」
思わず呟いた俺に、リゼッタはふっと笑った。
「そうね……でも、まだなれたかはわからないけど」
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リゼッタは、部屋の隅にある小さな棚に目を留めた。
布で覆われたその上に、埃が薄く積もっている。
そっと布をめくると、木箱が現れた。
彼女は手を伸ばし、箱を開け――その中から、小さな銀のペンダントを取り出す。
「……あった」
リゼッタの声が震えていた。
ペンダントは細く、華奢で、月の形をした小さな石が揺れている。
まるで、今にも壊れてしまいそうなほど儚い光を放っていた。
「母さんが、最後にくれたの。“この森を出ても、自分を忘れないように”って……」
リゼッタは、それを両手で包み込むようにして胸元に抱きしめた。
「でも……その後すぐに、私は“人じゃなくなった”のよ。
このペンダントだけが、“私が人間だった”証なの……」
彼女の声は、もう涙をこらえることさえ諦めたような、柔らかい響きを帯びていた。
俺はただ、そばに座って、黙ってその横顔を見守ることしかできなかった。
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日が落ち、村には静けさが戻っていた。
外からは夜風の音だけが聞こえる。
俺とリゼッタは、埃を払った布団に並んで横になっていた。
村の中なのに、不思議と森よりも冷たく感じるのはなぜだろう。
「ここ……こんなに静かだったっけ?」
「……人がいるはずなのに、誰も守ってくれない場所って、怖いのよ」
リゼッタの呟きは、夜の闇に沈むように小さかった。
「森の中のほうが、獣のうなり声もあるし、風の音だって強い。
でも……この村の静けさは、誰にも頼れない音がするの」
「……そっか」
“静か”って、安心とは限らない。
彼女の言葉が、胸に深く刺さった。
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しばらく沈黙が続いたあと――リゼッタがそっと口を開いた。
「……さっき、ありがとう」
「え?」
「私、あのままじゃきっと……この場所に戻れなかった」
「……俺がいたから?」
彼女は小さくうなずき、続ける。
「でも、まだ怖いの。村の人たちも、呪いも、自分自身も……全部、まだ怖いの」
「それなら……その“怖い”を、これから俺が一緒に見ていくよ」
強くも優しくもない。
でも、俺にできる精一杯の言葉だった。
リゼッタは少しだけ目を細めて――俺の肩に、そっと額を預けた。
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