09 試験と勝負 4
「シヅキ。授業後、図書室でいつものように」
自分の席でぼんやりとしていたシヅキはナギトに声をかけられて、声の主を振り返った。
いつものように、という言葉通り、授業後の勉強会も今日で七日目だ。
勉強の進度を心配されるユーファだが、少しずつの学習の積み重ねで着実に知識をものにしている。試験までに合格することだけならできるだろう。
「分かった」
「先に行ってる」
ナギトが教室から出るのを視線だけで見送って、あたふたと教科書を片付けているユーファの側に寄る。
「あ、ち、ちょっと待ってくださいね!? わ!」
床にバサリと落ちたユーファの教科書を拾い、シヅキはゆっくりでいいよ、と声をかけた。
「すみません⋯⋯遅くなりました⋯⋯」
廊下を歩きながら眉を下げるユーファにシヅキは首を横に振る。
恥ずかしさからか、急いでいたからかユーファの頬は桃色に上気していた。
ゆっくりと歩きながら呼吸を整えて、落ち着いたらしいユーファが口を開く。
「⋯⋯シヅキちゃん、暑くないですか? 着物を着たことが無いのでよく分からないですけど」
シヅキの装いはいつもと同じ袴姿だ。
「うん⋯⋯少し暑いかな」
「洋服にはしないんですか?」
首を傾げるユーファは今日も涼しげなワンピースだ。淡い空色がよく似合う。
『いいね! つきちゃん、洋服着てみようよー』
「洋服は着たことないから似合わないよ」
その言葉を聞いたユーファは瞳を零れんばかりに見開いて、シヅキに詰め寄った。
「似合わないことないです! 今着ているような深緑も上品ですし、薄い色でもよく似合う筈です! こういう柔らかい生地のワンピースでも、今外国で流行っている裾を引きずる意匠も絶対可愛い──ひっ」
きらきらした目でひとしきり喋ったと思ったら、窓の外を見て身体を硬直させた。
リッカの磨かれた窓硝子に黒い物体が何度もぶつかっている。
『⋯⋯カラス』
「な、なんですかこの子。痛そうですけど⋯⋯?」
ドン、ドン、と音が響く勢いでぶつかり必死に合図を送ってくるカラスにシヅキは目を背けたくなった。出来るなら無視してしまいたい。
シヅキの思いを察知したかのようにカラスの衝突は勢いを増す。
『どうせ内容は分かってるけど』
声色を硬くしたレンに心の中で同意しながらシヅキは仕方なく窓を開けた。
転がり込むようにカラスが廊下に落ちて、瞬間、煙になって消えた。
「え、ええ? あの子、魔法だったんですか?」
「そう。私の家の伝達魔法」
シヅキが煙が晴れた床から一枚の黒い羽をつまみ上げる。その羽にはいつもと変わらない文言が書いてあった。
「なんだ⋯⋯知ってるからあんなに動じなかったんですね。これは⋯⋯古語? さっぱり読めません」
【次の新月の夜 屋敷に来るように】
古語で書かれたその文を読むことができる者は今の時代には少ないだろう。
内容が気になる、と顔に書いてあるユーファに小さく苦笑して、シヅキは羽を鞄に押し込んだ。
「たまには家に帰って来いって、父親が」
「お家にですか。シヅキちゃん、お父様とは別で住んでいるんですか?」
ぱちくり、とユーファの大きな瞳が何度も瞬きする。
「あー、うん。一人⋯⋯? 暮らし」
『二人暮らしだよ! 俺も入れてよ!』
「え! 一人暮らしですか! 知りませんでした⋯⋯すごいですね」
『二人暮らし!』
感心の声を上げるユーファにレンの不満が大きくなった。
『うー。納得いかない。つきちゃん、ほんとのこと言ってくれれば良いのに。ユーファちゃんにも声が通じないかな?』
指輪から唸り声が漏れそうになってシヅキは慌てて、トン、トン、と合図を送る。
なおも言い募るレンにシヅキが顔をしかめた所で、ユーファが不思議そうに指輪を覗き込んだ。
「シヅキちゃん? どうかしましたか?」
シヅキははっとして手を下ろし、図書室が見えたことにほっとする。
「何でもない。早く入ろう」
扉に手をかけ入ろうとしていたシヅキは、部屋の中から聞こえてきた声に、ぴたりと足を止めた。
──
授業後すぐ、図書室で教科書を開いたナギトはゆっくりと近づいてくる気配に意識を向けた。
規則的な足音は図書室の前で躊躇するようにしばらく止まっていたが、扉を開けると真っ直ぐにナギトの方へと向かってくる。
「⋯⋯ちょっと良いかしら」
座るナギトに伺う口調でありながらも、意思の強そうな眉からは下手に出る気は毛頭無い様子が伝わった。
