第1話 赤いケープと人狼の森
霧の中を歩いて、どれくらい経ったのか。
肌寒い空気が制服の中に入り込み、背筋を撫でるたびにゾクッとした。
辺りを覆う灰色の霧は濃く、数メートル先すら見えない。耳を澄ませば、自分の足音と呼吸音、そして……ときおり遠くから響く、獣の唸り声。
「……ここ、ほんとにどこなんだよ」
地面はぬかるみ、歩くたびに靴が泥に沈む。
黒く曲がりくねった木々は、まるで歪んだ神経のように空へ伸びていた。葉の一枚も揺れず、空気は妙に湿って重い。
まるで、世界そのものが“生き物”のようだった。
タツキ――俺は、今朝まで千葉県の高校に通っていた普通の学生だった。
図書館で見つけたあの奇妙な『未分類のグリム童話』。手に取った瞬間、白い光に包まれて、気づけばこの森の中だ。
転移とか、召喚とか、漫画じゃよくある展開だけど――これはリアルすぎる。
「夢なら……そろそろ目が覚めてくれよ」
情けないほどに頼りない独り言が、霧に溶けていく。
この場所が、もし“グリム童話の世界”なら――
この森は、あの物語。赤ずきんが、狼に祖母を食べられる“あの森”なのかもしれない。
「……まさかとは思うけど。赤ずきんの森、か?」
その瞬間、世界が一変した。
――ズバァンッ!
鋭い金属音が空気を裂いた。斬撃だ。
それに続く、獣の絶叫。低く唸るような、喉を引き裂かれた叫び。
反射的に身をかがめた俺の足元へ、何かがドサリと落ちた。
「っ……!?」
それは――狼だった。
人間の腰ほどもある巨体。漆黒の毛並みは血に濡れ、片目は虚ろに開かれている。
喉元から胸へかけて、一直線に切り裂かれていた。
まだ温かい体温と、鉄臭い血の匂いが鼻を突き、吐き気がこみ上げる。
「う、うそだろ……?」
目の前の現実に、足が震える。
そして――霧を切り裂くように、誰かが現れた。
赤いケープをまとった少女。
肩に大きな片手斧を担ぎ、長い栗色の髪を揺らしながら、鋭い目でこちらを睨んでいる---
霧に映える赤。
その鮮やかなケープが、この不気味な森の中で異様に映えていた。
少女――いや、狩人。
その手に握られた巨大な斧は返り血を浴びて赤黒く染まり、鋭く磨かれた刃が光を鈍く反射していた。
俺を睨むその瞳には、怯えも驚きもない。
ただ、冷たい警戒と、すぐにでも次の一撃を放てる緊張感だけがあった。
「……誰?」
少女の口から、静かに放たれたその問いは、まるで空気を裂く刃のようだった。
俺は反射的に両手を上げる。
「ま、待ってくれ!俺は敵じゃ――!」
彼女の鼻がひくりと動いた。
「……人間。でも、この森の匂いがしない」
「森の……匂い?」
「木、血、泥、死体の臭い……それがあんたにはない。あんた、外から来たの?」
彼女は斧を少しだけ下ろし、俺の全身を上から下まで見下ろすように視線を滑らせる。
俺は息を呑む。
この娘は――本物だ。命のやりとりを、日常として生きてきた目をしている。
「……名を名乗れ」
短く、強く、命じるような声。
「……周防辰樹。タツキでいい」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
霧の中で、彼女の表情が微かに変わった気がした。
「……リゼッタ」
「え?」
「リゼッタ。この森の番。……そういう役目」
その名は、俺の中にあった“赤ずきん”のイメージを一瞬で塗り替えた。
可憐な少女じゃない。
このリゼッタは、獣を斬るために生きる戦士だ。
それが、俺と彼女の――“最初の出会い”だった。
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「この森の番って……それ、どういう意味だ?」
恐る恐る尋ねると、リゼッタは斧を軽く担ぎ直し、森の奥をちらりと見る。
その横顔は、どこか哀しげだった。
「私は……この森と、村の境を守ってる」
「境?」
「獣が村に入らないように。呪いが広がらないように。……そして、私自身が村に近づかないように」
最後の一言が、妙に引っかかった。
彼女は、この森に自ら囚われているような口ぶりだった。
「それって……」
「どうでもいいでしょ。あんたには関係ない話」
リゼッタはそれ以上語ろうとせず、斧を背中に固定すると、こちらを見た。
「ついてきなさい。村までは案内する」
「え、いいのか?」
「……放っておいたら、次に会うのは死体になったあんたかもしれない。面倒だから助けるだけ」
ぶっきらぼうなその口調は、どこか優しさを隠すようでもあった。
赤いケープが翻る。
霧の中を歩き出した彼女の背を、俺は慌てて追いかける。
この世界がどうなっているのかも、何のために転移させられたのかも、まだわからない。
でも――
この少女のことを、もっと知りたいと思った。
獣を斬る斧を振るいながら、誰にも心を許さずに生きる少女。
“呪われた赤ずきん”――リゼッタ。
彼女と出会った瞬間から、俺の物語はもう、動き出していたのかもしれない。
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