【六波羅の高氏】
建武の新政が始まった頃、足利高氏は六波羅を本拠地とした。
鎌倉幕府の遺産「六波羅」を受け継ぎ、自らの基盤としたのである。①将軍の本邸、②六波羅の官僚、③畿内・西国への勅命を受ける権利、④畿内近国の軍事を統括する権限、⑤畿内近国の裁判を行なう権利。以上の五つが、高氏が引き継ぐべき遺産だった。
これらの多くは、後の室町幕府に継承される。したがって、「六波羅は室町幕府の母体となった」と言えるかもしれない。ところで、六波羅が本格的な機関に成長したのは、建治年間以降である(【建治年間の幕府】参照)。そう考えると、鎌倉時代後半の六波羅指導層の活躍が、実は非常に大きな意味を持っていた事に気が付く。かの“嘉元の乱”で倒れた北条時村、鎌倉幕府と共に滅んだ金沢貞顕。単に保守的な政治家と思われた彼らの名は、「次代へ大きな遺産を伝えた影の立役者」として、記憶され直すべきだろう。
しかし、問題もあった。「九州、周防・長門の統括」である。
③・④・⑤を検討すると、“六波羅には九州周辺の軍事・裁判権がない”事が分かる。
そう、「六波羅を抑える」だけでは、九州武士の統括ができないのである。
これは、高氏も自覚するところだった。だからこそ、①の出番である。
「源頼朝の後継者は全国の武士を統括できる。自分は鎮守府将軍であり、六波羅の将軍邸に住む。事実上の頼朝の後継者である。だから、九州の武士も統括できる」
高氏は、征夷大将軍になる事を認められなかった。
そのため、数年間この“既成事実”だけを盾に、全国の武士層に君臨した。
『鎮西警固幷日向・薩摩両国事、任綸旨、可被致其沙汰之状如件』(「島津家文書」建武元年九月十二日足利尊氏施行状(南九―一二六)・「建武政権における足利尊氏の立場」四八頁)
“島津殿、九州の警固と日向・薩摩の沙汰は、綸旨に従って行なうように”
そして、専ら後醍醐天皇をたて、諸国の武士達に綸旨(天皇の命令)を守らせた。
『竹原庄先年馳参篠村依軍忠、先々年預御吹挙、先々年八月四日 綸旨ヲ被進』(「小早川家文書」建武三年二月七日小早川祐景申状(南中二四〇)・「建武政権における足利尊氏の立場」四二頁)
“竹原庄は、篠村に参じた功を二年前「将軍から帝に披露いただき」、綸旨を賜わりました”
後世、いわれのない非難を受けているが、高氏こそが建武政権の柱石だった。
一方で、室町幕府の権限が、結局九州に対して弱かった原因は、「六波羅の管轄外にあった」という鎌倉時代の事情にまで、さかのぼる事ができる。九州の武士団は、後年、高氏が「源頼朝」とは違うと判断し、忠実な態度を一気に捨てる事になる。