「入学式では自己紹介しましたけど、改めて。華族の花梨家が長女、シアです」
ようやくナギトが視線を上げた。
「ナギトくん。単刀直入に言いますけど、今度の試験、負けてくださらないかしら」
沈黙を作るのが耐えられない、というようにシアは返事を待つより先に口を開く。
「もちろん、負けていただくなら、花梨の家の力で望むもの何でも取り寄せられるわ。隣国の古書でも、珍しいお菓子でも、流行りの布でも差し上げます」
「⋯⋯俺がそんなものを望むと思っているのか? 大体、そっちがしかけた勝負だ。頭を下げて無効にするならともかく、俺を相手に負けろとは」
ナギトは顔に冷笑を浮かべた。
「甘くみられたものだな」
図書室を照らしていた太陽が雲に隠れて、部屋の中が薄暗くなる。シアはぎゅっとスカートを握りしめた。
「勝負の体は守りたいんだろう? そっちの事情は知らないが。俺たちに勝ちたいのなら実力で勝て」
シアはぎり、と音がしそうな程歯を食い縛り、しかし何を言うことも無く、ナギトに背を向ける。
「⋯⋯っ」
扉を開けたすぐ側にシヅキとユーファを認めて、眉を思い切り歪めると早足で去っていった。
──
「ナギト、今のは?」
燐寸で図書室の洋燈に火をつけようとするナギトにシヅキはそっと近づいた。
「大した話じゃない」
ふ、と燐寸の火を吹き消すと細い煙が靡いた。
ナギトはシヅキたちが扉のすぐ前に居たことにも気づいているだろう。その上でこの答えだ。
シヅキは気にするのを止めて教科書を取り出した。
「揃ってたか。悪い! 遅くなった!」
息を切らしたリュダが走り寄ってくる。
シヅキとユーファが来てすぐのことだ。シヅキは待ってない、と首を横に振った。
「先生の手伝いさせられてたんだよ」
「あ、お疲れ様です。⋯⋯リュダくん、それは何ですか?」
ユーファがリュダの持つ袋を覗き込む。
「手伝いの礼にってラギアス先生がくれたんだ。皆で食べようぜ」
「良いんですか!?」
ユーファが目を輝かせる。どうやら中身はお菓子らしい。
「食べるなら鐘が鳴ってからにしよう。それまでは集中してくれ」
「はい!」
ユーファの元気な返事だ。
いつもよりも気合いが入っている様子を横目にみて、シヅキも手に持った教科書に視線を落とした。
『何のお菓子だろ。つきちゃん、分かる? 俺、この状態じゃ匂いは分からないんだよね』
包装されたお菓子だ。犬でなければ、分かる筈がない。
シヅキがコツ、コツと指輪を叩く。
『分かんないかー。見るまでのお楽しみだね』
そうだね、とシヅキは心の中だけで返事をしてようやく勉強に取りかかった。
それはまるで宝石だった。
一口台の黒、白、茶色のお菓子。
所々に金の粉がかかっている。
「これ、何?」
「え? 加加阿菓子だろ」
「チョコレート⋯⋯」
きょとんとするシヅキにリュダは意外そうな顔になる。
「知らないのか。こっちの方が甘い、こっちの方が苦い、これはその中間だ」
「私だけ知らない?」
「私は一回だけ食べたことがあります」
「俺も初めて見る」
「ナギトも無いのか! 食べてみろよ、美味しいから」
シヅキは深い茶色を一粒手に取った。
『ほら、つきちゃんの髪の色って言ったでしょ』
確かに、似ているかもしれない。
シヅキは恐る恐るチョコレートを口に含む。
じわりと溶けた感覚に目を見開いた。
「⋯⋯!」
『美味しい?』
「⋯⋯美味しい」
「確かに、美味い。かなり独特だが」
「隣国の菓子だからな。確か、王都でも一つか二つの店しかなかったと思うぜ」
「いつでもすごく長い列が出来ていて、とても買えるような感じじゃないんですよ」
リュダとユーファが顔を見合わせて頷きあう。
チョコレートを売る店には、貴族が並ばせている侍女の列ができて途切れることが無い。日が暮れるまで並んで買うことができない者もいた。
『いいなー。俺も食べてみたい』
「そうだ、シヅキ。美味しいからって使役している犬に食べさせるなよ。犬の身体には悪いらしいぜ」
『ええ?』
まるでレンの声が聞こえたように話したリュダに驚きつつシヅキは真剣に頷く。
「分かった。ありがとう」
『つきちゃん? 俺、絶対食べても大丈夫だよ。普通の犬じゃないもん。銀の民は犬にも人間にもなれるだけ。犬じゃない!』
大きくなった声にシヅキは苦笑を浮かべる。次の機会には食べさせよう、と思いながら、もう一つチョコレートを口に含んだ。