02 巻き戻ったその先に
エルーシアの胸元には、女神の聖紋が浮かび上がっていた。
レイノルドは驚きのあまり、目を見開いた。
「これは、いつ気がついたのだ?」
「今朝です。女神様の声を聞き、目覚めました。身体を起こしたら、すでに……」
「なんと……」
レイノルドは左手で口を押さえ、考え事を始めたようだ。エルーシアは服を整え、指示を待つ。
「エルーシア、今から神殿に行く。ついてきなさい」
「はい」
レイノルドは執事を呼び、神殿に使いを出し、馬車を用意するように申し付ける。執事は一礼して執務室を後にした。
レイノルドと同じ馬車に乗せられたエルーシアは、緊張の面持ちで身を小さくしている。一介の使用人が、主と同じ馬車に乗るなど、ありえないことだ。そんなエルーシアを目にし、レイノルドはクスリと笑みをこぼす。
馬車に揺られ、一時間ほどで神殿に到着した。神殿の奥に案内され、神官と対面する。
「ほぅ、この娘か?」
「はい、エルーシア、神官殿に女神の聖紋をお見せしなさい」
「はい」
エルーシアはボタンを外し、女神の聖紋をあらわにする。神官は聖紋に手をかざす。かざした掌が光り、聖紋も共鳴するように光りだした。
「おぉ、なんと」
神官は驚嘆の声を漏らす。
「女神様の聖紋に間違いありません。エルーシア様、あなたは聖女に選ばれました」
笑みをたたえ、エルーシアに一礼した神官を、ぽかんとして見つめる。
(一度目は、神官様にお会いすることもなかったわ。あの結末を、変えることができるかもしれない)
魔王を倒す力がほしい。エルーシアの心は逸る。
「あ、あのっ、神官様、私は魔王を倒す力がほしいです! どうか、私に聖魔法を教えてください!」
「私では無理です。王都にいる、大神官があなたを指導するでしょう」
神官は優しげな眼差しで答えてくれた。
「なら、私を王都へ連れて行ってください」
逸る気持ちを抑えられず、神官に申し出た。
「エルーシア様、王都へ行ったら、魔王を討伐するまでここに帰ることは許されません。ここを離れる前に、別れの挨拶をしたい人もいるでしょう。焦りは禁物です」
神官はエルーシアの心を見抜くようにたしなめる。
「あなたの存在を大神殿に知らせなければなりません。あなたを迎える準備も必要です。なるべく早く大神殿へ行けるように、連絡をしましょう」
神官にそこまで言われたら、黙って受け入れるしかない。エルーシアはコクリと頷いた。
帰りの馬車で、エルーシアは意気消沈した面持ちで俯いていた。一日でも早く、聖魔法を身につけたい。
一度目の失敗を胸に、自分が持つ能力の限界を超えて更に高みを目指さなければ魔王を倒せないだろう。
「エルーシア、聖女に選ばれたことを後悔しているのかい?」
俯いていたエルーシアにレイノルドは声をかけた。ハッと顔を上げて首を横に振る。
「私は、私にできることを、今すぐにでも始めたいのです。一日も無駄にしたくないです」
どうしても、気持ちが駆り立てられる。時が巻き戻って一日目だ。自分の最期が、生々しく感じられて。繰り返したくないと、心が叫ぶ。
「なら、体力作りを始めてみては? 魔王が封印された地は遠く、過酷な旅になるだろう。騎士たちの訓練を受けてみるかい?」
焦りにも似た表情がすぅっと消え去り、エルーシアの瞳が輝く。騎士たちの訓練がどれほどのものか知らず、頷いた。
「旦那様、ぜひ、騎士様の訓練に、参加させてください!」
翌日。
訓練場にへたり込むエルーシアを見下ろして、指導を任されたフォルカーが眉を下げてため息をつく。
「この広い訓練場を、十周走れと言ったが、なぜ初っ端から全速力で走るかなぁ?」
「……だって、知らなかったもの」
苦しそうに息をしているエルーシアは、普段から走ることもないので、逸る気持ちとともに、全速力で走った。
結果、訓練場の五分の一ほど走ったあたりからスピードは落ち、フォルカーの近くに戻ってきたら体力の限界を迎えて、へたり込んでしまった。
「まぁ、いいや。水を飲んで少し休め。落ち着いたら、俺も走るから、ついて来い」
「分かったわ」
フォルカーから水を受け取り、口に流し込む。熱った身体に冷たい水が沁みる。隣の訓練場からは、木剣を打ち合う音と、騎士たちの声が聞こえてくる。
「フォルカーはテオドール様の侍従なのに、なぜ騎士団にいるの?」
素朴な疑問を口にする。水を飲んでいたフォルカーの視線がエルーシアに向けられた。
「身体を鍛えて、いかなる時もテオドール様をお守りできるようになりたいんだ。俺を拾ってくれた領主様へ感謝の気持ちもあるけどな」
照れ笑いを浮かべたフォルカーは、領主が屋敷に連れてきた孤児だ。平民を装って領地を視察していたときに、野犬に襲われそうになり、追い払ったのがフォルカーだった。
エルーシアの母も、領主様に拾われたと、母から何度も聞かされている。
エルーシアの父が流行り病で亡くなり、食べるものも少なくなり、義母に家を追い出され、大きなお腹を抱えて途方に暮れていた母を、生まれてくる子の乳母にと屋敷に住まわせてくれた。
その恩に報いたいと、母もフォルカーも思っている。エルーシアも、何も困ることなく、テオドールと育ってきた。リンデンベルク領を守りたいという気持ちは強い。
「どうだ? 走れそうか?」
「ええ、大丈夫よ」
「よし! 走るか」
フォルカーはゆっくり走り出した。エルーシアも並んで走る。
「こんなにゆっくりでいいの?」
「ああ、長い距離を走るからな。十周走ってみたら分かるさ。筋肉が痛くなるぞ!」
歯を見せて、いたずらっ子のような笑顔を見せたフォルカーが言ったことを、エルーシアは身を持って知ることになる。