プロローグ 「図書館の扉と歪んだ本」
それは、特別でもなんでもない、いつも通りの放課後だった。
季節は春。
千葉県柏市の市立図書館に、制服姿の俺――**周防辰樹**は、ふらりと足を運んでいた。
テスト前でもないし、特に読みたい本があったわけでもない。
ただ何となく、本が読みたくなった。それだけの理由だった。
「ラノベは昨日読み尽くしたし、ファンタジーって気分でもないし……」
本棚を指先でなぞりながら、奥へ奥へと足を運ぶ。
人影もまばらな図書館の一番奥――郷土資料や古書の並ぶエリアに、俺は足を踏み入れていた。
埃っぽくて、静かで、時間の止まったような空間。
そんな空気の中で、ある本が目に留まった。
――『グリム童話集(未分類)』
黄ばんだ背表紙。黒ずんだ装丁。管理シールの貼られていない、異質な本だった。
まるで、ここにあってはいけない本のように。
「……変な本」
呟きながら手を伸ばした瞬間、本がひとりでに開いた。
ページが勝手にめくれ、風もないのに紙が舞い上がる。
「なっ――」
視界が白く弾けた。重力が消える。床が消える。
浮遊感、耳鳴り、無音の世界。
何かに吸い込まれるようにして、俺の身体は落下していった。
***
……気がつけば、そこは森だった。
空は灰色の霧に覆われ、黒々とした木々が不気味に並ぶ。
草の匂いに混じって血のような臭いが鼻を突き、風も音もなく、ただ獣の唸り声だけが遠くから聞こえてくる。
「……どこだよ、ここ……」
ぬかるんだ地面に手をつき、泥に汚れた制服で立ち上がる。
あの図書館は消えた。街の喧騒も、スマホの電波も、すべてどこかへ消えた。
見たことのない森。聞いたことのない獣の声。
でも――なぜだろう。心の奥に、はっきりとした確信があった。
俺は今、“グリム童話の世界”にいる。
そしてこの場所で、すべての物語が始まる――